矢山哲治

今月の詩
                    2014年12月

 新聞に下のようなコラム記事があった。

 国語学者大野晋さんに回想がある。「恋ふ」の命令形は「恋ひよ」(ハ行上二段活用)だと説明したところ、女子学生から質問が出た。「その命令形は成り立つのでしょうか?」恋することは誰からの指図も受けないはずだ、と。さすがの大野先生も返答に困ったらしい。
 悲しい時代にはその命令形が成り立つのかもしれない。
 映画監督、瀬川昌治さんの著書『素晴らしき哉 映画人生!』の一節に胸を衝かれた。
 「君たちに教えることはもう何もない。ただ、兵隊に行くときは肉親以外に一人秘めた人を心に持って行ってくれ。それが自分が教えることの最後である」
 瀬川さんが高等科に学んでいた頃、教師から贈られた言葉だという。
 若くして散るやもしれぬ命を、せめて恋心で飾ってやりたい。
 痛切な思いが伝わってくる。
 恋ヒヨ。

 私の高校三年生のときの担任は不思議な人だった。普段は優しいのだが突然キレることがあって、私はそのヤツデの葉のような大きな手で二回ひっぱたかれたことがある。 一回目は運動場の掃除中にみなでブラブラしていたら、だれかが職員室の窓から外に飛び出して裸足で走ってくる。「あのバカは誰か?」と笑っていたら自分たちの担任だった。みな一発ずつ引っぱたかれて呆然。担任はまた走って戻っていった。きっと「オイ、あんたのクラスんとがまた怠けよるぞ」か何か忙しい最中にからかわれたのだろう。
 あと一回は授業をさぼった時。(話せばそれなりに長い理由があったのです)担任は「アイツは授業はさぼっても部活はさぼらない」と見抜いていて、放課後の部室の前で待ちかまえていた。
「あっ。」
「お前は明日から学校に来るこたならん! しばらく家で頭を冷やしとれ!」
 やっとお許しが出て学校に行くと担任から声をかけられた。「お前のお袋には参ったぞ。さんざんお前のしでかしたことを並べ立てたのに、涙を流しながら″私は息子を信じます″と言いやがった。」──これ以上ハメをはずわけには行かんな──

 その担任が卒業前最後の訓辞で、
「お前たち、恋をすることを忘れるな。」と言った。

 60歳のときの同窓会に出るとその担任がいる。「うわぁ来とるぅ。」あとでビールを注ぎに行こうと思っているうちに向こうから来た。「こらあ、××。キサマは高校生のときもオレを無視しとったが、まだ無視し続けるとか!」
 イエイエ決シテソウデハアリアマセン。
 そのあとのコトバにあっけにとられた。
「これからオレとお前と男の勝負をしよう。どっちが長生きするかの勝負じゃ。」そこまでならまだいい。続きがあった。「どうもオレのほうに勝ち目がありそうな気がする」
 ハイ、先生ニハ勝テソウニアリマセン。

 その前、担任が定年だと知ったときクラスでビリから2番目だった男(ビリはこの老教師)に「クラス会を開け」と℡をした。「なんでオレな?」「ジン(担任のアダナ)にいちばん迷惑をかけたとはオレ。ばってん飯塚におらん。2番目に迷惑をかけたとは飯塚におるお前やろが」。気のいいそいつはすべての段取りをつけてくれた。
 クラス会には全国から30人近くが集まった。
 その最後の挨拶で担任はまた同じコトを言った。
「お前たち、恋をすることを忘れるな」
 言われた女性軍が(酒の勢いもあって)担任を取り囲んで詰め寄った。
「あんたねぇ、口先だけでそう偉そうに言いよるばってん、受験勉強の妨げになるち思うてアタシたちがつきあうとをジャマしよったろが!」なんとも愉快だった。
 じっさい同じクラスだった部活のマネージャーが二者面談からプンプン怒って帰ってきたことがある。そして私の前に仁王立ちして(彼女は私より10㎝以上背が高くてスタイル抜群だった)見下ろしながら「なんでアタシがアンタとの仲を疑われにゃならんとね!」プライドを傷つけられたのが我慢ならないという口ぶりだった。
 成績が下がったので心配しての臨時二者面談だったのだ。
 大学入学後、その「お父さんはグデングデンに酔っぱらって帰ってきたとき肩を貸そうとしても、″お前じゃつぁらん。お母さんを呼べ!″ちゅうと。お母さんが肩を貸したら素直に玄関から上がるとよ。アタシあげん夫婦になりたい」と言っていたマネージャーと故郷の街でばったり会ったことがある。
 「××さあん」と嬉しそうに手招きするので近づくと、「アタシ結婚する!掘り出し物を見つけた!」
 残念ながらいまだにその「掘り出し物」を見せてはくれない。

 そうか! 
 あの先生の青春時代、日本は戦争していたんだ!
 今頃になってそのことに気づいた。
 だから卒業後、東京に出ますと挨拶に行ったとき、「お前が高校生活をいちばん楽しんだな。」とはなむけの言葉を贈ってたんだ。

 恋ヒヨ!

 その先生より数歳年上で、24歳の昭和18年にこの世を去った福岡出身の詩人は次のような詩を遺しています。


       美しい日に    矢山哲治

     ぼく達の背後に
     美しい娘達が待ってゐる
     誰か知らないが待ってゐるのだ
     さうしてぼく達は
     前方にまっしぐらに歩いていく 
     

          鳥

     わたしは鳥
     もう一羽の鳥に呼びかける

     日が暮れるまで
     羽がくたびれるまで飛んでゐようよ
    
     わたしは鳥
     もう一羽の鳥が呼びかける

     夜が明けるまで
     羽が休まるまで翔(か)けてゐませう   

 友人たちのほんとんどが戦争に行き、矢山と二人で博多に残っていた後の小説家島尾敏雄は、突然この世から姿を消した親友に下のような詩を捧げている。


        鳥よ お前は

 鳥よお前はもう人間ではなくなって
 黒い帽子に羊羹(ようかん)色のトンビひっかけ
 この街を飛び歩くのだ
 ばさばさと寝縹(ねはなだ)の街を鳥よ

 鳥よお前は何を見た誰もゐなくなったこの街に
 この街角で誰に話しかけるの
 焼棒杭(やけぼっくい)の悲しさに
 素知らぬ顔ばかりことばの通じない鳥よ

 鳥よお前は何故死んだ
 トンビの裾(すそ)翻(ひるがへ)して通り抜ける
 夜空に血を吐き泣いたとて
 ほととぎすの悔ひは叶ひはせぬ何故死んだ鳥よ

 (私の死んだ東北の祖母はよくこんな昔話をきかせて呉れた。兄思ひの弟は貧乏の中から無理をして外で働く兄の為に食べ物を工面した。お芋も自分はへたを食べても兄にはよい所を残した。兄は、残し物さへこんないい所だから弟のやつもっとうまい所をこっそり食ってゐるのであろう。兄は弟の腹を割ってみた。へたばかりしか出なかった。兄はほととぎすになって血を吐くまで泣いて飛んで歩く。おとゝ恋しやぽっと打割(ぶっつあ)いた。此の章は私の悔)

 鳥よ風が吹いてゐる
 荒れてゐるよ街が帽子が
 飛んで行くよ風よガラス戸をたゝくな
 たゝいてくれるなほら柩(ひつぎ)が通る鳥よ
  
        ※トンビ=学生達が羽織っていたマント。