雲雀よ〈3〉〈4〉

雲雀よ!〈3〉


 卒業式以来の自宅療養でどうにか頭も心も軽くなってきた。一年間の蓄積疲労と先月の心労とがこたえたようにも感じるが、五年ぶりにウツがぶり返してきている感覚もある。そう思っただけで憂鬱だ。…………また、ひきこもりになるのか。…………若い頃から「春は憂鬱な季節」ではあったけれど。

 新聞のコラムに開高健『夏の闇』の一節が引用されていた。
 「食慾、情慾、運動、労働、思考、煩悶、愉悦、すべてが、いっさいがっさいが、生そのものが眠りによってのみ完成されるはずなのに」
 そんな所があったか。あの人の文章を安心して読めたはずだ。
 二十代前半に『アイヒマン裁判傍聴記』を読んで、「この男は信用できる」と思ったあと、開高健に本格的にのめり込んだは30歳前後。とくにベトナムものは、それだけが眞實に思えた。が、読み終えたあとに残っているのは「チョイヨーイ」(中国語なら「没法儿子?」)と、すべてを呑み込む真っ赤な落日のみ。でも、そんな「肉声」や「光景」だけが記憶されているのは小説家の勝利だと思っている。
 若い友人の句(反歌というのがあるんだから反句というのもあっていい)は見事だった。
 ──チャプスイの混沌として夏の闇──

 今日書きたいことを前もってまとめるなら、「この世界はハイブリッド体だ」ということになるはずだ。そんな表現が新奇なら世界が新奇なのだし、それが陳腐なら世界が陳腐なのだし、それが異様なら世界は最初から異様なのだ。
 でも、考えていることは、それとは少しずれているのかも知れない。前段で「世界」と呼んだものは、本来なら「文明」と呼ぶべきものなのではないか? われわれが「文明」と呼んでいるのは、「濾過された世界」のことのような気がしてきている。

 『中国古代の文化』を読み始めたところに、後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ』が飛び込んできた。ちょうど『イナンナ』を見てきた(いや遭遇した、と言いたい。)ところだっただけに、その興奮度は数年前の中沢弘基『生命誕生』なみ。ただし、文章が緻密すぎるうえに、添付されている地図や図表が初心者には大まかすぎてイメージが湧いてこない。(山本七平『聖書の旅』のときもそうだったから図書館に行って、旧約聖書時代を復元した地図をコピーした)「何かないか」とアマゾンで探し「前川和也『図説メソポタミア文明』が良さそうだ。」と図書館に予約して受け取ったら大当たり。書かれている内容もだが、たくさんの写真を見ているだけでウットリする。さっそくあらためてネットで注文した。
 だから『中国古代の文化』はまたその後の後ということになる。
 一年前の春休みは、けっこう分厚い安藤礼二折口信夫』をリュックに入れて愛媛に渡り、三輪田米山→三頭火→立木仏→尾崎放哉→李禹煥の旅をした。引きこもりになる前に、今年もとにかく青春十八切符を買いこもう。ただ、ことしはまだ「会いたい人」が浮かんでこない。井伏鱒二の生家が福山に残されているのは知っているけれど・・・。そうか。あの人が「中原中也記念館に教え子が勤めている」と言ってたな。名前を聞いておかなくちゃ。

 2015年度最後の授業のプランがぼんやりと浮かんできた。
 「現実の外側の世界に純粋なものなんてない。不純物だらけだ。でも、だからといって悲観する必要なんかまったくない。もともとこの世界は純粋なものが交雑したことによってはじめて起こったんだ。その〝不純〟や〝交雑〟をいまのことばに置き換えたら〝ハイブリッド〟になるんじゃないかな。だいじょうぶ。純粋なものは君たちの頭や心にしっかりとあるから。」

 「物質文明はもう終わりだ」と言う人も、「資本主義はもう終わりだ」と言う人も、ナマの現実を見ているようには感じない。──終わりなのかもしれないけれど。──ワタクシの場合は、「物質文明」や「資本主義」以前に、現実そのものが嫌いなのです。とことん嫌いなのです。
 とことん嫌いだから書いておく。
 「物質文明の終焉」を口にするひとで、物質を本気で棄てようという気配を持ったひとを知らない。精神文明を取り戻すためには、どこまで貧しくなればいいのだろう。その社会は今より百倍する、いや一万倍でもきかないほどの、ヨセフスの時代の弱肉強食社会のはずだ。
 最近多すぎる「資本主義はもう終わりだ」と言う人の口にする「資本主義」が何を指しているのかさっぱり見えてこない。
 「貨幣経済はもう行き詰まった」というのなら、その人は物々交換に戻った社会を想定していることになる。
 「グローバリズムは間違っている」と言う人は、「もいちど鎖国時代に戻ろう」と言っていることになる。(その日本という国は、列島全体を呑み込んだ「グローバリズム」によって成立した)あるいは「大○○共栄圏」を夢見ているのか。
 利益優先の商業主義への嫌悪感がそう言わせているのなら、利益なしの商業というものをイメージ
化する努力が必要になる。
 自由経済の限界を指摘する人々は、管理貿易、物価統制経済の可能性を実際に模索しているのだろうか?
 民主主義の危機を声高に唱えるひとびとは(中共幹部の発言みたいになるけれど)、「モッブの意見」を収斂することが可能だと考えているのかもしれない。あるいは「百家争鳴」という無政府状態を、原始共産制を夢見る人たち同様に、夢想しているのか?(イスラエルキブツで疑似原始共産制が可能だったのは、イスラエルというウルトラ資本主義国家に寄生していたからだ。)
 「資本主義はもう終わりだ」という人はひょっとしたら「資本なし」の会社設立が可能だと思っていることになる。それが株式相場を指しているのなら、あるいは株の値段を強権によって固定すべき
だと考えていることになる。
 金融市場の規模が貿易市場の規模よりはるかに巨大化しているのを健康的だと言いたいわけじゃない。その惨憺たる現状を言い表す言葉が見つからなくて「資本主義」で代替しているようにも見える。
 外国為替相場の乱高下(それを誘発することで金融機関やファンドはぼろ儲けをしているはずだ──日本の場合は上からの締め付けが大きいからビジネス・チャンスに乏しいだろうが──だったら外国のファンドに出資すればおこぼれにありつける)を阻止せねば世界は立ちゆかないというなら固定相場に戻せばいい。が、それが現実には不可能だという諦念の表れが「資本主義はもう終わりだ」というつぶやきに聞こえる。──チョイヨーイ。
 でも、これまで純粋の民主主義も、百%の資本主義も、本当の意味での自由放任も、絶対的なグローバリズムも一度だってあったことはなかった。今もないし、これからもない。あるのはいつも、複合体だ。その複合の加減がほんのわずかに変容しつつ続いている。「すべては相対的だ」というくくり方もおかしい。すべてが複合されて一つになっている。「現実」はひとつしかない。ほかの何かがあるはずだ、と思っている間はなにも考えていないのと同じだ。
 その複合のバランスが次第に狂いはじめているかのように見える。「カネ・カネ・カネ」の世の中も、「モノ・モノ・モノ」の世の中も、「ココロ・ココロ・ココロ」の世の中も、想像しただけで同じように気持ち悪い。かといって「チョイヨーイ」で済ませるわけにはいかないのだが。

 最近の人たちの言動(それ自体がこちらの色眼鏡越しに覗く思い込みの可能性も十分にある)を見ていると、──「情報」という濾過された現実のなかで生きているうちに──存在と比喩との区別がつかなくなってきているのではないかという気がする。そのことは、ものごとを眼前で具体的に視覚化しつつ考える能力が低下したことの現れとも思える。が、裏返してみれば、「存在と比喩との区別がつかなくなってきている」のは、それ以上に(藤田省三言い方を借りるなら)ものごとを抽象化する意志のそら恐ろしいほどの減退がもたらしているのではないだろうか。その「ものごとを抽象化する意志」を、以前は「精神」と呼んでいたのだが、「精神的」という比喩や、「精神性」という抽象語は生き残っていても、「精神」はもはや死語になりつつあるように見える。とは言え、「だから、もうお終いなんだ。」という気にはならない。「精神」という語が大手を振ってのし歩いていた時代と、「精神」がアニメ用語になった今と、どちらのほうが生きやすいかを比較する基準はないし、「生きやすい時代のほうがマシだ」という考え方を捨てる気はない。

 偉そうなことを書き連ねてきたが、自分の中にはナマの現実から離れたところで生きていたいという思い(いや、祈りたいほどの切ない願望)がずうっとあるし、この67年間、一定の距離を保ちつづけることで、なんとか現実まみれにならずにサバイバルしてきた。これからもそうでありたい。
 (逃げて逃げて逃げまくれ。あと一息だから、逃げ切ってみせるぞ。)

 遠藤誉『?子(チャーズ)』に出会ってから気になり、「?」を手元の漢和辞典で探したが見つからない。──日本にはそれに相当するものがなかったんだな──眞鍋呉夫に教わった「?」や「孑」もそうだった。(「孑(ゲツ)」は「ぼうふら」にあたる文字として辞書に載っている。「孑?」=「ぼうふら」。)左手を切り落とされた子=?。右手を切り落とされた子=孑。両手を切り落とされた子=了。(藤堂明保らの解説)。それらの「ことば」があったということは、それらに相当する現実があったということだ。白川静は、「民」をどう説明していたろう?

 グループホームでの三月の誕生会と、グループホームが入っている施設全体(自宅介護ステーションとデイサービスもある)の開所七周年記念パーティーとに二日連続で参加した。戻ってきたらクタクタになっていた。でも、記念パーティーで「ユズ&ポンズとその愉快な仲間たち」をバックに、スタッフ心づくしの赤い衣装(髪には日野てる子のような花飾り)で『湖畔の宿』を歌ったミチコさんはお昼ご飯がいけなかったそうだ。(また、仕掛けましょう。)
 一日目の誕生会には、大阪と宮崎の子どもたちも駆けつけてきたので、その夜は十数名でカラオケに行った。四歳の孫の就寝時間が近づいた最後に長男──コオちゃん談「兄貴とオレとは七歳開いています。その間オヤジは兵隊に行っていました。オレはオヤジが帰ってきた日の子どもです。」──が『異国の丘』をリクエストした。「よし!」と男たちは立ち上がり、直立不動で大合唱。カラオケ奉行だった高校二年生のリュウイチ君は「ついて行けん」という顔で首を横に振っている。
 その兄弟たちといっしょに近くの宿泊施設に泊まって一晩話し込んだ。その話のなかでいちばん印象に残った末っ子の話。
 兄弟は二間の家で育った。夜は片方の部屋に祖父母と両親、もう片方に子どもたち。「末っ子のぼくは姉ちゃんといっしょに寝ました。男同士で寝られる兄ちゃんたちがうらやましくて仕方がなかった。」その姉ちゃんはすでに亡くなり、長男(七十五歳だったか)は胃を全摘しているという。
 すべての行事が終わり、お別れをするとき、長男が「別れはつらいな。ありがとう。あんたはオレたちを受け容れてくれた。命があったらまた会おう。」と言う。来年もきっと会いましょうと返事をすると、次男坊のコオちゃんがいつものように冗談めかして「それには両方のおふくろに頑張ってもろうとかにゃぁ。」と言った。

 庭で福寿草が咲き始めているのに気づいた雨の日に。
2016/03/18



雲雀よ!(4)
 
 「そろそろ河内長野行きのことをまとまなくちゃなぁ。」と思いつつ、あの印象をどう説明したものか、まだ心が決まらない。その理由ははっきりしている。「核」が曖昧なままだからだ。
 仕方がないから、その核の曖昧さについて報告するつもりだが、例によってまずは、核に出遭うまえの「いさよひ」から始める。ひょっとしたら最後まで「いさよひ」っぱなしになって、肝心の部分は尻切れトンボになるかもしれないけど。それもまた、いつものことか。
 
 河内長野の宿は不思議な夜だった。目が覚める前はヤクルトや楽天で監督をした野村とツーカーで話をしていた。話の中身は若者談義か世相談義だったんだろうが全く覚えていない。その横に若者がいたが、それも誰だったのかは分からないまま。小さな今川焼き風の饅頭があったんで頬張ると実に美味い。作ったのは誰だ?と訊くと飲んだくれの元英語教師だった。「ダメ男だとばかり思っていたが、こんな美味いものを作れるようになったのか。」値段を訊くと一箇60円だと言う。(じゃあ、この次のグループホームへの土産はこれにしよう。)母親は白飯に黄な粉をかけて食べるほどの大の甘党で、何かのパーティーの時、ケーキを食べさせながら「お母さんは饅頭とケーキさえあったら生きていけるね」と大きな声で言うと自分で満足そうな笑顔になったので、フロア中が大笑いになった。 大原の松露饅頭に似た上品な味だった。
 夜は疲れきっていて掛け布団の上で眠ってしまい、風呂にも入らずじまい。
 でも、いい夜だった。
 夜中に寒くなって眼を覚ます直前にはゲーテが話をしていた。(このときも横に誰かがいたんだが分からぬまま。まさかエッカーマンではあるまい。)
 「私は自分の過去を確かめるために音楽を聴くのだが、いまの人たちは自分のキャリアのために聴いているようだ。」
 「自分の過去を確かめる」とは「過去をもう一度洗って抽象化する」ということだな、と感じた。
 岸惠子?に自伝風の小説がある。
 結婚したフランス人の両親は音楽家だった。といっても資産家で、収入を得るための活動はしていなかった。その自宅では時々、世界を股に掛けて活躍している音楽家たちが集まって室内楽を楽しむ。指揮者もそこでは演奏者になる。(フランスにはそういうサロン文化が二十世紀になっても残っていたのだ)ある時レコード会社が「出してみないか」という話を持ち込んできた。録音されたものを試聴した岸惠子の義母は「これは音楽ではない」とリリースするのを断ったという。
 音楽とはもともと聴衆に聴かせるものではなく、自分たちが楽しむものだったのだろう。それが様変わりしたのは管弦楽が主流になってからではないかと思っている。
 グレン・グールドがあるドキュメンタリーで嬉しそうに「この男は他人に聴かせるためではなく自分だけのために音楽を作っている」と言って演奏し始めるところがあった。――たしかギボンではなかったか。――
 そのグールド自身、人生の途中からは聴衆の前で演奏するのをやめて、自分一人で籠もって演奏する生き方を選んだ。

 幽霊屋敷を売り払って以来、危惧していた通り精神的に不安定になっていた。それまで毎月一度は「幽霊屋敷の夜」があった。その黄泉の国での一夜は自分の中に潜り込んでしまえた。そして、やっと半年ぶりの一人旅。――その途中に「イナンナの夜」があったけれれど、諸事情で一人旅にはなりきれなかった。――
 「フム、新幹線を使って大阪まで来た甲斐はあったか。」
 地震の関係(新幹線のなかで何人もの客のスマホか携帯が「緊急ニュース」でピーピー鳴り出した)で予定を変えて早めに着いたので、司馬遼太郎が歯医者に行った帰りに寄っていたという東大阪の喫茶店(譲り受けた須田剋太の絵がズラリと掛けてある。須田剋太は気にいった相手には自分の絵をどんどんやっていたらしい。名前を思い出せないけど若い頃はキャバレーでピアノの弾き語りをして食いつないでいたという俳優は、「描いたばかりの絵を何枚も郵送してくれるのは有りがたかったが、絵の具(グワッシュ)が乾いてくっついて離れなくなっているのには閉口した」と思い出を書いている。あるいは主人は、その絵を公開するために私財を投じてあんな立派な喫茶店にしたのかもしれない)に行ったんだが、そこは自分にとって「還るべき場所」。つまり、もひとつの黄泉の国だったと気がついた。――また来られてよかった――
トイレの入り口には司馬遼太郎の色紙。
「遺伝子は畏くもあるか父母(ぶも)未生の地にわれは来にけり」
 『街道を行く』のときの感慨だろう。(喫茶店の家族は在日コリアン。ただ東大阪の土地はもっともっと複雑で奥深い。)
 「仏教って新興宗教だったんだな」と当たり前のことを今更のように感じたことがある。その伝でいうなら東大阪は日本の近世発祥の地。ただしその近世とは1500年以上前のことなんだが。

 翌朝、まっすぐ観心寺に向かった。駅前からのバスに乗れば行けることは前日に確かめていた。バスはほぼ満員。大半の客は観心寺で降りて、ぞろぞろ歩いて行くからついていく。途中に「松中亭」という宿がある。(よし、今度来るときはここに泊まろう)ひょっとしてこれを受け取る者のなかにも「行ってみるか」と思う者がいるかも知れないから電話番号も。0721─62─2202。
 長い階段を上っていくと出店がいくつもある。境内にはすでに長蛇の列。折悪しく雨が降る始めたので、出来るだけ建物の軒に人を入れようとしてくれるけど、とてもじゃないが入りきれない。
 「立ち止まらないでください」と観覧させるのかと思っていたら、本堂に数十人を容れたらいったんそこまで。坊さんが説教とも説明ともつかぬ話をする。
 「昔はこの年に二日だけの時も静かにお参りして頂けたんですが。」
 今年は観光バスも来ることになった。でも二日目の午後だけとさせて頂きました。戦前は三十三年に一度の開扉。毎年となったのは戦後。「出来るだけ多くの方にお参りして頂こうということになりまして、」
 「法隆寺広隆寺の観音様は有名ですが、あれは渡来仏です。この観音様が日本で作られた最初のものだと考えられておりまして、国宝に指定されております。……この辺りは戦火に見舞われることが度々ありましたので、各地に、仏様を土に埋めて守ったとか、水に沈めていたという話が伝わっておりますが、この観心寺南朝の拠点でございまして、後村上天皇後醍醐天皇皇子)の御陵もございます。……境内に御陵のある寺はここだけかもしれません。……その南北朝の争いのさなかにも守りぬかれてきたのがこの観音様です。時間の許すかぎりお詣りください。」──如意輪観音の説明もあったのだけれど、ぜんぶ忘れた。──
 小さな本堂の奥に如意輪観音が見える、が、薄暗くて顔立ちまでは見えない。慣れている人は望遠鏡を持ってきている。自分たちの番が終わって入れ替わりのとき、やっと近づいて見ることができた。

 観心寺如意輪観音に会いたくなったのは、司馬遼太郎の言葉に触れたからだ。
 「その肉感的なゆたかさは仏教的であることから遠く、むしろインド土俗の女体崇拝の彫塑にちかい。この如意輪観音の女性以上にその性を象徴する……感じを見ていると、密教の深奥のなにごとかを直感できるような感じがしてくる。」──『密教深奥のなにごとか』については、いずれ、も少し考えてみたい。──司馬遼太郎は書いている。「本来、法(=ことば)であった仏教が、なぜ仏像になってしまったか」──彼によると空海は「言葉は法(=真理)ではない」と直感したのだという。観心寺の住職?はそのことを「仏様のことばは宇宙語だから私どもには理解できないのです」と言っていた。

 如意輪観音をほの見た第一印象は「幼いな」ということだった。
 渡岸寺の観音の第一印象もそうだった。「この人は、救うということの意味を知らないままに「救わなきゃ」ともう足を踏み出そうとしている。」ちょうど、水におぼれている人を見かけた幼女が、自分が泳げるのかどうかも知らないままに飛び込もうとするように。
 まだ何も知らないことから来る自由さ。
 その肢体の自由さは、目を逸らしたくなるなるほど放恣で無防備で、猥褻さと紙一重に見える。
 以前すぐ近所に引っ越してきた学齢以前の女の子が道路に出て伸びをしているところに、朝の散歩の帰りに出遭ったことがあってギョッとなった。「猥褻物陳列罪で逮捕するぞ。」とは言えずに「オハヨウ。」小学校の教師が狂うはずだ。さいわいその子はすぐに丸々となってくれたので話しやすくなった。
 なのに数メートル先の如意輪観音には毛ほどの猥褻さもないということの不思議さ。肉感的ではあっても肉感性はない、のかな?
 「なにが聖であるかということは、多分に主観的なものにちがいない。しかし肉感から聖にむかってついに昇華を遂げるか、……聖へ昇華しきれば端正に過ぎる。昇華する寸前の瞬間こそ、たとえば向源寺(渡岸寺)の《十一面観音》であり、観心寺の《如意輪観音》であろう。」
 そういうことなのか。
 まだ自分のなかでは言葉にならない。

 ただ、現在の剥落し褪色し、蝋燭や香によってくすんだ姿ではなく、作られた当初の金ぴかで原色の観音菩薩を見ても、詩人は同じように感じただろうか?
 日本人が受け容れたのは仏教ではなく仏像だったという詩人の考えは、その通りだったのではないかと思う。その綺々(きらきら)しきものにこの世ならぬ「聖」を感じたとはしても、それが年月を経て剥落し、褪色し、くすみつつあったとき、彼らはそれをもとに戻そうとはしなかった。その現在の姿に、それまで知らなかった緊要ななにごとかを感じたからだ。それを無理矢理ことばにするならば、「真理とは如実なものでも隠蔽されたものでもなく、幽(かそ)けきものなのかもしれない」という、おぼろで頼りなげな感覚だった気がしてならない。であるならば、土に埋めようが、水に沈めようが、ありのままを守ることが彼らの任務だったはずだ。
  Anbiguity. Vagueness. でも、それを特定したら、たぶん彼らに礼を失するだけ。
 いや、むしろ「痕跡」と呼ぶ方がいいものに却って彼らはより慥かなものを感じたのではないか。
 彼らには守りたかった慥かなものがある。剥落し、褪色し、燻んだ観音菩薩はその象徴だった。その金箔や顔料の裏側から「慥かな眞」がほの見えている。そして人工的な表面が喪われたとき、そこに現出したものを、彼らはいまに至るまで守り、われわれもまた未来へと守ろうとしている。
 いまは、そう考える。

 本堂を出て、楠木正成が三重の塔を建てようとしていたのにその死により未完に終わったという建掛(たてかけ)塔を見た。そのそばには「伝・新待賢門院(後村上天皇母)墓」という立て札が立っていた。さらに階段を上ったところに「後村上天皇」の御陵がある。いずれも明治政府が南朝を正統と認定した以後に整備されたのだという。
 またいつか行ってみたい。ただし、静かにお詣りできることがあれば。

 乱暴だけど、俳句で締めくくる。
 松瀬青々の句──雨に捨てし昨日の花や薄氷──
 渡辺松男の句──鳥葬の美少女だったくわんぜおん──
 眞鍋呉夫の句──雪女ちょっと眇(すがめ)であったといふ──
                                                       2016/04/29

追伸
 昨夜はまた長々とした夢を見た。
 教育関係のシンポジウムか会議かに参加していたんだが、これが死ぬほど退屈で、休憩時間に抜け出してその建物を出た。外はディケンズものに出てくるような古びた街角で、その一角に「ラドリオ」という看板が掛かっている薄汚い店があったので重い木製のドアを開けて入ったら中は七〜八人も並んだら窮屈だろうと感じるカウンターだけの、喫茶店だか、酒場だか、飯屋だか分からない薄暗い店だった。すでに数名の若者と子ども(男ばかりだった)が長椅子に腰掛けているのだが、えらく体を硬くしている。
 理由はすぐに分かった。彼らの前のカウンターの中に立っている女性は「赤頭巾ちゃん」の狼が化けたお婆ちゃんそっくりなのだ。
 可哀想になって、「私が奥のほうに座ろうか?」と声をかけると、若者たちはほっとしたように尻をずらしてドア側に移動したので空いたところに座り、「コーヒー」。なんとも陰気な店だったが、若者たちの前に出てきたのは本格的な西洋の一品料理で、福岡天神の「ツンドラ」のロシア料理よりは数段うまそうだった。
 酒が並んでいる棚の後ろがキッチンになっているらしい。そこから男が現れて、自分の見てきたお芝居の話をはじめた。狼婆さんに聞かせようとしているのか客に聞かせようとしているのかは分からないけど、寿司を握る手つき(そういう女流作家の小説があったな、と思ったが誰だったか思い出せないまま。)を真似て実に楽しそうにしているのを見ていて、矢代静一『旗手たちの青春』を思いだしてその話をした。十代のとき(本人はまだローティーンだったのではなかったか)に出会った芥川比呂志や加藤道夫(『なよたけ』はいま青空文庫に入っているからネットで読める)や堀田善衛たち、そしていつの間にか自然に仲間に加わった自分のことを回想したなかなかいい本だった。芥川比呂志が『ワーニャ伯父さん』の台詞を覚えようと寝床で音読している内に「オレには出来ない」と声を出して泣き出したというエピソードが出てくる本だ。「きっとワーニャ伯父さんやソーニャたちの孤独が芥川比呂志に憑り移ったんでしょうね。」
 その時思いついたことをカウンターの中の人たちに話した。
 新劇と一言で言っても時代ごとにずいぶん違っているから、異なる世代間で新劇の話をするのは難しい。でも、貴重な文化のひとつだと思う。だから、それらの世代が異なるものをひとつにまとめて『シェークスピア物語』のようなコンパクトな本を誰かが作らないかな。

 昨日乗り過ごして「浦田」という駅に降りたときに思いついたもの。
     ことばなぞ飛散させる五月の空は湿度ゼロのポエジー          倉夫
                                           2016/05/01