『水準器』のあとがきに代えて

『水準器』のあとがきに代えて

      一筆がきでは済まないことを

わたしたちはコトバで考えつづけているわけではけっしてない。
コトバで考えているつもりのことは、ほとんどただ自分への説明や説得だ。

火野葦平は「ことばは灰だ」と言う。
実質は燃えつきたもののほうにある。
しかしわたしは、コトバとはもっと硬質なものだと思う。
それに、火野葦平のなかで燃えつきたものはけっして「考え」などではない。
かれにとっての実質は考えなどではなかった。

言葉は干からびた周辺だ。

わたしたちはコトバでではなく、ちょうど水彩絵の具をぬりかさねるようにして何ごとかを考えている。
なんども/\ぬりかさねるように自分の考えを確かめようとする。
重ね塗りを繰り返しているうちに周辺が乾いてかたまりになっていき輪郭が見えはじめる。
その輪郭がつまりはコトバだ。
コトバは考えの外郭であり周辺にすぎない。


コトバは完成ではなく中断だ。
コトバが出てきたらもうその外側へは滲みようがない。
だから考えてきたことがコトバになったとき、ほっとすると同時にがっかりもする。
コトバという硬質な形骸は自分に自分のそれまでの考えの形を見せてくれると同時にそれ以上ぬりかさねようがなくなったのを教えているから。
モウ続ケナクテイイ。
シカシ、
マタ、ヤリ直スシカナイ。

コトバは齟齬にすぎない。
コトバは考えのまがいものだ。
考えにとっての障碍物だ。

いったんの結果であるコトバを忘れないかぎりわたしたちは先には進めない。
も一度まっさらになるまで待つしかない。
それがけっこう難しい。
難しいし、じっさいに、こうして説明しているような順序で自分が考えているのかどうかも、かなりあやしい。

しかし、わたしたちもわたしたちの世界も、一筆がきのようなもので説明がつくほど単純なものではない。

周辺の外側にはコトバ以後の何ものかが広がっている。
中心はない。

コトバ以前の考え。
コトバ以後の考え。

その間にコトバがある。
まるでモノがあるようにコトバがある。
わたしたちはコトバの発する力によって、そのふたつのものが遊離することを妨げようとする。

コトバ以前のものと、コトバ以後のものをつなぐ役目。
それがわたしたちの必要としているコトバだ。

流動しているのはコトバではない。
流動しているのはコトバ以前とコトバ以後のわたしたちの現実。
その現実をわたしたちにつなぎとめるためにあるかのようなコトバ。

わたしは周辺であり続けたい。
はざまにいつづけたい。
齟齬であること
障碍物であること
まがいものであることを恥じない。
わたしは中断をいとわない。

けっして一筆がきでは済まないわたしたちの現実。
繰り返し/\描いてゆくことで形にするしかないわたしたちの考え。
その辿りつく先がコトバではなく中断でもないことを、わたしはけっして期待しない。