草野心平『エレジー』

いくら読んでも偏差値は上がりそうにない学習プリント

  今月の詩                     2015.11月
 夏休み前、図書室のテーブルの上に見つけた、野見山暁治『空のかたち』を読み続けている。
 野見山さん(高校の大先輩なのでそんな呼び方をしているが、去年文化勲章を受章したエラい画家です)の本はたいてい読んでいるつもりだったので「あれ?これまだ読んどらん。借りてっていいですかぁ?」「どうぞぉ。」それからもう三ヶ月経つのにまだ持ち歩いている。
 短い文章を集めたものなのだが、そのひとつひとつに、読み終わった読者を黙らせるものがある。「ふう。続きはまた次の機会にしよう。」
 そんな読み方をしたのは、最近では、ブルース・チャトウィン『どうして僕はこんなところに What am I doing here?』と辻まこと『山からの絵本』ぐらいかな。
 あと一冊バッグに入りっぱなしの文庫本『微光のなかの宇宙』(司馬遼太郎)もあるが、こちらは自分で買ったものだから返す義務がないぶん、さらなる後回し。これも、ひとつ読んだらもう次に移りたくなくなるアンソロジー。どちらも絵に関する文章なのはたまたまの偶然だと思う。

 当時70代だった野見山さんは、いろんな人や絵について語りながら、そこから浮かんできた言葉を書く。
 たとえば、
――優しさは獲(か)ち取らねばならないものなのかも知れない。
――人はこの世で、観覧席の側にはけっして入れないのだ。(ネットにハマっている者は良く聞いいておけ)
 野見山さんは90代の現在もまだ観覧席に移ろうとはせずに何かを獲ち取ろうと闘っている。その何かとは、たぶん一本の線だ。アシスタント(老教師の同級生の妹なのだそうだ)から「先生の絵はいくら描いても売れないんです。だからもう置く場所がなくなってるじゃないですか!」とキツいことを言われても、自分に納得のいく一本の線が描けるまであの人はやめない。その一本の線は永久に描けないのかもしれないけどやめない。
――プロの絵描きなんていない。いたらその絵描きはニセモノだ。
 そんな大先輩を尊敬している。尊敬しているし「かなわないな」とも思う。絵の才能のことを言っているんじゃない。野見山さんみたいな「ひとつのこと」をし続ける能力がこの男には決定的に欠けている。

 学生時代の友人に手相見が上手なヤツがいた。とにかく「よく当たる」と女の子に大人気で「アタシの手相も見て」と手を出してくるから女の子の手に触り放題のヤツに「オレの手相も見ろ」というと、こっちの手をつまんでから「お前はいろんなことに才能がある。でも才能の種類が多すぎて、どれもモノにはならない。」あとになって思い出してみると、ものスゴい予言だった。

 その頃、自分自身では「何者にもなりたくない」と思い続けていた。どうしてそんなことを考えるようになったのかは、今となっては分からない。でも「何か」になりたくなかった。
 ずうっと後になって、いわゆる「スペシャリスト」への不信感が強くなった頃(西陵の先生に「教育専門家」への感想を尋ねてごらん。たぶん私と似たことを、それとなく口にするはずだ)、「そうかオレはジェネラリスト(Generalist)になりたかったんだ」と思うようになった。さらにその後、「ジェネラリスト」が和製英語(アメリカ人に言っても首を傾(かし)げるそうだ。向こうでは common peaple と言うらしい。直訳したら「常民?」)であるのを知ったとき、たぶん老教師に日本人としてのアイデンティティが芽生えた。そんな気がする。   
 老教師に限らない。日本人というのは「普通の人間でありたい」と思い続けている人々のことなのです。「特別の人間は個人的な人間関係のなかだけでいい」
 野見山さんの絵以上にその言葉に惹きつけられるのも、彼の言葉がどこまでもフツウだからだ。(もちろん絵も好き。彼のスゴいところは90歳を過ぎてからの絵が充実していることだ。彼の中でやっと何かが総合化されてきたのだと思う。)
――進軍ラッパが鳴りやんだと思ったら、今度は平和ラッパが鳴り響き始めた。(この国はなにも変わっていない。)

 野見山さんは「プロの絵描きなんてニセモノだ」と言う。「ゴッホは偉大なアマチュアだった。」
――よぉし、あと何年できるか分からないけど、オレはアマチュア教師、アマチュア人間のままで生き通す!

 教員になっていくらも経たない頃、部活生がハシャぎまわっているところに遭遇した。「あ、アラキ先輩!」部長が慌てて怒鳴りつけた。「バカ!先生やろが!ほんとにバカ!」「ごめんなさい。先生。」その後輩生徒は毎年、50を過ぎても年賀状をくれる。「お元気ですか?」いまや私は彼女にとって、先生というよりはホントの先輩、なんじゃないのかな。

 今月は、高校時代一人きりになれた時、繰り返し読んでいたものの中から草野心平の詩を紹介します。ちょっとエッチだけど、ちょっとちょっと「キュン」になる(はずの)詩です。
 ただ思いっきり長い。お覚悟のほどを。
   エレジー
                あるもりあおがえるのこと
あいつはあの時。
(そうだ。もう六年も前のことになるのだが。)
あいつはあの時。
つぶやくように言ったっけ。
美しいわ。
と。
たった一と言。
水楢みずなら)の枝にしゃがみこんで。
はっぱのしげみにお尻をのっけて。
そうしておれは。
あいつの三倍も小さくすすぼけた色をしてしびれていたが。
美しいわ? なに言ってんだいとぼんやりおれは。
おっぱい色のもやのなかでわらったものだ。
眩暈(めまい)するほどの現実のなかで。
恍惚のなかで。

  けれどもどうやらはなしはちがってきた。
  六年もたったせいかおれの考えもちがってきた。

美しいわ。
あいつが死んでからあの時のあの一と言が。
音楽よりもかなしく強く。
いまおれのからだのなかでさざなみになる。
美しいわ。
の一と言が。
どうしてだろう。 かおも恍惚も忘れたのにどうしてだろう。
そのひとことだけが思いだされる。

  原始の林と山あやめ。横倒しになった樅(もみ)の古木が水に映るこん  な静かなすき透る沼から。よその土地の者等がやってきて。半分もの好  きなアヴェックがあいつをバッグにつめこんで里に降りバスに乗って帰  ってゆき。そうして裏の水溜まりに放したそうだ。そうだということは  おれたちの世界では電波みたいに分かるのだ。それからあいつは鳴くこ  とをやめ。あんなに好きなソプラノを遂(つ)いぞ歌わず。そうして生  ぬるい泥っぽい水のなかでベロを出して陀仏(だぶ)ったそうだ。だれ  に出したベロ? そのベロ。そんなこともおれたちの世界では電波みた  いに分かることだ。

オリーブ色のあいつの背中。
もうあの背中から夢はもうもうとたちのぼらない。
あいつの背中にかわる背中を。
おれはずいぶん経験した。
けれどもあの時の。
美しいわ。
そんな言葉はあの時がたった一度の経験だった。
恍惚をはぎとるようなそんな余計なたわ言を。
あのさなかに。
どうして言ったのか。
おれは片方の眼だけをひらいて。
なにほざいてんだと言おうとしたが。
言わずにひらいた眼もとじた。
その通りでそれはよかった。
それがおれには正しかった。
けれどもいまになっておれは切なく思うのだ。
黒い点々のいもりの腹にどれだけ毎年。
おれたちの子たちはのみこまれるか。
また里につれられてったあいつのように。
どれだけ毎年。
おとなも死ぬか。
美しいわ。
とあいつが言ったその時。
あいつのからだの中から千も二千ものあいつの子たちが。
おれたちの子たちが。
沸いていたのだ。
そうしておれとあいつの共同が。
水楢みずなら)の葉っぱに。
子たちを包んだ白いまぶしい泡のかたまりをつくっていたのだ。
生むよろこびと。
そして生もうとする意志の愛(かな)しさを。
美しいわ。
といったにちがいないといまになっては思えるのだ。

ああ死んだくみーるよ。
おれはいま。
くみーるよ。
お前も知っている北側のあの三本目の。
沼につき出た太い水楢みずなら)の枝の上から。
方々にぶらさがっている電気飴(でんきあめ)を眺めている。
さっきにわか雨があって。
いまは晴れ。
あやめの紫は炎に見える。
そよ風だよ。
くみーるよ。
お前が好きだったその風だよ。
こんな風景なら鈍感なおれにも美しい。
お前はこんな時には。
天からもらったソプラノで。
あの古風なホームスィートホームをうたったものだ。
いまそよ風に。
われわれの百五十もの綿飴(わたあめ)はかすかにゆれる。
美しいわ。
お前の言葉を思い出す。
お前の言葉はなんだか生きているかのような思いがする。
お前の言葉はなんだかおれに勇気をくれる。

(ああ人間の声)

人間たちが登ってきた。
生(な)ま木のステッキなどを振りながら・・・。
おれはしばらくぴったりここに。
動かずにいる。
じゃ。
さようなら。
くみーるよ。

さようなら。