今山物語2

 徳富蘇峰「近世日本国民史」西南の役篇が終わった。
 わずか七冊の文庫本を(途中であれこれ寄り道はしたものの)三ヶ月ほどかけて読んだことになる。もちろん著者は昭和19年から7年以上かけて執筆した(途中、占領軍の検閲によって公に出来なかった期間がある)のだから「三ヶ月ぐらい何だ!?」
 でも、とにかく重たかった。
 その多くは著者の力量によるものだとは思うものの、明治10年がそれだけ重かったのだ。その一方で、東京で暮らす多くの人々が、そのごく初期から薩軍の敗退を予想していたことも驚きだった。それは東京に残った多くの元薩摩武士たちにとってもそうだった。西郷従道大山巌も川村純義も黒田清隆も、自分たちが負けることなど念頭になかった。鹿児島から見た日本と、東京から見た日本は、もうまったく別の政体だった。

 西郷隆盛は何を考えていたのか?
 知りたかったことは、極端に言うとその一点にあった。
 彼は、江戸城の開城後、戊辰戦争終結後、の二度帰郷し、その都度また呼び出されている。その二度目の時つぎのような詩を書く。それは彼にとって会心の作だったらしい。
 犠牛繋杙待晨烹・・・・生け贄の牛が杙(くい)に繫がれ、明朝調理されるのを待っている。
 犠牛はもちろん鹿児島(かごんま)から引きずり出される自分自身の暗喩。
 (この人はどこか根本的におかしい。自画像を自分でどんどん肥大化させていく。)
 島津斉彬は「吉之助という大器を使いこなせるのは自分しかいない。」と言っていたという。じっさいにその通りだったのかも知れないし、そのことは本人にも分かっていた。久光は、自分を手駒のように動かそうとした隆盛をはげしく憎んでいた。動こうとする時の隆盛のとっては、天皇もまた大きな手駒だったに過ぎまい。

 維新政府の中枢に居た隆盛は、そこに群がる人々の権力欲と金銭欲を見て、彼らを蛇蝎のように嫌った。そんな場所に居ると身の毛もよだつからまた帰郷した。そして早晩、新政府は権力闘争と汚職の蔓延で手がつけられなくなり自壊すると見た。「その時、大久保利通は責任をとって腹を切る」その程度には彼を信じていた。
 かれの興した私学校は、日本から中心が消えかけたそのときのための人材養成所であり、その人材の中心は西郷にとっては、公のためには自分の命を鴻毛のようにしか思わない軍人だった。(新政府の中心はすでに軍人から文官に代わりかけていたのだが、それも西郷からすると国に命を預けようとしない小人たちが国を仕切ろうとしているとしか見えなかったろう。彼は明治7年の時点で民選議会を支持する一方、文民国家というものを考えることはなかった。)
 政府はいずれ自壊する。
 そのとき世論は西郷隆盛を思い出す。輿望に応えて自分で育てた次世代の人材を伴って上京するところまでが自分の役割。あとは彼らが日本を切り盛りする。
 もし、政府が自壊しなかったら?
 離京に際して隆盛が弟の従道に「お前は大久保を助けろ」と訓戒したという話も信じる。
 もし自分の出番が必要なくなったら?
 もし、そうならなければ、それはそれで結構なことだ。
 そのときは田夫として思うがままに人生を愉しめばいい。が、西郷先生が田夫になりきったとき、私学校の生徒たちはどうやって生きるのか?──かれの考えはそこにまで至らなかった。
 いや、なにも資料が残されていないらしいが、その時は若者たちを屯田兵として満州に行かせる、ことを目論んでいた可能性は十分にあるという気がした。かれは、「小さなこと」は虫酸が走るほど嫌いだったのです。
 若者たちは、いつか自分たちが国全体の中枢になるものと信じ切っている。国軍の一部に編入される可能性など頭の端にもない。(それに中央政府側にとって、もう私学校関係者を国軍に招くことなど想定外になってしまっていた。)
 そして、現実には、農民上がりのにわか作りの国兵たちが、抜刀した自分たちに向かって銃創突撃を敢行してくるという悪夢を見ることになる。

 薩軍が決起して以後の、あまりにものの動きの鈍さは、西郷以下の幹部たちが想定していた「凱旋するような中央への行軍」のイメージを捨てる気がまったくなかったから起こったことだ。
 かれらは全国各地の不平士族が自分たちに呼応して蜂起すると信じきっていた。そのような「機を見るに敏」な計算高い人間を軽蔑しきっていたはずなのに、西郷自身が、自分が動き出すのを人々が待望していると思い込んでいた。だから国軍は八方に手を尽くさねばならず薩軍への対応まで及びもつかなくなる。
 自分が新国家にとっては最早もてあまし者でしかなくなっているのかもしれない、という現実を直視する発想はあり得なかった。

 戊辰戦争があまりにも呆気なく終結したこともあって、薩軍に限らず、多くの人々が、急速に変化する現実を現実感をもって見る能力を失っていた気がする。

 参軍山縣有朋田原坂の戦い終結後、恩人である西郷に「もうこれ以上お互いの有能な人材を消耗するのはやめよう」という切々とした手紙を届けようとしたが果たせず、やっと届いたのは城山総攻撃の前日だったと蘇峰は書く。「それに対する西郷の反応はどこにも資料が残っていない」
 しかし、たぶん、西郷はもう「オレの体をお前たちに預ける」と言って以来、他人のことよりも自分のことだけで精一杯になっていた。かれの「人を相手にせず、天を相手にする」とは、そういうことだ。

 西郷隆盛を希代の英雄豪傑視する向きもある。(本人は当然のようにそう思っていた)
 たしかに一人の男と生死を共にしようと数万の男たちが集まった例は日本史上にはない。ただそのことは、新社会で自分の姿を変えて生きぬくことへの彼らの抜きがたい抵抗感の表明であり、「武士として終始したい」という意思表明でもあった。現実には参集した数万の内の過半は戦いの趨勢が見えるに前後して姿を消し、薩軍は兵士の補充に汲々とせねばならなくなった。
 それに新時代は前代までと違い、情報量が極端に増えた。そういう意味では、西郷隆盛は庶民までがそ時点で名を知っている日本初の全国区の有名人だった。

 もし、彼が政治家として辣腕をふるうとしたら、彼に代わって手を汚す多くの部下が必要だった。それも、ことが事件化しそうになったら腹を切って決して上に累を及ぼさない忠義の部下たちがゴロゴロいなければならなかった。もちろん西郷はその遺族たちへ手厚い保護を与えるのにやぶさかでないのを疑う者はいなかっただろうが、それはもう新時代では無理な話だった。
 大久保利通には、そういうことが見えていたのではないか? ぜんぶ見えていた上で「汚れ役」を引き受けたのではないか? かれは最後まで、いわば自分は二人三脚の片方だと信じていたのではないか?
 その横死のときに読んでいたという西郷からの書簡は遺されていないのだろうか?
 
 「大山巌」はこれから読んでいく。
 西郷従道はどんなことを考えていたのだろう?
 
 政府側の西南の役出費の3分の1は人夫代だった。
 田原坂周辺にはおびただしい数の出店が立ち並び、酒食の提供だけでなく、多くの女たちが働き、土産物屋まであったという。
 「生を偸(ぬす)む」という言葉がある。出典は知らない。
 いま、われわれは温々と生を偸んでいる。
 そのことの貴重さが何にもまして重い。
                                                        11月6日

附記
 当時の薩摩人には、人を人とも思わぬところがあった。木戸孝允は、その薩摩人の視線を我慢がならないものに感じたのだろう。
 しかし、その視線は薩摩人自身へも向けられていたことに木戸は気づいていたのかどうか。(たぶん、気づいたうえで、やはり許しがたいものだったのだ。西郷たちの考えには人の営々とした営みへの敬意がまったく見られない。)
 彼らにとって自分の命は、大義の前では「鴻毛よりも軽」かった。そう思っていない人間、もしくは「大義」を持たない人間は彼らの感じる「人間」のうちには入らなかったように思われる。薩摩人はそういう西郷の視線を何よりも恐れた。そして、自分の命を丸っきり軽いものとして振る舞うことを自分に強い、それが常態化した。
 その傾向は、西郷の死後も日本軍を縛り付け、軍自体の堕落に繫がっていった。
 また、新たな補助線です。