ただに死なせがたし

2013/12/05

 秋山佐和子による三ヶ島葭子の評伝を読んだ。
 あめつちのあらゆるものにことよせて歌ひつくさばゆるされんかも
 と読んだ歌人だ。
 冒頭に親友だった原阿佐緒の歌
 うつそみのなやみの限り堪へ来つる友がいのちよただに死なせがたし
 また葬儀(42才で逝去)のとき阪井久良岐が読んだ歌も心に残った。
 三ヶ島の葭子のよめる歌一首このあめつちにとどまらばよし

 秋山さん(われわれと同世代)の著作は、娘みなみさんの後年の尽力に負うところが大きいとある。そのみなみさん(結婚して築地で生きた人)の歌をいくつか。
 買ひ人気けふ集まりてまるまると油ののりゐしめじが売れつぐ
 生活はかくあることかぬかるみゆく雨の暁をいとふとにもあらず
 母の歌恐れ読まざる年過ぎぬよまんとぞ思ひゆく今は
 母の歌読みつつ声に出でて泣くいくたびならむ一人のときに
 歌ゆゑに命ちぢめしや否あらずただ涙垂り母の歌読む
 つぶつぶと歌口ずさぶありし日の母ゐむかかの谷町ゆかば
 いつの日もわれには生けり死にかけし孤独のわれを支へしも母
 父とわれとのみがかかはる亡き母に触れし会話ありき古りて鮮明なり

三ヶ島葭子(明治19年昭和2年)埼玉県入間郡出身
明治37年埼玉県女子師範学校入学
 同38年病気退学
 あかつちの土手のくづれに霜見えて枯れし芝生の根ぞいと弱き
   人皆箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは 正岡子規 
   わが心萎えてあれや街行く人のひとりも病めりとも見えず 長塚節
   胸たたき死ねと苛む嘴太の鉛の鳥ぞ空覆ひくる 山川登美子
   おっとせい氷に眠るさいはいを我も今知るおもしろきかな 山川登美子
   呼吸すれば胸のうちにて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音 石川啄木
   氷嚢の下よりまなこ光らせて、寝られぬ夜は人を憎める。石川啄木
 明日はとくかへらむものを一夜なる夢にまづ見る父母のかげかな
 はらからと遊べる庭の月かげはわかつかげさへ同じなりけり 
                        ※弟が左ト伝

明治41年西多摩郡小宮尋常高等小学校代用教員
 名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき我も名知らぬ人の恋しき
 寂しさを歌ふ人亡くなりし時ろおまの国は滅びしときく
 なまぬるき風ふく夕べすあしにて花咲きすぎし梅の木による 
 明治43年の日記
  「たとひ一つでも自分の心もちを人目に残してからでなくっては死なない」
明治45年准教員試験合格
 同年 青踏社員第53号
大正2年
 みづからを偽るよりも苦しかりありのままなる我を語るは
大正3年退職・結婚
 ひとすぢの黄なるゆふひのながれきてふるきたたみににほふ秋かな
 同年 長女みなみ出産
 子の顔のふたつに見ゆる産屋よりふとあふぎたる春の青空
 わが子ともまだおぼえねどしほれたる花のここちにいたはりて抱く
 何よりもわが子のむつき乾けるがうれしき身なり春の日あたり
 ただに子の眠ればこころ何事かなしおへしごと安らふなりけり
 爪立てて我をつかめる手の力ゆるぶが如し子の眠りつく
 今更に思へばこころこそばゆしわが子を眺めわれを母かと
 疲れはて歌も書きえぬ憂き身より嬉しや乳のほとばしること
大正5年『青踏』永久休刊
 同6年『アララギ』入門
 らんぷの灯とどかぬ部屋に寝たる子の柔らかき髪寄りて撫でつも
 よく遊び疲れたる子は眠りたり生(あ)れしその日もこの顔なりし
 短夜のあかつきがたにさめざめと子は泣きいでぬ夢を見しならん
 宵寝してほのかに覚めぬ近き湯屋の板間にひびく桶の音聞こゆ
 物干の日向に靴を磨きゐる向かひの妻はもの思はざらむ
  
大正10年 親友原阿佐緒石原純に関し島木赤彦より破門
大正11年小学校長だった父寛太郎死去
 わが夫(つま)と心へだてるさびしさを耐(こら)へて今宵父の死を守る
大正12年墓参
 弟妹(いろと)らと語りつつゆく田舎道ひばりの声のいづくともなし
 み墓べの土やはらかみはつはつに杉菜の青葉萌えいでてをり
 夫が愛人をつれて帰京
 人とともに今朝も厨に働けりあきらめに馴れしわが心はも
 心こそたふとかりしか黙しをれば時ふるままになごみ来たるも
 夫と別居
 関東大震災
 ひとりなるつねのさびしさこの際もおぼえて人にすがり得ざりし
 たまきはるいのちひとつを守りなん今宵焼けなば焼けよわが家
 焼け跡の土に生(あ)れたる命かも夕べともしきこほろぎの声
「すべてにうとい自分の生活があの焼野原のやうに取り乱されてゐるのを思ふとたまらなく悲しいが、それは本当に誰にも、神にも知られたくないこと」なのだ。
大正13年『日光』発刊
 フリジアの花買ひたれば花売りが桃のつぼみを落としてゆけり
 寝ながらの夕餉をはりて眠らむとするひとときの安けかりけり
 このごろは夢さへかなし目覚むともわれにうつつのさかひはあらぬ
 蓮葉をころがる露のやや長みやや平みつつ玉ならんとす
 同年脳出血
 あといへばかとしもひびく悲しかるおのが言葉に口つぐみけり
 筆とれば墨いたづらに紙をぬりて文字(もんじ)の形一つも成らず
 苦しければ死なむと思ひたちまちにこころよければ癒えんと思ふ
大正14年弟栄一死去
 死にたりと聞きて心落ち着きぬ死にたる弟思いひつついねむ
 わが心知る人は無しあたり前のわれの心を知る人はなし
大正15年
 わが家とさだめられたる家ありて起き臥しするは楽しかりけり
 味噌汁の今朝は嬉しくも大根の千六本の細かく切れたり
 天井に手洗水のてりかへしゆらめく見れば夏は来にけり
昭和2年
 おのが子のかへりしあとやそこにゐるよその子供に声をかけつ
 たまたまに来たりし吾子が掃除して敷きかへし床に昼寝をするも
 同年3月26日家族に見守られて死去。娘みなみの川越高女合格の報告に大きく頷いたという。
 未発表のままの歌
 わが窓によそのあかりのさしそめし冬のひと日ははや暮れしなり
 床の上に飯運ばるるうら安さわれは産屋にある心地なり
 ゆくりなく眠りさむれば灯ともれり今は夜なりと思ふ静けさ
 しみじみと障子うす暗き窓の外音たてて雨の降りいでにけり(絶詠)


別件
 今週でHR単位での授業は終わった。
 あとは、受験者のみを対象にした、いわば直前講習。
 また、あっというまの一年だった。
 退職後、三ヶ月の引き籠もりのあと日の当たるところに出てみると17才たちに出会った。それまで35年間もつき合ってきて、いい加減イヤになっていたはずの17才たちを再発見した。17才の再発見はそのまま自分の再発見でもあった。
 ある生徒の授業評価アンケートを読んで不思議な感動を覚えた。
 「先生の自分で決めている生き方がとても好きです。けど、僕は僕なりの道をみつけます。」
 直接そういう話をした記憶はないから、なにごとかからそういう風に感じたのだろう。
 「自分で決めた生き方」か。そうであったらいいな。社会に出た最初のころ、意地になって「流されたくない」とは思っていた。「朱に染まっても朱くはならない」。

 ギドン・クレーメルが四月に福岡でブラームスを演奏するというので、ジネット・ヌヴーと彼のCDを聴いた。何度か聴いているうちに「この音楽のなかにすべてが含まれている」と感じた。当たっているのかどうかはどうでもよい。そのブラームスからC・フランクが生まれた。
 フランクを聴きはじめたとき、「ブラームスの次の世代」だと感じたのは正しかった。
 その後の19世紀に生まれたシベリウスバルトーク、ベルク、シェーンベルクから、われわれに近い世代のエストニアのペルト、ロシアのマルティノフ、リトアニアクレーメルまでは一直線。
 いまそのことを感じて興奮している。
 シベリウスバルトーク、ベルク、シェーンベルクたちの関心はもう人生にはない。彼らの関心は人間の外にある。人間以外(人間以前?)の世界の多様さ、その輝き。精霊たちの世界のなんとエネルギーに満ちあふれていることか。そこでは静寂さえも塊だ。
 なぜ彼らはそういうことに関心をもち、それに惹きつけられたのか。19世紀から20世紀にかけての時代をまだまだイメージできずにいるが、時間があれば可能になるかもしれない。
 その世代と入れ代わるように現れた人々の音楽はほとんど祈りにちかい。ただし、その祈りは、いわゆるカミに捧げられたものではなく、太古、いや太虚に向かっている気がする。かれらにとって20世紀後半とはそういう時代だったのだ、きっと。
 実はその音楽のイメージと、秋に尾道で出会った野見山さんの絵のイメージがぴったり一致する。そのことの不思議さ。
 これは本当に自分で決めている生き方なんだろうか?