洲うた〈9〉

〈洲うた〉9 


 終章は頭も胴体もない尻切れトンボの脚本になる。

 時は昭和二十一年はじめ。
 引き揚げ船のなかで知り合った男から「好きなだけ居ていい。酒だけはいくらでもある。」と言われて、酒を飲むこと以外に何もしていなかった所に幼なじみの同級生から「いちど出てこい」という連絡が届き先生は上京する。その夜の会話は断片的に何度かにわたって聞かされた。

 その独酌しながら話してくれたことをつなぎ合わせて、思いっきり拡大解釈した会話にする。
 「こいつは何にも言わない。ただ黙って俺の話を聞いているだけなんだ。」
 いつもそうだった。何も言わずに座っている少年に、呑みながらぽつりぽつりと話をしてくれた。それがみな、その時聞きたかったことのように記憶しているのは、こちらが都合良く記憶をすり替えたのか、それとも先生は八卦見のように少年の心を見透かしていたのか。
 どう考えてみても見透かされていたとしか思えないのが不思議だ。むしろ、あの少年は先生が自分を見通してくれると思い込んでいたのかもしれない。いや、きっと、先生がどんな話をするにしても、それが自分の中に入っていく準備が整った時、自分をまっさらに出来る自信のあるときだけを選んで、あの家に出かけていたのだ。(「また先生に会えるようになりたい」)
 怖い人だった。でも、あんなに優しかった人を知らない。
 福岡に戻ってからも年に一回は手紙を書いた。返事はめったに来なかったが、あるときは「お前の書いてきたことは、反逆は若者の属性だと思ってそのまま聞いておく」とあった。
 先生が心筋梗塞で倒れたあと、訪ねていくと、「おい、今日はお祝いだ。御神酒を持ってこい!」したたかに酔っ払った先生は「校歌を歌え!」〝穂波川原の明け暮れに〟を肩を組んで合唱して別れた。
 最後に会いに行ったときはもう布団から出なかった。「では帰ります。」と言うと、急に大声を出して「また来い!」そのあとに「そうも言えなくなったなぁ。」とつぶやいた。それが記憶にある最後の肉声だ。
 あれはいつ頃だったか。めずらしくすぐ葉書で返事が届いた。「お前はもうチンピラじゃない。」
 いえ先生、すみません、ぼくはいまもチンピラです。チンピラでしかあり得ないのです。そう覚悟して生き始めました。第一、チンピラじゃなかったら先生と向かいあえなんかしませんよ。 でも、チンピラにはチンピラの仁義があります。矜恃があります。それを棄てたことはないはずです。

 
──酒も切れたか。
──まあ、どこでどうしたか知らんが、よくホンモノの酒を手に入れてくれた。うまかったぞ。
──これからどうするつもりだ?
──大学に戻ろうかと思っている。
──あきれたヤツだ。お前はあそこがまだ学問の府だと思っているのか? 俺たちがいたときす でにあそこはもう、そこで生き延びようとする大人たちの争いの場でしかなくなっていたじゃ ねぇか。
──・・・・。
──やめとけ。自分から自分を腐らせることはない。
──じゃ、お前はどうするつもりなんだ?
──俺はなぁ、闇屋になろうかと考えている。
──出来もしないことを口にするな。
──ほう、言うじゃねぇか。でもな、畳の上しか知らなかったお坊ちゃんと違って、俺は中学を 卒業したとき、すでに地面に自分の足で立って生きる術を身につけていた。今に見ていろ、あ ぶく銭をしこたま手にして、散財する姿をご覧に入れて進ぜようぜ。
──やっぱり、それはお前には出来ないことだ。
──いや、出来る。考えても見ろ。お国が滅んだことは事実として受け容れるしかない。しかし、 国家も警察も信用できず、既成の組織に所属しないとなると、闇屋になるしかあるまい。俺た ちはいい。どうせ、その信用ならない国家の金でのうのうと生きてきただけだ。そうじゃなく て、これまでも、これからも、お国を頼らずに生きていくしかない連中、配給米だけでは生き 延びられない子どもたちをほったらかしておけるか。
──その裏返しの理想主義がお前を傷つけてきたのに、まだ諦めがつかないのか?
──諦めてたまるか。先生がいつも言ってたじゃねぇか。「君たち、どんな時でも、どんなこと があっても、前を向いていなさい。」
──うん。でも、あの言葉は、もう諦めた人の言葉だったような気もする。あの先生はあの後ど うしたんだ?
──知らなかったのか。やっぱり畳の上でしか生きられない男だな、お前は。それが良くも学徒 出陣なんかしたもんだ。その一瞬にして捨て身になれる点だけは、お前にはかなわないといつ も思っていた。育ちのいいヤツにはかなわない。
──よけいなことを言うな。あの先生はどうなった?
──辞職して満州に行った。その後の消息は知らない。しかし、戻ってきてはいまい。そんな人 だ。
──そうだったか。
──教師たちもいろいろだったな。一旗組や再起組から、先生のようにもう内地で不可能になっ たことをやりたくて、わざわざ来た人まで。
──ウユンスンは泣かなかったか?
──泣いた。泣いた。泣きながら先生にむしゃぶりついて俺たちには分からないことばを叫びつ づけた。きっと先生をなじっていたのだと思う。
──あいつはどうした?
──ふむ。あいつは特攻機に乗って自爆した。
──どうしてだ? どうしてそんなことになったんだ?
──馬鹿野郎! あいつは状況に流されたりは決してしない! あいつはなぁ、自分のお国に覆 い被さっていた大日本帝国を自分と一緒に海に引きずり込んだんだ。そのあとには初々しいお 国がきっと残るに違いないと信じてな。・・・いや、信じてはいなかったかも知れない。しか し、そうでもするやつがいなきゃ、お国が可哀想すぎるじゃねぇか。
──・・・。いや、国家なんかじゃない。日本人でも「天皇陛下万歳」と叫んだときに国家やあ のお顔を思い浮かべていた者が何人いるか。みな古里や親や兄弟や恋人や子どもたちの顔を必 死になって思い浮かべようとしたんだ。・・・ふるさとだ。ふるさとで暮らしている、これか らも暮らして行く弟や妹のためだ。兄はいっさいの女々しさを持たず、日本人なんかよりはる かに雄々しく生きたという証拠を残してやりたかったんだ。
──じゃ、あいつは日本人として死んだと言いたいのか? 
──勘違いするな。あいつは生まれたときから日本人だったんだ。その日本人としてのウユンス ンを先生はまっすぐに受けとめた。日本はあいつに覆い被さってなんかいなかった。あいつの 体にしみこんでいた。それを簡単に脱色なんか出来るものか。そうする気なんてまったくなか った。・・・でも、それも違うかもしれない。
  あの『洲うた』な、あれ、ウユンスンが書いた最初で最後のラブレターだったんじゃなかっ たのかな。
──貴様、まさか?
──天皇だ。ウユンスンは先生を通して天皇に恋をしたんだ。だからあんなラブレターを本気で 書いた。書いただけじゃすまなくて俺たちを糾合して上演しようとした。実るはずもない恋だ ってことぐらいあいつには最初から分かっていた。それで少しも構わなかった。ただひとこと 「好きです」と言うのに対して「ふうん」と言ってくれればそれで十分だった。なのに聞いて さえもらえなかった。「好きです」と言うこと自体を拒絶された。・・・小学生だぞ。小学生の ときにあいつはもう世の中のからくりと人生を知ってしまった。・・・本当なら無理心中した かったんじゃないかな。いや、俺がユンスニなら先生と天皇を殺してから死のうとした。でも、 それは出来ないんだ。その人には生き残ってほしいんだ。恋ってそんなものだろう?
──クソ! 妄想するにもほどがあるぞ。もっと言え。 
──お前はユンスニのように身も心もふるわせるような恋をしたことがあるか? 命がけの恋を したことがあるか? ないだろう? オレもない。これからもあるわけがない。だったら、ど んな結果になったにしてもあいつの人生のほうが俺たちよりはるかにマシだった。俺たちがこ のあと何年生き延びようとも、あいつの人生には絶対にかなわない。俺はそう決める。
──板垣、外に出よう。あいつが俺たちに無理矢理やらせたように、今度はユンスニに俺たちが 答礼をしよう。
──おう、やろうぜ。
──外だ。ここじゃお隣さんを驚かせるだけだ。出よう。
──よし、出よう。

(ふたりは冷気がたちこめた外に出る。)

──なんだ、もう夜が明け始めているじゃないか。
──おう。空気がうまけりゃ煙草がうまい。
──おうよ。
──ウユンスンよ。はっはぁー!
──馬鹿野郎。勝手にやるな。あいつからまた怒鳴りつけられるぞ。
  ユンスニよぉ、
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──よし、交互にやろう。
──おうよ。・・・。
  ユンスニのふるさとよぉ、
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──ユンスニの兄弟たちよぉ、
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──俺たちの育った土地よぉ、
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──俺たちの滅んだお国よぉ、 
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──ふるさとへ還れると念じて滅んでいった人々よぉ。
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──ふるさとを思い出す間もなく生を終えた人々よぉ。
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──これからを生きねばならぬ人々よぉ。
──はっはぁー!
──はっはぁー!
──声が小さぁい。も一度声を揃えてぇ。
──はっはぁー!
──はっはぁー!

(間)

──俺は上陸した博多に戻る。あそこからやり直す。
──おう、それがいい。どうせなら、空きっ腹を抱えて闇市をうろついて、何か腹の足しになる ものをくすねられないかと目をぎらつかせているガキどもに文字を教えろ。
──それも考えてみる。
──空きっ腹を抱えているときほど、腹の足しになるもの以上の何かが人間には必要なんだ。た とえ、その何かがいづれはまた災厄につながるかも知れなくてもな。生きるために必要なもの は必要なんだ。
──うん。
──俺はガキどもの腹を満たすことに専念する。
──イキがるな。お前の悪い癖だ。でも、思いっきりやってみるがいいさ。
──ほう、お坊ちゃんから許可が出たぞ。
──ふふん。お前が八年目に入った時オヤジが言った。「好きなようにするがいいさ。気の済む までやってみろ」
──そうだった。父上とは連絡がついたか?
──うん。
──母上も健在か?
──らしい。
──それは良かった。・・・順序がなっちゃいねぇな。まず、そのこと訊いてから話し始めるべ きだった。
──いつものことだ。
──そうだな。博多での生活が地についたら、美しい女をつかまえて孕ませろ。いいか。大事な ことだぞ。
──ふん。
──お前の子どもを産みたかった女を幾人も知っている。そろそろ往生しろい。
──おうよ。じゃかすか子だくさんになってみせる。金が足りなくなったら貴様に泣きつくぞ。
──おうよ。お前からしゃぶりつかれてもビクともしないようになっていてやる。
──お前もな。
──ううん。オレは無理かも知れない。が、そのぶんは他人の子どもで飢えを満たす。
──そうか。
──そうだ。毎朝な、ここを坊主が通るんだ。学校に通うためにな。どうだ、ひとつ坊主を励ま してやろうじゃねぇか。
──今朝は冴えているな。よし、やろう。

 (薄明の奥からヘッドライトをつけた車が近づく)

──(吸っていた煙草を慌てて足で踏み消して)整列!

 (復員兵姿のふたりは直立不動の姿勢をとる)

──少年のぉ、困難な未来に向かってぇ、敬礼!

      二人は近づく車のほうは向かず、真正面を見つめたまま姿勢を崩さない。
      車の少年はお付きの者が静止するのを振り切って窓を開け身を乗り出し、
      二人に手を振る。
その小さな手が画面いっぱいにクローズアップされて、
──END──