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 昨日はグループホームのバスハイク。帰りに「あと三十分遅く帰ってくること」という連絡が入って理由がわかった。
 建物内部を清掃し、床にはワックスがけをしたんだ。「ええ、私たちは追いだされていたんです。」もとは長距離トラックの運転手だったという70歳も「早くということはよく言われるが、遅くちゅうとは記憶にありませんな」と笑っていた。
 行き帰りの車中でハモニカに合わせて大合唱。「これがいいね。学校の旅行の時マイクが回って来よったろうが。あれ好かんやったね。」
 いくぶんかは貢献できたようでガス。

 定常社会のこと。

 自分自身はまだ読んでいない。
 現状分析とこのまま推移したとしての未来予想の理屈はたぶんその通りなのだと思う。
が、それは、足し算引き算ができる人間なら誰にでも分かることだ。
 冷戦体制が崩れたとき、「これからは大変な社会になる」と思った。なぜなら世界がひとつしかなくなるからだ。
 現にそうなりつつある。
 それより以前、「世界がひとつの国になればいい」とか「世界中の言語がひとつに」式の作文や意見にはいつもケチをつけていた。
 「ついでに女の顔も世界中ひとつだけになればいいよね。みんな美女ばかり。」(男子校でした)それにね、歴史をみれば、国同士の戦争よりは国内の内戦のほうがむごいことがたくさん起こったんだよ。
 中国では4000年の歴史の間に億単位の「中国人」が殺虫剤をまかれたゴキブリたちのように消されていった。(見てきたわけじゃないが、確信をもって言っている。それがほんものの「歴史」だ。)
 人口が三分の二に減ったというカンボジアだけでなく、第一次欧州大戦の死者が第二次大戦より多かったという数字は最近知った。あれは欧州内戦だったのです。かれらはその悪夢をまだ忘れてはいない。

 資本主義の本性⇒資本の自己拡大、ととらえると、
 無限市場でのみ成立する体制となる。
 20世紀末までは南(周辺)から北(中心)が搾取して成り立っていたので、我々は中心というポジションに居て恩恵を受けた。

 その通り。

 20世紀末以後、
 資本が国家を越えて、グローバルになると、周辺と中心は一国の中で起こってくる。

 興味深い視点だが、世界中が先進国的になる時代が来るという予想には賛同できない。アフリカ・中東・中南米。どこも現在よりGNPは大きくなるだろうが、先進国との格差は依然残る。一国内でもそうであるように、国際社会内もつねにマダラ模様なのが普通だ。ものごとを単一に見る誘惑には乗らないほうがいい。
 それはともあれ、

 南北問題が国内で生じる、つまりは格差(貧困)問題。

 上のことに関しては、まだ信頼できるデータをオレは見ていない。
 それにどの時点をベースにしてデータを作るかによっても様相はまるっきり変わると思う。
 ここ100年を見れば、この国の貧富の差は格段に小さくなった。
 50年前。つまり我々が若者だった時代の正規雇用者と非正規雇用者の割合が今よりマシだったとは感じていない。
 根拠はふたつある。
 1,当時は季節労働者が多かった。その大半は統計上は農民だったから非正規労働者には含まれていなかった。
 2,あとひとつの根拠。まだ当時は中小企業というより個人経営の工場や商店がいくらでもあった。つまり自営業者は当然ながら労働者ではなく、経営者。資本家側だった。そこ(自営業のところ)で働いている人々(オレの子どもの頃まわりにいた大人の大半はそれにあたる)は雇用契約なぞ結んでもいない。正規なのか非正規なのかの区別なぞなかった。
 現在、非正規雇用者が目立つようになった理由は、上のふたつ(統計上の「農民」が激減したことと、個人経営者が極端に減ったこと)に大きな理由がある。以前は統計の対象外だった人々が加わったからだ。
 それプラス、3,自営業や中小企業の数が減り、(中小企業の数がほんとうに減っているのかどうか、これもデータを見ていないので、ただの憶測)そのぶん大企業の従業員が増えた。そのために、以前なら、下請け企業で正規か非正規か分からないような雇用条件で働いていた人々が、大企業の中でくっきり二分割されるようになった。
 以上が「国内格差」についての見方です。
 大雑把に言うなら大勢はあまり変わっていない気がする。

 若者の非正規労働者の多さと中間層の減少、没落。

 についても(いまから)考えてみる。

 若者の非正規労働者の多さ、については、2と3がそのまま当てはまりそうに見える。
われわれが中学生のころは中卒で就職する者が(故郷では)3分の1近くいた。(大手の住友炭坑が閉山したのは小5のとき)彼らの被雇用状態も大半は2だったはずだ。さらに残りの二分の一が高卒で働き出した。その大半の条件も2。
 大学に行った者は(オレのような例外を除けば)さすがに最初から正規雇用だった者の方が多かっただろうが、なにしろあの時代だ。自分の周りで最初から正規労働者的就職をした者は3分の1程度だった。(姉の言「あんたの友達はみんな変わっとる」)ついでに言うと最初の就職先のまま年金生活に入ったのは一人か二人だが、そのいまだにつき合っている10人ほどは例外的で、いわば統計の対象外。自分も含めて員数外の人種。
 当時に比べて今の大卒者や専門学校卒業者の数は倍増どころじゃなかろう。(若年労働者の不足!)その大半は自らの権利として正規雇用者を目指す。(たぶん韓国は日本以上に深刻。中国に至っては共産党政権が維持できるかどうかというところまで来ているように見受けるが。)
 一例をあげると、同年輩で高卒と同時に看護婦になった者の大半は「準看護婦」という非正規労働者だった。いまはもう正看護士しかいない。呼び名を忘れたが病院内には専門職ではない女性たちがたくさん働いていた。完全看護が常識となりその人たちの「職場」は失われた。(その代わりに介護士が激増。ただし、そのうち正規雇用は一割程度?)
 いまの専門学校生や大学生にとって働くイメージはスーツを着てビル内にあるオフィスに通うこと。でもそんな職場だらけになったら、この社会は保たないよ。仕方がない。ヨーロッパのように発展途上国からの移民を大量に受け入れて、かれらに3K職を引き受けさせるか?いま、われわれは、税金をつかって大量のキリギリスを繁殖させてきたんじゃないんでしょうか?そのツケが露わになりはじめた。
 えらそうなことを付け加える。
 最初から「正規雇用」を目指す若者たちは同時に「終身雇用」を目指す。つまり、かれらの夢見る「正常な社会」とは、流動性を失った社会なのです。オレはマスコミや教員たちの論調に危惧を覚える。特にマスコミは明らかに二枚舌を使っている。

 中間層を厚くする事に言及したのは野田一人だ。

 言及だけなら誰にでも可能。
 準備もなしにヒョロっと「言及」し続けるオバマアメリカ人は「ノウ」を言い渡した。
社会を安定させるための手段として、中間層を厚くすることの必要性に気づいていないバカはそうそういない。
 では何故言及しないのか?
 実現する手だてを思いつかないからだ。
 たぶんあれらの三人の著者も山崎正和もグランド・ビジョンを持っているわけではない。
だから、どんなにデカい話をしても、処方箋は風邪用から出ない。「発熱には解熱剤。咳には咳止め。」(読みもせずにすみません)
 それに「中間層」の基準は何なんだろう?
 個人所得のグラフがあって、そこに見える幾つかの山と山のうちのどの山か、幾つかの山の稜線部分が「中間層」なんだと思うが、少しまえまでは個人所得ではなく世帯所得で見る方が全体が見えやすかったはずだ。いまではそれがほぼ個人個人に分解してしまった。それは「経済」の問題とは相当にずれる。薄くなったのは中間層ではなく、世帯の厚みなのではないか。

 「中間層の減少と没落」、そのものについても「?」がつく。
 たぶんこれまた家計調査の統計にもとづいての見解なのだろうと思う。
 しかし、家計調査のもとになる「世帯」の意味がひと昔前と今とでは大きく変わって来ている。新聞記事からのまた引きだが、人口は減り始めているのに世帯数は増えているという。マンションが売れ続けている理由がそこにある。「核家族」どころか「単身家族」が増えてきたのだ。その「単身家族」で中間層に属するのはごく少数派だと思われる。
 同年輩のタクシーの運転手さんから一代記を聞かされたことがある。
 中卒で大阪に就職したのだが、(それこそ正規雇用か非正規雇用かの区別もなかったろう)収入の半分は母親に仕送りし続けたという。「小遣いはないので休みの日は寮でごろごろしていました。」かれは自分が独立した世帯だと意識したことはなかったろう。息子の仕送りを含めて家計が成り立っていた家族は統計上は中間層に含まれていたかもしれない。それに彼は福岡にもどってタクシーの運転手になり、結婚して家を建てて母親を引き取った。高度成長期ならタクシーの運転手さんでも立派な中間層でいられた。いまはたぶん、年金を受け取りながらタクシーで小遣い銭稼ぎをしているはずだ。
 先日、辻まことの『山で一泊』を読みたくなって市民図書館に相談に行った。市民図書館にはないし、古本市場では4000円以上の値がついている。「新刊書以外は購入できません。もし良かったら他の図書館を調べてみましょうか?見つかったら連絡します。」昨日からの二週間、ゆっくりと見られることになった。そのカウンターの女の子はたぶん非正規雇用。でもイキイキ働いている。学校の司書も非正規雇用。でも正規雇用の人々より感じがいい。いくつもの理由があるんだろうが、そのひとつは多分彼女たちは独立した家計を営んでいないのだ。だから経済的なゆとりがあるんだと見ている。
 この社会の経済的先行きに懸念を表すひとびとは多い。でも、いまわれわれは十分に豊かになった。問題は若年層にその豊かさを享受する準備が整っているかどうかだ。
 それに、自分の感覚では、携帯電話を使っている人々はすべて中間層、に感じるんだが、如何? いずれにせよ、現在の統計と比較可能な過去の統計資料は存在しないように思われる。

 パイ無限を前提にした資本主義は行き詰らざるを得ない。

 きっとそうなる。
 ただ、それを政治家のせいにする愚はもうやめよう。
 民主主義社会において政治はいつもその日暮らしだ。成長戦略を放棄した為政者は引きずり下ろされるから、考えるのは今日と明日まで。明後日のことは道学者たちに任せるしかない。
 ただし、企業経営者たちのなかには10年後、20年後の自分の会社に対する責任感を持っている人々がけっこういる。なぜならそこが彼らの「故郷」だからだ。かれらは政治家よりはるかに真剣だ。

 「資本主義の終焉の軟着陸」

 それを期待しない。
 じっさいに軟着陸を目指したら、資本主義が終焉する前にこの社会が瓦解する。
現実的に必要なのは、資本主義の終焉、いや文明の終焉を、一日延ばしにしてゆく叡智だ。あと100年ぐらいまでだったら可能かもしれない。
 その先は、、、もう「良かごと」せんや、と言うところだが、
 実際にはその途中である日とつぜん世界でたったひとつになった機能システム(とくに金融システム)が停止する。徐々に低下するのではなく、一気に停止する。金融システムの停止とは、巨大な富の喪失、のことだと思う。消えるんです。ある日とつぜん音もなく。(その前に、「緩い新経済圏の創出」が模索されそうに思われる。中心はアジア。うまくいくかどうかは、これこそ政治家たちの膂力にかかる)そのとき起こることは、パニック映画のようなドラマチックなことにはならない。原発事故のような恐怖感も伴わない。各国はただ国内の金融システムを守ることに奔走する。
 ただ、システムが停止しても個人は飯を食って行かなければならん。
 その覚悟を若者に植え付けるのは大人の仕事だと思う。「ダイジョウブ。何とかなる。」これまでも何とかなってきた。

 こっちのほうが喋りすぎました。
 ただせめて、あと20年間は年金を受給できますように。それまでには、もっと(非正規雇用者を含む)全国民が安心でいる年金システムがこの国に構築されますように。