今月の詩 ユンドンヂュ

 いくら読んでも偏差値は上がりそうにない国語学習プリント

今月の詩                   
                       2015年8月

小さなヒロイズムなんか捨てろ。

 先月末、とつぜん君たちのひとりから「先生はどうして色んなことを知っているんですか」と訊かれた。
 私の知っている量は実は丸っきりたいしたことはない。ただ、知っていることだけを話しているから、たくさん知っているように感じるだけなのです。
 以前「フクロウは毎晩、who? how? why?と鳴き続けている」と書いたイギリスの詩人を紹介したが、その詩人はまた「人は、自分が知っていると思っている以上のことを知っている」と書いていた。きっとそうなのだ。
 とは言えわたしは、ずうっとこの世界が好きなのだと思う。
 君たちだって、好きな人が現れたらきっとその人のことをもっともっと知りたいと思うようになるはずだ。わたしはこの世界のことをもっともっと知りたい。
 「世界」だけじゃない、私は、自分が住んだ場所、出かけた所、出会った人。想い出しきれないほどたくさんの場所や人を好きになった。その場所や人のなかには「自分のもひとつの学校」と思っている場所もあるし、「自分の恩人」と思っている人もある。
 「もしそこに行かなかったら?」「もしあの人に出会わなかったら?」いまの私はあり得ない。
 
 中学二年のとき不思議な英語の先生が担任になった。われわれはすぐ「ジッチャン」とあだ名をつけたが、あとで考えてみるとまだ30代だったはずだ。
 ジッチャンは英語の教え方が上手だったし、鉄棒をやらせたら体育の先生なんかより遙かにカッコよかった。ただやたらと厳しかった。「江田島の出身らしいよ。」「軍人上がりかぁ。」昔、広島の江田島には海軍兵学校があり、そこの出身者はエリートだった。しかし、敗戦とともに閉鎖され、途中経過は知らないけれどジッチャンは家族を養うために福岡で英語の教師になった。
 これはずっと後になって知ったことだけれど、当時の江田島の校長は腹の据わった人で、戦時中「敵性語」として教えることが禁じられた英語を最後まで教え続けた。江田島の生徒たちが「戦争の役に立たない英語をどうして勉強させるのか!?」と抗議したとき校長は、「この戦争はもうすぐ終わる。そのあとの時のために英語を勉強させているんだ!」と生徒たちを叱ったという。じっさい敗戦後、フルブライト留学生(何のこっちゃ?と思う者はネットに入力してみること)になってアメリカに渡り、新しい生き方を見つけた江田島出身の人を知っている。
 その校長は敗戦後、もとの同僚たちとの付き合いをいっさいせず、軍人恩給(いまの年金)を受け取らず、塾を開いて子どもたちに英語や算数を教えて生活したと聞いている。ジッチャンはそういう人の教え子だった。
 私はなんとなく好きになって、ジッチャンが宿直(しゅくちょく=当時はそういう制度があって、先生たちが交替で学校に泊まり込んでいた)のときは父親の酒をこっそりサイダー壜(ビン)につめて「先生、陣中見舞いです」と持っていった。ジッチャンのお返しはいつも出前のラーメン。その「北京ラーメン」のうまかったこと!そのうちジッチャンといっしょに学校に泊まり込んで、いろんな話を聞いた(はずだ)けど、一つのこと以外は全部忘れた。覚えている一つのこととは「いまの学年で嫁さんにするなら○○さんがいちばんいいかも知れんなぁ」という言葉。実はその○○さんは保育園から小学校一年生までいつも手をつないで登下校した相手だった。(「何というエロ爺!でももう遅い!」)
 あるときジッチャンに呼び出された。「すまんが、今日学校に泊まってくれんか?」何ごとかと聞くと、次の日に研究授業をしなくてはいけないのに、まだ準備が出来ていないというのだ。(ジッチャンの一大事!)完璧な徹夜をしてとにかく準備をし、そのまま研究授業を迎えることが出来た。教室のうしろにビシっとした服装の知らないオジサンやオバサンがずらっと見に来ていたから大切な授業だったのだろう。それが終わったあと「先生、宿直室で眠らせて下さい」以後、放課後になるまでのことは全く覚えていない。

 そのジッチャンがあるとき帰りのHRで唐突(トウトツ=出し抜け)に「ちっぽけなヒロイズムなんか捨てろ!」と言った。具体的に思い当たることはなかったけど瞬間的に「ジッチャンはオレに向かって言っている」と直感した。そしてそれ以後ずっと、ジッチャンのことばは自分の信条のひとつになっている。「ちっぽけなヒロイズムなんか捨てろ」捨てろ! 捨てろ!
 ヒロイズム(日本語に直すなら「客気(カッキ)」なのだろうが、もう死語に近い)なんか捨てて、捨てて、捨てまくって残ったのは、何の変哲(ヘンテツ)もないただの日常生活。でもその日常生活の何と貴重なことか。「ジッチャンはきっとオレを心配して、いちばん大切なことを教えようとしてくれたんだ」
 その後先生はどこかに姿を消してしまった。大人になってから、上に書いた○○さんから電話が届いた。「先生に会ってきたよ!」
 人生の途中で聴力を失い、社会から隠れるようにして生活していらっしゃったのだ。すぐに「会いたい」という手紙を出したが、「すまん。お前だけじゃないけど、いまは会う気になれない。」(○○さんは、子供の時も今も、私とちがって躊躇するという所がない。)
 それから随分たったあと「福岡に行く用事ができた。会うか?」と手紙が届いた。しかし、偶々(たまたま)どうにも外せない仕事がある日だったので「残念ながら会えません」と返事を書いた。そして、その次に先生のことを知ったのは奥さんからの訃報(フホウ)電話だった。
 「あの人ね。よくアラキは、アラキがって言ってたの。だから会ったこともないのにあなたの名前だけはを覚えていたの。だから元気で頑張りなさいね」

「ちっぽけなヒロイズムなんか捨てろ」
 先生はあの時、どうして急にあんなことを言ったんだろうとずっと気になっていた。もちろん本当のことは分からずじまいだ。でも、もともと妄想癖(もうそうへき)が強いので、いまはこんな風に想像している。
 日本が戦争に負けかけた時か、負けた直後、動揺していきり立ったジッチャンたちに校長か他の先生かが一喝(イッカツ)してそう言ったではなかったのだろうか。
 「ちっぽけなヒロイズムなんか捨てろ! お前たちにはこれからを生きていく義務があるんだ!」

 ある人は言っている。
 「われわれは理性で考え、感情で行動する。」
 考えと行動は連動していないほうがフツウなのだ、という意味なのだと思う。そう思うし、そう言い切った人をすごいとも思う。なのに「自分は考えと行動が連動している」と思いこんでいる人のなんと多いことか。
 考えと行動が連動している人間はヒーローではなくレジェンドなんだと思う。でも、(なろうと思ってもなれやしないけど)レジェンドになんかなりたくもない。老教師にとってもっとも大切なのは「いま」と「ここ」だ。
──てやんでぇ。オレは最後まで極(ご)く極く少数の家族や友だちといっしょに──(小さな声で)「生徒たちとも」──生活していくぞ。
 その家族のなかには、後ろに載せるピッピやガロも含まれている。
 自分にとっていちばん優先されているのは考えなどではなく、感情なんだな、ということを再確認できたので満足して今日は終わります。

 今月の詩は、7月号で名前だけ紹介したユンドンヂュの『天と風と星と詩』です。
 ユンドンヂュは同志社大学に留学中、治安維持法に反した廉(かど)で逮捕され、有罪(祖国の独立運動)判決を受けて、福岡刑務所で服役中に亡くなりました。福岡空港に記念公園を作りたいと考えた所以(ゆえん)です。まだ27歳でした。
 彼の詩集はその死後、祖国が独立を取り戻してから、友人たちによって出版されたのだそうです。
 なお、それより以前に似たタイトルの小説『光と風と夢』を『山月記』の中島敦がその早すぎる晩年に書いています。これもまた玉手箱のような小説です。

   天と風と星と詩 尹東柱(ユンドンヂュ)

息絶える日まで天(そら)を仰ぎ
一点の恥なきことを、
木の葉にそよぐ風にも
私は心痛めた。
星を詠(うた)う心で
全ての死にゆくものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩み行かねばならない

今夜も星が風に擦れている。

      1941、11、20

 ユンドンヂュには聞こえていた「風に擦れる星」の音ってどんな音だったのかなぁ。