立原道造

今月の詩
                        2014年11月

国語教師のつぶやき

 若い頃アメリカに留学して、むこうで出会った女性と結婚し、結局そのまま60歳までアメリカで暮らした人と知り合ったことがある。アメリカにわたる前からキリスト教に改宗していたそうだ。
 その人の息子のいちばんの友だちだった犬が死んだとき、まだ小さかった息子は泣きながら教会に行って「またいつか天国で○○に会えるよね。」と牧師に同意を求めた。
 すると牧師は「犬には魂がないから天国には行けない。だからもう○○には会えない。」と答えたので息子はもっと泣きじゃくりながら家に帰ってきた。
──アメリカの牧師はなんちゅうバカじゃろかと思いました。

 われわれは魚や牛や豚や鶏肉を食べる。(鶏の水炊きは老教師の大好物です。鴨の治部煮もまた食いたい。)沖縄には羊の伝統料理がある。自分が育てた羊を食べた少女の述懐にはハッとさせられた。
 キリスト教圏では、動物や魚や鳥には魂がないから人間が食べていい、というふうに教えるのだそうだ。
 じゃあ、捕鯨に反対している人たちが、鯨には魂があると考えているのかどうかは知らないけれど、カナダ人の友人は馬肉を食べようとしない。
──美味しいんだよ。
──美味しいかもしれないけど、馬はぼくたちの友だちだ。ぼくは食べない!
 「そうか。」そう言えば、犬や猫料理で有名な国が日本のほんの近くにある。でも、一緒に暮らしている犬たち(初代はもう亡くなって、いまは二代目と三代目。三代目は去年の冬大ピンチになって、もう天国に行くのを看取るつもりで夜中もそばに居つづけた。しかし、フェニックスのごとくに復活!)が幸福を届けてくれたと信じている老教師は「滅相(めっそう)もない!」
 自分のなかに魂があるかどうかはあやしいが、チビたちには間違いなく魂がある。いや、かれらは魂そのものだ。チビたちは人間といっしょに暮らしたくて、魂の上に犬や猫のぬいぐるみを被って、人間をだましているつもりなんだ。「大成功!」でも人間のほうが賢い。人間はかれらにだまされたフリをしているだけ。
──いいか。これからもずっとお父さんたちをだまし続けろよ。
 いまでも家族(チビたちを含めて使っている)に心配事があると、初代の写真に「お願いします」と頼む。これは実に効き目がある。だから初代は我が家の守護神です。

 チビたちは日本語が実によくわかる。
 以前、公園からの帰りに、「さあ、家に帰るぞ」と呼びかけると傍にいたお爺ちゃんが「犬に″帰る″とか言うたちゃ。」とつぶやいた。なんも分かっとらん。「家」も「帰る」もちゃんと分かるんです。まだ散歩をつづけたいときに「家に帰る」と言うと、うらめしそうな目でこちらを見る。こちらが行きたくない方向に行こうとしたときは「そっちアブナい。」と言うとクルっとUターンする。
 家での禁句は「クルマ」
 「クルマ」を聞くと自分たちが乗られるものと思って大騒ぎになってしまう。だから「クルマ」のかわりに「アレ」
 そんなに日本語がよく分かるのにいつまでたっても全然話せるようにはならない。それが不憫(ふびん)で仕方がない。
 ひょっとしたら、われわれは言葉という便利なものを手に入れたとき、かわりに霊的なものを手放したのじゃかろうか? 今ももの言わぬままのものたちのなかには霊が宿っている。そんな気がしてならない。
 トンボ(太古からの姿をいまだに維持している種)、蛍、蝉、蝶々、かやくぐり(鈴が転がるような声で鳴く小鳥)、熊、象、魚類も。

 人間は他の動物と比べると、人工物にちかい。その人工物の部分を文化と言う。(カルチャーはネイチャーの対義語です)
 が、わたしたちの先祖は「精霊」もまた大切な文化のなかに取り入れた。偉大さを感じる樹木、岩、洞窟、神々(こうごう)しい山々、etc。
 もし太古からの魂をなくしたら、わたしたちはただの人工物になってしまう。

 沖縄水産高校が甲子園で活躍していた頃の監督の栽(さい)さんは、沖縄戦の渦中(かちゅう)で妹を喪った。
──その時の話を母親から聞かされたことは一度もない。ほんとに悲しいことは口にできんサア。
 栽さんのお母さんは娘の最期について何も語らずに亡くなった。妹の最期について母親にいちども質問しようとしなかった栽さんももう故人だ。だけど、どんな説明よりも栽さんの「ほんとに悲しいことは口にできんサア。」が、この胸深くに生きている。
 沈黙の重さ。

 もの言わぬ生きものとしての人間。
 「語ること」よりも大切かもしれない「語られぬもの」。
 この頃しきりにそんなことを考えています。
 ヘンな国語教師なんだろうなぁ。


 高校生のころは大嫌いだった立原道造の詩を紹介します。50年経ってやっと、この詩人のことばを受け入れることが出来るようになったのだと思う。 ことばを? いや、現実を。‥‥‥真実を、かもしれない。
 1939年24歳で没した詩人は最初の詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』(1936年)のあとがきで次のように書いている。
──僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからない調べとなって、たしかめられず心の底でかすかにうたふ奇蹟を願ふ。
 2014年夏、奇蹟は福岡の片隅で起きた。きっとほかの箇所でも起こり続けることだろう。 


   またある夜に

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投げ箭(や)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会った
雲のやうに 私らは忘れられるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らはいくであらう
ひとりはなれ‥‥‥(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔思ふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであろう


   のちのおもひに

夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草(みずひきぐさ)に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午(ひる)さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
──そして私は
見てきたものを 島々を 波を 岬(みさき)を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた‥‥‥

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥(せきれう)のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう


   夏花の歌 その二

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに
たのしくばっかり過ぎつつあった
何のかはった出来事もなしに
何のあたらしい悔ひもなしに

あの日たち とけない謎のやうな
ほほゑみが かはらぬ愛を誓ってゐた
薊(あざみ)の花やゆふすげにいりまじり
稚(おさな)い いい夢がゐた──いつのことか!

どうぞ もう一度 帰っておくれ
青い雲のながれてゐた日
あの昼の星のちらついてゐた日‥‥‥

あの日たち あの日たち 帰っておくれ
僕は 大きくなった 溢(あふ)れるまでに
僕は かなしく顫(ふる)へてゐる


  歌ひとつ

昔の時よ 私をうたはせるな
慰めにみちた 悔恨よ
追憶に飾られた 物語よ
もう 私を そうっとしておくれ

私の生は 一羽の小鳥にしか
すぎなくなった! 歌なしに
おそらく 私は 飛ばないだらう
木の枝の向うに 青い空の奥に

未来よ 希望よ あこがれよ
私の ちひさい翼をつつめ!
そして 私は うたふだらう

大きな 真昼に
醒めながら 飛びながら
なほ高く なほとほく