渡辺松男 蝶 抄

渡辺松男 歌集 抄録




天命なりと立ち止まりたるものが樹で立ち止まらず歩いてゐるのが俺だ


亀鳴くはきみにもぼくにもびめうにてそのびめう互(かたみ)にわかりてゐたり
微妙 微妙


くらやみに亀鳴くはいかなかなしみか闇浮のそとゆ漏れてくるこゑ



木にひかりさしたればかげうまれたりかげうまれ木はそんざいをます
存在


木のすがた地上のかげとつりあふにかげにいかなるおもさもあらず



鬼いかにこはくとも地におとしたるかげはへうめんにしかあらざる
表面


わがかげまつたくおもさなきことのかなしさは水中にても濡れざる



音なにもきこえなくなり槲葉のゆるる木かげに犬伏せるみゆ
       槲葉=かしは?



人わたりつつゆれやまぬ吊橋のわたりきらなばゆれもやまざる



色はそくかたちあるもののいひなればあいちやくは桃たべてをはりぬ
愛着


無色そのもの見しひとなきはみづからをあらはさぬ無色のおもひのふか



なるやうにしかならぬとはほんたうか啼く鳩を啼かざる鳩が見てをり
本当


もうひとりあけがたの木に啼く鳩のほの白みたるあたりがわれか


とどかざるこゑみづからへもどりくるせつなさよ明けの山鳩のこゑ



山鳩のでいでいぽぽと啼くこゑのあけがたはみえぬ巡礼のゆく



門くぐりたれどもいづくの門なりしや門を怖しとおもふゆふぐれ



ばりばりと夕映えの窓に罅(ひび)が入るこの感じわれにゆきどころなし



今ここにゐるくるしさに咳するに咳はわたしをおきざりにする



手のとどくとどかぬといふはかなさのもうすこしのところ空蝉がゐる



あはせたるみぎとひだりの手のひらのかくさみしきに微熱のありぬ



ちやわんの縁に蠅がいつぴき来てゐたりほんとはおまへが俺だとも言ひ
茶碗 一匹


ひらひらとなにげなく舞ひてゐたりしがガラスを透過してゆく紋白蝶(もんしろ) 



自販機のまへにてなにかつぶやきしそこまではわれでありにし記憶



薬包紙ひろげてゐたりわがこころ呆(ほう)としてしろきすすき野およぐ



わが感覚すすき野のへにありしかどこのかろさ死後のごとく気づけり
辺 軽



芒(すすき)ゆれわたしのうちもそともけす銀の波いくへにもいくへにもくる


やぶかうじ赤き実はわがふらふらとなんじかんもなんにちもありくゆめ
何時間
のあしもと



粥を食(は)みつゆさきほどの時間さへとりもどせねば粥どこへおつ


ひのひらてふこんなかなしいひろがりへ見えぬつぎつぎ梅も散りくる



たべかけの麺麭(ぱん)そのままにしておきていかばかりへば人生に似る


ゆめの濃さあはさも柳おともなく葉のゆれてゐる水のへのかげ


けさ生きてゐるあやしさは寝ねながら沈丁花(ぢんちよう)の香に反応してゐし



こごみ見るありあけすみれ一生はたまはりものにしてもみじかし



かすかなる芳香はかすかなる殺意よびさますにほひたちつぼすみれ



生はあるかなきかのかをりと祖母はゑみにほひたちちぼすみれを食めり



つぼすみれの葉うらむらさき億年のひそやかなやくそくごとをなしつつ



誰(た)がほんのすこしのわすれものなれや苜蓿(うまごやし)のへにあそぶわが生


木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもなら



いづけさをたれよりも識る石なれば日がのぼり日がしづむそれだけ



葉のうへの空蝉の目はみてをればいづくにもいつくしき虚空は走る



いつしかもゆふやみはきて鳴きやみし蝉の胸には水あかりある



ひまはりは日のしづみたるのちに佇(た)ちあたまおもしと思(も)ふにあらずや



生きてゐるおどろき刻刻たるなればこの尺取虫(しやくとり)も枝這ふしきり


木もそよぐことなき墓のへにきたりへいぼんでなにがわるいと問ひぬ
辺  平凡


猫ねむる庭のくぼみのひだまりのしあはせは掌に掬へばきゆる



仔ねこ眠る段ボールのなかのほのかなあかるさもみぞれまじりのゆふべ


仏像は非力を愧ぢてくづれしとバーミヤーンからうめきもきこゆ



あたまのなかに雨をふらせてゐるものは神にてサバンナのキリンにも

ふる




せうじよの眸(め)にいぬふぐりの瑠璃の咲きすがしさはわかちあふためにあ
少女



歳月はおほきなる洞(うろ)のごときにてむささびは木のなかにやすらふ



釘のかたちにいちばん欠けてゐるものを釘のかたちはおのづと示す



うちうにたったひとつの意味にたどりつきまなこをひらく茱萸(ぐみ)の実
宇宙 眼


すずめさへ知る枝先のしなやかな感触もしらず死にゆくにんげん



みな惚けてゆくやうなけふの遠方はぼんやりとしろきうはみずざくら
今日


とりかへしのつかざるあまたなることも嬉嬉とさくらのひかりをあぶる
数多


姫(ひめ)辛(こ)夷(ぶし)にこにこゑみて咲く春はあはよくばぱっと死ねよぼくたち


たまご生むたびにかはりてゆくわれにけふはひときは藤がまばゆし
   今日


すべきことせざるまますべきことでなきことしてときに餅もぱんくす
   時


犬と犬鼻ふれあふとみてわれはいいなあとさくらうてなしく土手
                     桜  台  


まもるべきはかなきことをまもりつつ蝸牛(まひまひ)を見てゐるやうに時すぐ


まひまひの生まれたばかりの子の背にも貝がある、痛々しいではない


あいまいにしてきたるあまたなるものをそのままに負ひ蝸牛(くわぎう)けむるも
数多       


かたつむりの全体重を葉はのせて わたしが葉なら空を飛ぶのに



竹節虫(ななふし)のひっそりとゐる全生涯の孤独はかたち意識するとき



こほろぎのいくおくまんの祈る音にこんげんてきな赤い月いづ
幾億万 根源的


たまきはるいのち破裂にちかき日は石もうちがはからみなぎれる


秋の蝶のつるむをみたりなにごともやりなほしきくごとひらひら



きよくたんな寒さに厳と立つ槻(つき)のまはだかはえいゑんのいりくち
永遠


寒鯉のかすかにうごくその震ひめぐりの水につたはらず止む



寒の朝卵いだきぬ産みたてのこのあたたかさがまぼろしのすべて
    幻


わがいかに悲しくあれどにはとりのからだにありて割れざる卵


初鶏にかすかにこころたかぶれどにんげんといふをうたがひてこし
昂 人間 來


おほみづあを給油所の白き壁にゐて朝のましづかさがここにあつまる



尾瀬沼はましづかにわが臀部にあり坐してひろごるさざなみのをと



風もきぶんもあなたもつかめぬものなればあたりいちめん綿(わた)菅(すげ)ゆるる  掴


産卵のやうなたかぶりしづめんむとしきりに足を清水にひたす


まぼろしをみるやうにひとをみるくせのひとにかかれる霓(にじ)をみてゐる
    架


ひとのゆめのなかなるごときま昼にて列車転覆すれどもしづか




ふゆの疎林のもともとすくなきひとかげのうつすらとそのかげよちちは
人影 影


ゆっくりとほかの世界へうつりゆく死にかたをこの犬にみてゐる



死蜂ゆ〈死〉のはなれゆきただのものただのものとぞひからぶるからだ



みづうみへふるおもひ言へ雪片はきゆるいつしゆんいつしゆんの火よ
一瞬 一瞬


人生をよくわからざるままに生きあるときは柊(ひひらぎ)に雪いつくしき



ふくろふはなんにんの生れかはりなるなんにんの悲(ひ)のかさなりを啼く
何人


ひまわりのだいたんに生きてゐしころとぼろぼろに死ぬるいまとかさ

なる


あきかぜはおそらくたれか死にしゆゑけふ老牛がしずかに死にき



ある日われひとつ南天の実のやうなかがやきにそつと生きたと記す



祈りがなにかとつながるやうに樹よ赤くそびえつづけてくださいいつも



死のことは歌ふなといふこゑごゑの花野のあかるきところを過ぎつ
声声


かひものかごさげていづこをゆくわれや妻は病みてみなれた街と思へず
買物籠


きみ病みてとんぼのめだまのやうになるとんぼのめだまだけのやうにな



家をめぐりアイリス氾らんしてをれどわたしのだいじなひとは病気で



きみの名はわが深くあり呼びいだすとき鴇(とき)いろにふるへるからだ



ねむるきみ緑陰つくる樹のやうにうごかぬはおほきなことをしてゐる



ひまはりの種テーブルにあふれさせまぶしいぢやないかきみは癌なのに



いつかくだらぬことでいっぱい笑はうといひながらそのいつかはあらず