今月の詩 2015/06/08

 いくら読んでも偏差値は上がりそうにない国語学習プリント

今月の詩
     2015年6月

 珈琲が好きだ。ただし普通、珈琲愛好家というとインスタントコーヒーを軽(かろ)んずる人が多いが、老教師の朝の一杯はかならずインスタントコーヒー。朝はチビたち(わが愛する孫たち)が散歩に行くのを待ち構えているから、自分だけの楽しみに浸(ひた)る訳には行かない。
 その代わり、学校に着いたらまずモーニング珈琲。お湯を沸(わ)かしつつ豆を用意し、西陵での一日が始まる。
 学生時代、木造アパートのそばに、実に美味しい珈琲を飲ませてくれる喫茶店があった。あるときご主人に「美味しい珈琲の淹(い)れ方を教えて下さいませんか?」と言うと、ちょっと考えてから、「素人の方は、先(ま)ず珈琲豆をけちらないこと。それからお湯は沸騰(ふっとう)したものをドボドボっと注(そそ)ぎなさい」と言う。以後そのアドバイスを守りつづけてほぼ50年。上手になったかどうかは分からないけど、本人はスーパーの特売で買ってきた豆を自分で淹(い)れる珈琲の味に満足している。「専門家とは大したもんだ。」
 ただし、専門家で信用するのはその専門分野に特化(とっか)した内容のみ。
 これも約50年前の話だが、叔母さんが血管の病気でかなり危険な手術を受けることになり、たまたま近くに住んでいたので、病院で従姉(いとこ)たちと手術が終わるまで待機したことがある。
 しかし、叔母さんは術後に意識を回復することなく亡くなった。死亡が確認された後、遺族のところに助手と思われる若い医師がボロボロになった血管を切り取って持ってきた。「手術自体は成功していました。」──それが何の慰(なぐさ)めになるの?──

 福島原発事故は君たちの記憶にもまだ新しいだろう。日本に来る予定だった有名人の大半が訪日をとりやめた。近くの国の新聞は「日本はもう二度と立ち直れない」と書いたというし(その国の人の話だから信用している)、イタリアでは東京の放射能の価(あたい)が新聞で大きく報道されたあと政府が、「ローマの通常の放射能よりは低い」と発表したという話もある。
 そのイタリアにモランディという画家がいた。その人の絵が日本に来ることになっていたので楽しみにしていたのに、「放射能汚染によって絵の価値が下がっても補償できない」とイギリスの保険会社が通告してきたので日本人は見られなくなってしまった。
 そんな中、アメリカ人の日本文学研究者が敢然(かんぜん)と「ぼくは日本で死ぬ」と日本国籍の申請をしたので、我が家の家主さまはその人を「日本の恩人」と呼んでいる。(その人の回想録を読んだことがある。「日本文学に興味を持ったのは、カネが全然なかったころ偶々(たまたま)古本屋にたった4ドルで山積みされていた英訳の源氏物語を買ったのが始まりだった」)ドナルド・キーンという人です。日本文学についての様々な著書があるから、名前を覚えていて損はしないと思う。
 福島県から玄洋高校に転校してきた男の子をテレビで見たことがある。原発事故はたくさんの人々の人生を変えた。

 今日は、専門家の言うことはその専門分野に特化された範囲でしか信用しない、という話だった。

 三陸沖で地震が起きたとき、原発自体は大地震に耐えた。津波にも耐えた。日本の技術力はすごい。
 なのになぜ事故が起こったのかというと、専門家は自分の専門以外のことにはいっさい関心を持っていなかったからだ。
 地震が起きると原発は設計通り、自動的に停止した。原発の停止にともなって核燃料を冷却するために必要な電力は送電線から供給されるように設計されている。もし送電線が切れた場合は原発の傍(そば)に設置したディーゼルエンジンが自動的に作動して発電し、原発に電力を供給する。つまり二重の「安全対策」が取られていた。しかし、現実には電力は供給されず、核燃料が過熱して事故につながった。それはなぜか?
 ディーゼルエンジンは外にむき出しの状態で置かれていたので、津波でアッサリやられてしまっていたのだ。原発の安全対策であるディーゼルエンジンには、安全対策がまったく取られていなかった。たったそれだけのことで今も大きく尾をひいている大事故が起こった。
 「原発の専門家」は原発のことにしか関心がなかった。叔母さんの血管の手術をした医師が血管にしか関心がなかったように。
 「手術は成功していました。」
 「私の設計した原発地震にも津波にも耐えられることが証明された。」
──それが何の慰(なぐさ)めになるの?
 1979年、アメリカのスリーマイル島原発が事故を起こしたとき、「逃げられる人は出来るだけ遠くに自分で逃げてください」と発表された。(明治時代の三陸地震津波を教訓に「地震がおきたら逃げられる者から先に自分一人で高いところに向かって逃げろ」と先生が教えていた小学校の児童は全員が助かったそうだ。その明治時代のことは吉村昭の小説『三陸海岸津波』で知ることができる。文春文庫に入っている。)
 続々と脱出を図(はか)る人々によって道路が塞(ふさ)がれ、緊急車両がスリーマイル島に近づけなくなるのを未然に防ぐために避難計画を立てた責任者は「人々の安全のために必要なのは専門知識じゃない、常識だ」と発言している。
 私たちにもっとも必要なのはその「常識」だ。常識が、最小単位の家庭から国家や国際社会まで、われわれの安心できる生活を支えている。ただ、なにが常識なのかという問題はけっこう難しい。何故なら常識とは、知識というよりは感覚に近いものだからだ。

 とつぜん話のスケールをでっかくするが、軍国主義の時代、陸軍のことしか考えていない「専門家」や、海軍のことしか考えていない「専門家」や、「民主主義」のことしか考えていない「専門家」たちが、この国を誤らせた。かと言って、スペシャリストたちをただの道具のように扱う社会は没落する。もうこの文明は、スペシャリストたちの真摯な努力なしには持ちこたえられなくなっている。が、同時に、私たちコモン・ピープルのささやかではあっても切れ目のないジョウシキ的な日々の営みによってこの世界はやっと維持されてもいる。それは誇っていいことだ。 
 何事も0か100かにするわけには行かないから、、難しい。その「0でもなく100でもない中間――たとえばそれが「平和」「幸福」「安全」――を自転車にはじめて乗ったときのように維持しようとする感覚、を、常識と呼ぶんじゃないのかな。

 ノーベル賞受賞者相対性理論」のアインシュタインは「学校で学んだことを一切忘れてしまった時に、なお残っているもの。それが教育だ。」と言っている
 大好きなイギリスのテレビドラマ「オックスフォード・ミステリー」の高校出身ルイス警部が大學出身の部下ハサウェイに言った言葉も忘れられない。「学校は生きる力を学ぶところだ。オレにはもう必要ない」

 君たちは毎日、「感覚」のイメージに近いジョウシキ、すべてのことに通用するジョウシキ(普遍的感覚)を鍛えるために勉強をしている。もし文系だからと数学や理科をいい加減にしたり、理系だからと国語や社会・歴史を怠けて受験に必要な知識ばかりを追っかけたりしていたら、肝心の常識が育ちそこなう。常識なしに幸せになれると思うな。

 ?素人のかたは珈琲豆をけちらず、沸騰したお湯をドボドボっと注ぎなさい。(この「ドボドボッ」は、「お湯がぬるくならないうちに手早く」と解釈している) 

 先月、詩人の長田弘さんが亡くなった。75歳だった。
 社会人生活をはじめたあと、ヘタりこみそうだった時、彼のことばによってエネルギーが甦った記憶が何回かある。感謝。

 自分の死を意識しはじめた時と、3,11が重なった詩人は、『世界は美しいと』で次のように綴(つづ)っている。

      一日は、窓にはじまる。
      ・・・・・・・・
・・・・・・・・
      ことばが信じられない日は、
      窓を開ける。
 
 長田さんの詩集を図書室に入れてくださるように頼んでみます。