渡辺松男『蝶』以前/以後

渡辺松男 歌集 『蝶』以前 抄録

寒気氾濫(一九九七)

重力をあざ笑いつつ大股でツァラトゥストラは深山に消えた

ふくろうのごとき月光ほおほおと潤いおびて樹海にそそぐ

恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし

一本の木が瞑想を開始して倒さるるまで立ちておりたり

冬の日のあたたかにして老木は吾に緘黙を宥してくれる

シベリアを父のいうとき樹は凍えて根は意志以下のすさまじき心

約束のごとく葉を落とし終え樹は重心を地下に還せり

わが死後も膨らみてゆく樹瘤を冬の日射しが暖めている

榛の木に花咲き春はきたるらし木に向かい吾(あ)はすこしく吃る

秋の雲うっすらと浮き〈沈黙〉の縁(へり)に牡牛は立ちつづけたり

戦前ははじまりているという父の夕映えは立ちしままなる駱駝

土という滅びる巨人ほろびつつ樹根まるごと抱きて眠る

父は酔いて帰りてゆけり寒々と罅(ひび)われし樹のごとき銀河よ

アリョーシャよ黙って突ったっていると万の戦(そよ)ぎの樹に劣るのだ

月の下を流るるなかにわれもあり濁れる水を秘めてゆくなり

むかし疎外ということばあり今もあるような感じに吹けるビル風

背中のみ見せて先行く人があり容赦なくわれはその背中を見る

ひとり夜にうずくまるとき闇よりも真っ黒なもの 犀のにおいす

重力の自滅を願う日もありて山塊はわが濁りのかたち

根が地下で無数の口をあけているせつなさよ明けてさやぐさみどり

宇宙から収縮をしてきしもののかがやくかたさ鬼胡桃なり

森のなかの空へ拓かれし場所に出でなにもかもいえそうでおそろし

存在をむき出しにせよ冬の山に島山椒の棘甲走る

会葬に生者のみ集いくるふしぎ空に級木(しなのき)の葉がひるがえる

桐の花咲きしずもれるしたに来てどうすればわれは宙に浮くのか

石の上の蜂いっぴきの死へそそぐ四十五億歳の白光

木の幹と幹とが軋みあう音の好きとか嫌いとかではないぞ

星雲が幾億の星孕みつつ哭いていないとどうして言える

存在ということ思う冬真昼木と釣り合える位置まで下がる

切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ

沈黙を守らんとする冬木のなかにひともと紅梅ひらく

シャガールの馬浮く界の暖色へほんわりと浮遊はじめるからだ

汗ばむということ秘密めきて春霞する谷(やと)を行くなり

重力は曲線となりゆうらりと君の乳房をつたわりゆけり

山よ笑え 若葉に眩む朝礼のおのこらにみな睾丸が垂る

初夏のわれは野に立つ杭となり君の帽子の飛びくるを受く

輪郭の固き少女の触るるほど近づきてきて輪郭を消す

声を張り上げるものこそ中心ぞ日輪へ鳴く葦(よし)切(きり)の口

立ったまま枯れているなんてわりあいにぼんやりとしているんだな木は

死と政治のみがおそろし休日の日向に小椋佳など聴けど

ワープロに太虚という字をたたきこみわれには捨つるものばかりなり

誰よりも俯きてあれわが日々よ俯かざれば時代が見えぬ

一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日

目瞑ればわたしも樹々になれそうな涼しき夜を啼く青葉木

沈黙がぬくみと感じられるまで一対一の欅と私

ほんとうは迷えもしない人生をひととき巨大迷路に遊ぶ

登るほど空青くなる八月の何かを決意したき山道

明快な樹と君はいう冬の日に欅のもとを行く明るさよ

断言をなしえし後のごとく見え冬陽に浄し欅の幹は

星は孤独の位置にそれぞれが張りつめていることの清潔

樹のどんな思いが春を呼ぶのかとけやきの幹に耳押しあてる

野の芹をともに摘みつつ何処にもいそうでいない君とおもいぬ

君の乳房やや小さきの弾むときかなたで麦の刈り取り進む

永遠に会えざること 冬の日はなかばはさびしくなかばは浄たり

永劫のごとく澄みたる冬の蜆(しじみ)蝶(ちよう)は手に掬えそうなり

おおきなる樹はおおきなる死を孕みいてどくどくと葉を繁らせてゆく

あゆみくる君をひかりはあばくなよ夏帽ふかくまなじりはある






 子供のころ木になりたいと思った。梢にそよぐ葉のようになりたいと思った。そして忘れて大人になった。ふたたび木を思いだしたとき私はすこし病んでいた。木と程遠いところに自分がいた。なぜ歌をつくりはじめたかは自分でもわからないが、ふたたび木のそばにいたいと思いはじめた時期と歌をつくりはじめた時期とはそう離れていなかった。・・・・
一九九七年秋 雨の日に



渡辺松男句集 抄録 『蝶』以後

隕石 2013刊

天に蝶止まりて地球瞑想す

やまわらふまへにけっちゃくついてゐる

花むしろにんげんだけを余分とし

山桜普賢は象に乗ってくる

すずやかにたれのものでもあらざる掌

死のむかうがはのまぶしき日照雨(そばへ)かな

どぢやうなべ母のくちびる厚かりき

あいまいはあいまいのまま木下闇(このしたやみ)

麦秋をそっくり買ってあげやうか

藻の花やだれもがすこし嘘をつく

蝉鳴くや死よりも遠き人ばかり

蕃南瓜(たうなす)は俺の一生よりでかい

どうみてもあたまの悪い西瓜かな

少年や茗荷(みやうが)の花に恋をして

本心をさぐりたくなる無月かな

混浴のすこし離れてみかん浮く

ふる雪の任意任意を目で追へり

なんらかのくぢらのおならのやうな島

鳥葬の美少女だったくわんぜおん

鐘が鳴るすべての彼方あるごとく