今月の詩 室生犀星・河合酔銘

今月の詩             2014年4月

 また春がきた。これから約一年間、現代文を勉強してゆく。
 高校の勉強の大半は受験勉強だ。しかし、国語のほんとうの勉強はもっともっと幅広く奥深い。そこで、これから月に一度、こういうものをプリントにして渡すことにする。
 これを読んだからといって、国語の偏差値があがるわけではない。だけど、ひょっとしたら将来、これをちゃんと読んだ生徒のほうが仕合わせになれたらいいなと思っている。

 まず第一回目に言いたいことは、受験校や学科を決めたからといって、あるいはその大学や専門学校に合格したからといって、それで君たちの人生のなにが決まったわけでもない、ということだ。
 君たちの今年の現代文教師は文学部の出身だが、別に国語の教師になろうと思って大学に行ったわけではない。じゃ、なぜ大学に行ったかというと、遊びたかったからだ。
 社会人になる前に、一度だけでいいから、好きなことを好きなだけしてみたかった。
 具体的にいうと、4年間読みたい本を読みたいだけ読んでみたかった。ほかに大学に行きたい理由はなかった。「4年間好きなことをしたいだけしたら、たぶんあとは我慢ができるだろう。」もし、大学時代に好きなことを十分にできなかったら、そのあとの約38年間はただただ辛いものになってしまいそうな気がした。(その後、年給支給年齢があがって、もっと働かなくちゃいけなくなったけど)
 実際には、働き始めてみると、「自分自身の時間ってこんなに少ないのか!?」と驚いた。だから、いちばん勉強したのは実は、就職した一年目だったかもしれない。
 少なくとも、自分の学んだ文学部の出身者で「サイコウ、サイダイの遊びは勉強だ」ということに異存を唱える者は少数派だと思う。
 面白いのです。勉強するということはサイコウに楽しいのです。
 黒田杏子という現役の俳人の句。
   この年を遊びつくして曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 国語教師はそれを少しいじって自分の座右の銘としたい。
   この年 も 遊びつくして曼珠沙華
    ※曼珠沙華は秋のお彼岸のころに咲く、別名彼岸花

 人生であとひとつ面白かったのは「働く」こと。とにかく夢中になって、「どこからが趣味どこまでが仕事」──これは大好きな、黛まどかの現代俳句「どこからが恋どこまでが冬の空」のもじり。──なのか自分でも分からないほどだった。もう現役は引退したけれど、思いっきり楽しくて、思いっきり疲れた。定年になったとき、その疲れ方にじゅうぶん満足した。(「自分の能力の高低は関係ない。オレは自分にやれるだけのことは一切けちらず、手抜きせずにやった。」)
 この「勉強と仕事」のふたつの面白いことを経験でき、さらにいまもそれをチョコチョコながら継続していられる自分の人生は大成功だと自負している。
 だいそれた夢だけど、できうることならば、君たちがその「勉強する楽しさ」に目覚め、将来「働くよろこび(家事労働も立派な「働き」です。)」で充足感をあじわえる大人になる素地をほんの少しでも培(つちか)えたらと願っている。

 これから毎月、大好きな詩や詩人(歌人俳人)を紹介していきます。
 詩や歌は、プロの歌手専用のものではなく、みんなの生活を支えているものだと信じているからです。

   子どもが生まれた
   わたしによく似ている
   どこかが似ている
   声までが似ている
   おこると歯がゆそうに顔を振る
   そこがよく似ている
   あまり似ているので
   長く見つめられない   室生犀星(むろうさいせい)






今月の詩           2014年5月

 先月の第一回に「家事労働も立派な″働き″です」と書いた。今月はその続きの話からはじめる。
 学生時代、大学校舎の隣の建物で韓国からの留学生たちが「ハングル講座」を無料奉仕でやっているのを知った。「12年間勉強をつづけたのに英語を話せない君も、韓国語なら1〜2年で習得できる」という宣伝文句につられて勉強してみることにした。
 行ってみると講師は、東大や東工大の大学院で学ぶいわばエリートたち。(当時の韓国はまだ貧しくて、エリートや大金持ちしか国外に出ることができなかった。)いわゆる韓流ブームの前で、「ハングル講座」は日本人が自分たちの国に無関心なのに危機感を感じた彼らの愛国心の発露だった。ただし、あとで知ったのだが、その会場は「日帝時代」の1919年(大正8年関東大震災が起こったのは1923年大正12年9月1日。)3月1日、韓国からの留学生たちが日本の警察に検挙されるのを覚悟の上で「独立宣言文」を読み上げた場所だった。 
 講師たちは語学教師としてはまったくの素人だったから、教え方はむちゃくちゃだった。第一回目の授業のとき黒板にびっしりハングルを書いてその下にカタカナで発音を書き、「来週までに暗唱できるようになってきなさい。」次の週、教室に入ってみると生徒の数が半分に減っている。半年後には50人以上いた受講者が10人ほどになっていた。そのなかで在日は2名のみ。「去年もこうでした」。世話をしている在日の若者が寂しそうに言う。「親は韓国語を話せるので、自分もすぐ覚えられると勘違いしているんです。だから、外国語を学ぶんだという気持の強い日本人のほうが忍耐力でまさっている。」
 しかし、わずか半年後にはひとりで韓国旅行をしたのだから、あの先生たちのスパルタ教育は大成功したことになる。
 授業が終わったあと、「時間のある人はついてきなさい。」喫茶店や居酒屋に、先生のおごりで連れて行ってくれた。そのなかの一人のお酒が大好きな先生にいたっては、授業がはじまってすぐ、「あ、先生、もう飲んでいらっしゃったでしょう?」「うん、いや何も」。その日は横道の話ばかりで授業にならなかったが、「カミさんが国に戻ってしまって寂しくって仕方がない。今度の日曜日あそびに来ないか?」
 その日曜日のあつあつコムタンと丼マッコリのうまさは格別だった。
 その横道の話に「パタ」が出てきた。
 日本の古都は奈良だけど、韓国語でナラというと「国」の意味になる。百済は韓国ではペクチェなのに日本人だけがクダラと呼ぶ。クダラはあるいは「クンナラ」が縮まったのかもしれない。だったらそれは、韓国語では「故国」という意味になる。
 韓国語で「海」は「パダ」。日本の古語で「わたつみ」は「海神」のこと。「海」は「わだ」である。(「ツミ」は「の神」)日本語の「わた」と韓国語の「パタ」はもともと同じことばだったんじゃないかな。ひょっとしたら渡来人秦(はた)氏のハタも語源は一緒なのかもしれんぞ。

 ハタ氏は織物の技術を日本に伝えた氏族らしい。布を織る機械は「はた」と呼び、布を織ることは「機織り(はたおり)」という。
 しかし、日本語の「はた」の範囲はもっと広い。
 農耕をする場所、つまり人々が開墾をして農作物を育てる場所も「はた(畑・畠)」とよぶ。(ちなみに「畠」は日本人がつくった国字だと何かに書いてあった)。
 昔話には、「お婆ちゃんは家内で、お爺ちゃんは外で」ハタらく話がよく出てくる。
 機織りをするのも、農作業をするのも、おなじ「ハタらく」ことなのだ。海辺の男たちの場合は畠で働くのではなく「わた」に出て働き、その間畠は女が守ってハタらく。
 それが日本人たちの基本的な生活のスタイルだった。
 「ハタ」にはそのほかに「旗」もある。凧揚(たこあ)げの「凧」のことを「ハタ」と呼ぶ例もあったと思うが、わざわざ調べるのは面倒くさいから、興味が出てきたひとのみインターネットに入力してみなさい。
 「はたらき」という古語を総じて眺めてみると、もともとの日本語の「はたらき」には「現金収入を得るための行為」という意味合いが乏しいのに気づく。たとえば、ほんのちょっとまえまで使われていた「気働(きばたら)き」は「気転」とか「気づかい」のことで、いわゆる「生業(なりわい)=せいぎょう」の意味合いはなかった。
 いまでも「頭をはたらかせろ」というとき、「金を稼げ」という直接的な意味はまったくない。

 もう「畠(ハタ)」や「海(ワタ)」で、農業や漁業に従事しているひとの数は実質的には勤労者の一割を切っているのではないかと思われる。
 でも、いまもこの国では、「金儲け」とは次元のちがう「ハタらく」文化がイキイキと残っている気がする。
 子どもたちが汚しまくった衣類を洗濯して干して取り入れて、やっと前半戦を終えてから、腕にヨリをかけて作った晩飯を子どもたちがモリモリ食べて、腹一杯になった子から順にごろっと転がって眠り始める。その子たちを布団に運んでから、夫婦でやっと落ちついて食事をとりはじめる。「どうやら今日も終わったね。」「お疲れさまでした。」
 お父さんもお母さんも一日の「ハタらき」が終わったのだ。
 最近はやりの「おもてなし」は、「はたらき」文化の新バージョンなのかもしれない。

 今日の話も、センター試験を受ける前までにはパーフェクトに忘れることを勧めます。
 ただ、勉強であれ、ビジネスであれ、「はたらく」ことは実に楽しい。んだよ、という国語教師のメッセージを心のどこかに留めておいてくれたら本望(ほんもう)です。※この「本望」は古語の「本意(ほい)」のつもりで使いました。



今月の詩           2014年5月

 先月の第一回に「家事労働も立派な″働き″です」と書いた。今月はその続きの話からはじめる。
 学生時代、大学校舎の隣の建物で韓国からの留学生たちが「ハングル講座」を無料奉仕でやっているのを知った。「12年間勉強をつづけたのに英語を話せない君も、韓国語なら1〜2年で習得できる」という宣伝文句につられて勉強してみることにした。
 行ってみると講師は、東大や東工大の大学院で学ぶいわばエリートたち。(当時の韓国はまだ貧しくて、エリートや大金持ちしか国外に出ることができなかった。)いわゆる韓流ブームの前で、「ハングル講座」は日本人が自分たちの国に無関心なのに危機感を感じた彼らの愛国心の発露だった。ただし、あとで知ったのだが、その会場は「日帝時代」の1919年(大正8年関東大震災が起こったのは1923年大正12年9月1日。)3月1日、韓国からの留学生たちが日本の警察に検挙されるのを覚悟の上で「独立宣言文」を読み上げた場所だった。 
 講師たちは語学教師としてはまったくの素人だったから、教え方はむちゃくちゃだった。第一回目の授業のとき黒板にびっしりハングルを書いてその下にカタカナで発音を書き、「来週までに暗唱できるようになってきなさい。」次の週、教室に入ってみると生徒の数が半分に減っている。半年後には50人以上いた受講者が10人ほどになっていた。そのなかで在日は2名のみ。「去年もこうでした」。世話をしている在日の若者が寂しそうに言う。「親は韓国語を話せるので、自分もすぐ覚えられると勘違いしているんです。だから、外国語を学ぶんだという気持の強い日本人のほうが忍耐力でまさっている。」
 しかし、わずか半年後にはひとりで韓国旅行をしたのだから、あの先生たちのスパルタ教育は大成功したことになる。
 授業が終わったあと、「時間のある人はついてきなさい。」喫茶店や居酒屋に、先生のおごりで連れて行ってくれた。そのなかの一人のお酒が大好きな先生にいたっては、授業がはじまってすぐ、「あ、先生、もう飲んでいらっしゃったでしょう?」「うん、いや何も」。その日は横道の話ばかりで授業にならなかったが、「カミさんが国に戻ってしまって寂しくって仕方がない。今度の日曜日あそびに来ないか?」
 その日曜日のあつあつコムタンと丼マッコリのうまさは格別だった。
 その横道の話に「パタ」が出てきた。
 日本の古都は奈良だけど、韓国語でナラというと「国」の意味になる。百済は韓国ではペクチェなのに日本人だけがクダラと呼ぶ。クダラはあるいは「クンナラ」が縮まったのかもしれない。だったらそれは、韓国語では「故国」という意味になる。
 韓国語で「海」は「パダ」。日本の古語で「わたつみ」は「海神」のこと。「海」は「わだ」である。(「ツミ」は「の神」)日本語の「わた」と韓国語の「パタ」はもともと同じことばだったんじゃないかな。ひょっとしたら渡来人秦(はた)氏のハタも語源は一緒なのかもしれんぞ。

 ハタ氏は織物の技術を日本に伝えた氏族らしい。布を織る機械は「はた」と呼び、布を織ることは「機織り(はたおり)」という。
 しかし、日本語の「はた」の範囲はもっと広い。
 農耕をする場所、つまり人々が開墾をして農作物を育てる場所も「はた(畑・畠)」とよぶ。(ちなみに「畠」は日本人がつくった国字だと何かに書いてあった)。
 昔話には、「お婆ちゃんは家内で、お爺ちゃんは外で」働く話がよく出てくる。
 機織りをするのも、農作業をするのも、おなじ「ハタらく」ことなのだ。海辺の男たちの場合は畠で働くのではなく「わた」に出て働き、その間畠は女が守ってハタらく。
 それが日本人たちの基本的な生活のスタイルだった。
 「ハタ」にはそのほかに「旗」もある。凧揚げの「凧」のことを「ハタ」と呼ぶ例もあったと思うが、わざわざ調べるのは面倒くさいから、興味が出てきたひとのみインターネットに入力してみなさい。
 「はたらき」という古語を総じて眺めてみると、もともとの日本語の「はたらき」には「現金収入を得るための行為」という意味合いが乏しいのに気づく。たとえば、ほんのちょっとまえまで使われていた「気働き(きばたらき)」は「気転」とか「気づかい」のことで、いわゆる「生業せいぎょう(なりわい)」の意味合いはなかった。
 いまでも「頭をはたらかせろ」というとき、「金を稼げ」という直接的な意味はまったくない。

 もう「畠ハタ」や「海ワタ」で、農業や漁業専業のひとの数は実質的には勤労者の一割を切っているのではないかと思われる。
 でも、いまもこの国では、「金儲け」とは次元のちがう「ハタらく」文化がイキイキと残っている気がする。
 子どもたちが汚しまくった衣類を洗濯して干して取り入れて、やっと前半戦を終えてから、腕にヨリをかけて作った晩飯を子どもたちがモリモリ食べて、腹一杯になった子から順にごろっと転がって眠り始める。その子たちを布団に運んでから、夫婦でやっと落ちついて食事をとりはじめる。「どうやら今日も終わったね。」「お疲れさまでした。」
 お父さんもお母さんも一日の「はたらき」が終わったのだ。
 最近はやりの「おもてなし」は、「はたらき」文化の新バージョンなのかもしれない。

 今日の話も、センター試験を受ける前までにはパーフェクトに忘れることを勧めます。
 ただ、勉強であれ、ビジネスであれ、「はたらく」ことは実に楽しい。んだよ、という国語教師のメッセージを心のどこかに留めておいてくれたら本望(ほんもう)です。※この「本望」は古語の「本意ほい」のつもりで使いました。
 


     ゆずり葉   河井酔茗(すいめい)

子どもたちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉ができると
入り代わってふるい葉が落ちてしまふのです。

こんな厚い葉
こんな大きい葉でも
新しい葉ができると無造作(むぞうさ)に落ちる
新しい葉にいのちを譲(ゆず)ってーー。

子どもたちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
凡(すべ)てのものがお前たちに譲(ゆず)られるのです。太陽の廻(まわ)るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そっくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受け取るのです。
幸福なる子どもたちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどーー。

世のお父さん お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちに譲ってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、一生懸命に造(つく)ってゐます。

今、お前たちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちは延(の)びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に
気がつきます。

そしたら子どもたちよ。
もう一度ゆずり葉の木下に立って
ゆずり葉を見る時が来るでせう。