ギドン・クレーメルOVERTONE琴線の触れあい

2013/11/29(金)

  『OVERTONE琴線の触れあい』ギドン・クレーメル
●なにかにつけ、人生は(遊園地の)お化け屋敷のなかを走り抜けるコースターのようなものだと思われてならない。急に角を曲がったかと思うと・・・お化けが顔を撫でる。・・・コースターは闇のなかをガタガタと走る。なにかが潜んでいる。ぞっとするようなものやおどけたものが現れては消えていく。
 ・・・コースターはスピードを上げていく。かと思うと急ブレーキをかけて止まる。周囲は静まりかえっている。次の角にはまたなにかが待ち受けていそうな気配。・・・止まるかと思った心臓はまだ鼓動を伝えている。泣くものかと、ときどき微笑み返してやる。
●創造性は写真のフィルムのようなものだ。日の光があたると駄目になる。
        「触れあい(OVERTONE)」
●オズナブリュック市。ブラームスのヴァイオリン協奏曲のリハーサルが終わった。ヴァイオリンのケースを片手に銀行へいく途中、子ども連れの女性が声をかけてきた。女の子が私になにか朗読してくれるという。ロシアの詩だった。私はその愛くるしい女の子の目が不自由なことに気づいた。生まれてからいちども日の光を目にしたことがなく、その詩も耳で覚えたという。どんなヴァイオリンを弾くのかという母親の問いに、私はちょっと戸惑いながら、「ストラディヴァリ」と答えた。「よかったねぇ」と母は子どもに言う。「本物のストラディヴァリが聞けたんだよ」。それから私のほうを向くと、娘にそのヴァイオリンを触らせてやってはくれないかとたずねた。「もちろん」。その子はヴァイオリンを隅々まで指で撫でるように触れていった。まるで親しい人を触って確かめているかのように、そっと優しく。顔は興奮と感動に染まっていた。その間も静かに閉じられたままの瞼がかえって痛々しかった。その日の夕べ、公演を前に楽器をケースから取り出して弾いてみたとき、なにか魂が宿っているように思えた。ヴァイオリンの胴体を指で触れていくうちに、女の子がその神秘性を開示したのだろうか。彼女の用心深さがストラディヴァリに伝わり、そこからまた私に憧憬と信頼が伝わってきた。あの出会いは二人にとって触れあい以上のものだった。その夜のコンサート・ホールに響きあふれた倍音(OVERTONE)は特別な力が楽器に与えられたことに証だった。
●建築現場の労働者たちに発言権が与えられていたならば、今日、エッフェル塔世界貿易センタービルは果たして立っていただろうか。
●(アルヴォ)ペルトの『鏡のなかの鏡』がもつ純粋さ、そして『タブラ・ラサ』の第二楽章の息をのむような静けさは、無垢の極地と恋する者の深い情感にも匹敵(する)。
●「美しいものは極限状況に生まれる。安全と美は相矛盾する。」──ニコラス・アーノンクール──
●(レオナード・バーンスタインの『セレナード』を)リハーサルにすぎなかったが、ベストを尽くした。・・・「美しい音色だ。君は素晴らしいよ。僕と結婚しないか?」・・・「こんないい曲を作ったなんて知らなかったよ。」
●(ヴァレンティン)シルヴェストロフは、アンドレイ・タルコフスキーが彼の映画『ストーカー』のなかで探し求めたように、まだ毀されずに残っているものの痕跡を苦しみあえぎながら探し求めている。
●時が過ぎ去っていくのではない。われわれが時のなかを動いているのだ。
●(アイザック)スターンはアメリカにやってきた(ダヴィド)オイストラフがなぜあれほど過密なスケジュールでコンサートを行なったのか理解に苦しんだという。そして、それを問われたオイストラフがこう答えた。「アイザック君、私は演奏をやめたら、ものを考えはじめるだろう。ものを考えはじめたら私は死ぬだろう。」
●(カルロ・マリア)ジュリーニがかつて私の前で言った言葉にはなんの不思議もない。「作曲家というのは本来、最もよい作品はクヮルテットのために書いているのです。」
●芸術家は、絶対に自分の耳と心拍を信じなくなったらおしまいだ。・・・
・・・リズムや振動にはそれぞれの時代に特有の法則がある。それを無視するのは時代遅れで追従的だと思う。
     「イン オン ザ パーク」
●超自然的ともいえるやり方で対位法を活性化したグレン・グールドは、私にとって手の届かないものの象徴である。彼の力量とすぐれた才気は今でも録音を通して私に語りかけてくる。彼の各声部を際だたせるその奏法はいつもある逸話が(確かな話だというが)引き合いに出された。私はその話を少年時代から知っていた。つまり、ある偉大なジャズ・ピアニストの十本の指は同時に各々別のリズムを刻めたという。グールドのリスクをものともせぬテンポは彼の作品自体との取り組み方をも物語っていた。彼は一度テレビのインタビューで、バッハのフーガを(本質を損なうことなく)どんなテンポででも演奏できる、と言った。彼の古典音楽の見解はきわめて思い切ったものだった。ベートーヴェンの晩年のピアノ・ソナタ作品111ひとつを例にとってもそうだ。そして、グールドの独特の様式観は? 彼のブラームスははたしてブラームスモーツァルトモーツァルトと呼べるのか? にもかかわらず、飽くことのないジャーナリストたちの質問、「孤島に行くことになれば、どのレコードをお持ちになりますか?」に、多くの者がこう答える。──グールド演奏によるバッハの《ゴールドベルク変奏曲
●生涯の密度の濃さは各自に責任がある。
井口泰子訳