雲雀よ!〈5〉
雲雀よ!〈5〉
先日NHK『新日本風土記』かなにかの再放送で、越中八尾の風の盆を見た。いや、その現場に立ち会っているみたいだった。「行きたい。でも行けない。」
ポルトガルのアルファマに行ったとき須田画伯が口走った「ワッチはここで死にます」は、「こんなところで死にたい」の詩的表現だったのだと思うが、自分が風の盆の場に身を置いたらもう動く気をなくす。もしその場から身を引きはがされそうになったら発狂する。(その時まだ若ければ)
中沢新一は、日本のもっとも古い集落では、その集落の真ん中に死者を埋葬した、と書いている。「盆踊りの原型は、その埋葬地を囲って行う死者たちとの一体感を確認する儀式だった。」
風の盆にはまだその気配が色濃く生きている。
その人間の生き死にそのままの単調なリズムとメロディーと踊りが、同時にどんなモダン・バレー(いくらも見ている訳ではないが、ベジャールのは好きで二度みたことがあるし、日本人の何とかいう人の創作バレーは眼からウロコだった。「説明しますね。じつはさっきの踊りは今からやる三つの動きを組み合わせただけのものです)もとうてい及ばないモダンさを持っているということの不思議さ。たぶんフランス人が見たら、日本人以上にハマるんじゃないかという気がする。
十七。八年前ポルトガルに行ったとき、アルファマに行ってみた。細い坂道の両側に住宅がびっしり並んでいて、向かいあった二階の窓同士からロープが張られている。そのロープで洗濯物がまるで万国旗のようにはためいている。「なるほど、ワッチはここで死にます、か。」と悦に入ってあるいているうちに相棒が突然「イカン!」と言って立ち止まった。「イカン!イカン!」。ピッピは遠足の途中で前途になにか不安を覚えたときリードを咥えて立ち止まりこちらを見る。(先代のリィもそうだった。)「帰るか?」と言うとクルッとUターンして急ぎ足になるが、ちょうどそれと同じだった。「イカン! これ以上行ったらイカン!」あの時彼女は「suffering」だったのだ。「これ以上なかに入って行ったら自分の日常(唯一の今)が壊れる。」
いつか行きたい八尾の風の盆の場は、この世とあの世のあわいそのもののように感じる。行きたいが行くのは今じゃない。自分に今の「帰るべきところ」がなくなってから。風の盆は行くところじゃなく、われわれが帰るべきところだ。
──これでもう外に動かないでも死なれる
小豆島土庄町西光寺南郷庵の堂守になってそう書いた尾崎放哉は、一年たたないうちにそこで死んだ。
そうだ。
今年の宿題にしている『蕨野行』朗読劇(課題は、授業中に出来るように四十五分以内に縮めること)の背景(紗幕(しやまく))には、あの風の盆の踊りを影絵のように写しだそう。
劇団民芸が上演していた久保栄の『火山灰地』には、緒言が掲げられている。
先住民の原語を翻訳すると
「河の岐れたところ」を意味するこの市(まち)は
日本第六位の大河とその支流とが
真二つ避けた燕の尾のように
市(まち)の一方の先端で合流する
鋭角的な懐ろに抱きかかえられている。
・・・・
河むこうは
おなじく先住民の言葉で「髪の毛」と名づけられ
風に吹きなびく黒髪のように川筋の乱れた
この平原第一の耕作面積を持つ村である。
ユージーン・オ・ニールという劇作家(なぜ突然オ・ニールに飛んだかというと、地平線を眺めて(外側の世界を知らぬままに)育った若者たちを描いた『地平線の彼方』を思い出したからです。)を覚えている人はもうかなり少なくなっていると思う。自分が知った五十年前でもすでに過去の人だった気がする。その『楡の木陰の欲情』で精力絶倫の主人公が若い女(古本屋で買った本の表紙にソフィア・ローレンの顔があったから、映画化されているんだ。主役は誰だったんだろう?)との痴情に疲れて、つぶやく台詞がいちばん「ドラマ」に感じた。「この頃夜は厩舎のわらの中で寝る。あそこがいちばん落ち着く。どうしてなんだろう?」子どもの頃からずうっとだけど自分はそうとうにヒネていたなと思う。
オ・ニールをはじめて知ったのは、どこかであった高校演劇大会の時だった。内容も題名も校名も忘れたが作者だけがインプットされた。同年代のおなじくヒネコビた高校生がいたんだなと今頃になって話をしてみたくなった。そうだ。そのとき中薗英助をいちどだけ見た。「違うんだな。ドラマの奥の雰囲気が。もっと夜の風がザーッと吹いているような感じなんだけどな。」あれが中薗英助だったんだと思うようになったのは、ちょうど三十代半ば。もう一度生き直そうと失業者になった頃だった。顔を覚えていた訳ではないから当たっているかどうかは分からないが。あれは『長い帰りの旅路』だったか、『夜への長い航路』だったか。まだ時間が残されているのなら、いつか、オニールを最初から読み直してみたい。
矢島渚男に「人になる天女の話余呉の雪」という句があるのを知った。大好きな眞鍋呉夫の作だと教えられても疑わなかったろう。
俳句に興味を持ったのは何十年前になるのかは忘れたが、石田波郷「二の酉やいよいよ枯るる雑司ヶ谷」と出遭った瞬間のことは生々しく覚えている。──俳句とはこういうものなのか。
石田波郷は「俳句は詩ではない」と断言していたと親友の山本健吉が書き残している。書き残しているということは、山本健吉も同感してしていたということだ。そして「俳句とは挨拶だ」と言うようになる。挨拶の対象は人間だけではない。風光へも土地へも時間へも。
石田波郷の句に「俳句開眼」してから、地名の含まれた句を偏愛するようになった。句だけでなく短歌でも、たとえば檀一雄の「下野の久木の県のその母が手にとりつみて和えしこの芹」は、もしひとつの歌を無償贈与してくれるというなら絶対にこれを希望すると決めている歌だ。(でも文学や音
楽の美術作品とのいちばんの違いは、オリジナルをみなで共有できるということだ。……ただし、「またやって来たからといって 春を恨んだりはしない」(『春の眺め』)のシンボルシカは言っている「その経験は誰とも共有できない。たとえその誰かがベッドを共にしている愛する恋人であったとしても」 ──ノーベル文学賞受賞記念講演の一節だという──)
『なよたけ』の加藤道夫に『思い出を売る男』という今も上演されているボードヴィル風の小さなお芝居がある。(いま題名を確かめようとネット検索して驚いた。一九一八年福岡県遠賀郡戸畑町出身。『花と竜』や『麦と兵隊』の火野葦平は一九〇七年遠賀郡若松町出身。まったく対照的に見える二人は、同じ土壌で育ったのだった。)その主人公は街角で即興で詩を書きそれを売って生活している。
「そっと、そっと、詩は花となる 花となって、うちふるえる 」の杉山参緑(『ドグラマグラ』の作者の息子)は、その生き方をほぼ実地でやっていた。天神のいちばん人通りの多いところ──今そこは宝くじ売り場になっていて、ジャンボ売り出しのときはガードマンがつくほどの行列が出来る。──に立ってガリ版刷りの薄っぺらい詩集を売っていた。一冊売れたら仲間がたむろしているカフェに入ってコーヒーを注文し、終日ダベっていたという。その母親思いの「街角の詩人」を哀惜して「生涯童貞だったはずだ」と書いていたのは誰だったろうか。
波郷の句の話に戻る。
をととひもきのふも壬生の花曇 古舘曹人
ほとゝぎす根岸の里の俥宿 久保田万太郎
葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり 水原秋桜子
かたつむり甲斐も信濃も雨の中 飯田龍太
冬かもめ明石の娼家古りにけり 石原八束
どれも「いいなあ」と思う。その「いいなあ」は地名抜きでは起こりえない。と同時に、
比良八荒われは巷に落ちし雁 眞鍋呉夫
は、芭蕉の「逝く春を近江のひとと惜しみけり」への眞鍋呉夫なりの挨拶だったのだなと思う。
そして去年、梯久美子から多喜二の想い人だった伊藤ふじ子の句を教わった。
多喜二忌や麻布二の橋三の橋
官憲から身を隠してふたりで暮らした場所だったのだという。
これらの句には作者は登場しない。(眞鍋呉夫の句の「われ」は作者自身ではない)いや、石原八束のだけは作者がニョキっと顔を出しているけど、やっぱり「いい」から入れておく。
そこにあるのは風光と時間。
二の酉やいよいよ枯るる雑司ヶ谷 石田波郷
その地名(風土)から湧きたってくるものに、(それと同じものが風の盆からも湧き出てきていたのだが、)名をつけるとするならば、風情、しか思いつかない。ただし、フゼイはもうあまりにもコマーシャル・ベースに乗りすぎた言葉になってしまった。この場合の風情はフウジョウと読んでください。
石田波郷も、古舘曹人も、久保田万太郎も、 飯田龍太も、石原八束も、眞鍋呉夫も、伊藤ふじ子も、己をそれぞれのフウジョウのなかに溶かしこむことで自足している。残したいのは「自分」ではなく「風情(フウジョウ)」だったのだ。
図書館に行って檀一雄全集を引っこ抜いたらその帯に石川淳の言葉があった。
「それ太古の民は含哺(食べ物を口にふくむこと)してたのしみ酔歌してあそぶ。人間他に何の為 すところぞ。後世無為の至福をうしなってすでに久し。今日ただ檀一雄君あり。ただちにこれに 就いて清音天地に鳴るを聞くべし。」
いわば開店記念セールに寄せたご祝儀文句みたいなものだが、石川淳に「小説家であるまえに詩人だった」と言って貰えたのだから、檀一雄よ、もって瞑すべし。
2016/05/12