雲雀よ!〈6〉〈7〉〈8〉

雲雀よ!〈6〉

 一足はやい週末。快晴の午前中、いつものようにコンビニに行って百円コーヒーを買い、こぼさないように気をつけながら数十メートル持ち歩いてベンチに座り、今津湾を一望しながら「ふう。」至福のとき
 その途中、街路樹のツツジのなかを覗き込んでいるお母さんがいる。「大丈夫?出て来られる?」どの家でもペットはよちよち歩きの子どもといっしょ。(リードが絡まったんだろう。まずそれをほぐしてやらないと出て来られんぞ)アイスコーヒーを呑み終わって帰りかけると、お母さんがまだ中を覗き込んでいる。犬だと思い込んでいたら猫だった。「虫を追いかけているんです。」猫は人間の言うことなんか聞かない。それが猫のアイデンティティ。反対に犬の従順さは信じがたいほど。
 だいぶ前、イタリアの野良猫を取材した番組でおじいさんが言っていた。「犬は食べ物をくれる人間を神様のように思っている。猫は〝毎日えさを運んでくるなんて、人間は私のことを神様だと思っているのね〟。」魔女いわく「あんたたちはアタシのことをオヤツを持ってくるタダのおばさんと思うとろうが!」

 蜷川幸雄が死んだ。
 正直言うと、かれの仕事には興味が湧かなかったので、アレコレ言う材料は持たない。ただ、あの人を見ていると、「本当は、ホンモノに憧れていたんじゃないかな」という気がする。でも、自分がホンモノになれないことぐらい、かれは百も承知だった。だからあのような、ド派手で外連味(けれんみ。─こんな字だったのか─)だらけのオペラチックな舞台を作った。
 もし、ホンモノのシェークスピアをやるのなら、まず200〜300人の会場でなければ無理。理想は150人ほどの空間と10人も登場したらはみ出しそうな小さな舞台。それが前提になる。あれでも大きすぎると感じたが、勘九郎平成中村座を作ったのも「歌舞伎にふさわしい空間」が欲しかったからだと思う。
 あとひとつ、蜷川幸雄が最初から絶望していたのは、「日本の俳優ではシェークスピアはやれない」ということだったと思う。本場とは俳優の質が違いすぎるのです。(だから日本の俳優はダメだということではない。人間の心のひだを表現させたら日本の俳優は世界いち。最近だいぶ怪しくなってきてはいるが)

 ひと月ほど前、シャーロット・ランプリングの『さざなみ』(原題は、45years、だったかな?)を見に行った。ワン・コンセプトの映画自体はすこぶる付きに退屈至極だったし、彼女の美しさを生かした別の映画が作れそうなものなのにとも感じた。(あるいはそれは本格的な歴史ものかも知れない。)犬を散歩させているときなどのさりげない場面では、なんとも美しかったのです。
 ただ、夫役の俳優の演技には感心した。自分が脇役であることを十分に心得て、シャーロット・ランプリングより一歩退いて演技をしている。それによって画面に奥行きがもたらされる。
 メリル・ストリープ認知症に犯されたマーガレット・サッチャーを演じた『鉄の女の涙』の夫役もそうだった。サッチャーが思い出す夫はまるで影のようで、その現実と思い出の遠近感が快かった。──あの演技は、映画のようにフォーカスが効くわけではない舞台で鍛えた俳優にしか出来ない。──でも、浮世絵といっしょで、日本の舞台には、そんな文化がない。
 数年前、3D映画をはじめて見たときは困った。メガネをかけるとこちらの想像力が殺される。(比喩ではなく。ほんとうに脳が動かなくなるのです)メガネをとったら画面がばらばらになる。「二度と見ない。」(ついでに、3Dとは関係ないけど、BGMもひどかった。「こんな風に見ろ」というフランス人の傲慢な押しつけがましさには虫酸が走る)
 小さな空間で、照明も「見える」ためだけの平面的なもののなかで、はじめてひとは「遠近」や「奥行き」や「深さ」の感覚を身につけることができる。今それが可能なのは、もうイギリスのシェークスピア劇だけになったのかも知れない。…………たぶんワタクシはこの話を「ミンシュシュギ」や「レキシ」の話の寓喩として言いたいのだと思います。

 川田順『住友回想記』を読み終わった。吉村昭とならんで大好きな小島直記が激賞していたので興味が湧き、アマゾンで取り寄せた。
 「こんな名著をなぜ絶版にしたんだろう?」(なお、現在は図書出版社から『経済人叢書』という新字新かなのシリーズが出ているのを後で知った。)
 いろんな人物のことを一頁か一頁半で書いているのだが、その大半がズンとくるので、「あとはまた次回」。続けて読む気にはならなかった。生徒向けの「油山通信」のことば──次回に送ります──を使えば、自分を限定している人間だけに備わる陰影がくっきりと白黒写真のように浮かんでくる。
 その途中で読んだ、宮本常一『土佐乞食いろざんげ』も、「長生きしてきてよかった」と感じる滋味にあふれる豊かさに満ちた小説だった。宮本常一は『忘れられた日本人』と写真集しか知らないが、あの処女作のなかに以後の「宮本学」の遺伝子がすべて含まれていると確信する。
 学生時代に、裁判沙汰になっていた「壁の中の○○」のコピーが回ってきたことがあったが、あれ(あれは戯作)とは質がまるっきり違うホンモノです。登場人物に立体感があってイキイキとしていて、肌のやわらかさまで感じる。
 例によって口幅ったいことを言わせていただくなら、『土佐乞食・・』は宮本常一の『一反田』。ただし、『一反田』が還暦を期して構想されたのに対して、『土佐乞食・・』は作者が世に出る前に書かれたというから、そこには雲泥の差が如実にある。──月とスッポン。提灯に釣り鐘。モーニング・サービスとディナー。──それは宮本常一が小学校の先生をしていた時なのかもしれない。取材を受けた、もう七十代の教え子たちは口を揃えて楽しげに、懐かしい「先生の思い出」を語ったという。その事実と『土佐乞食・・』は矛盾するのではなく、ピタっと符合する。

 NHKの朝のバラエティの有働さんが好みである。一九六九年鹿児島生まれ。神戸女学院出身。なんだ内田樹の教え子なのか。
 彼女についてはへんな思い出がある。
 三〇歳前後の頃、二日市温泉のなかにある木造アパートで暮らしていた。(もちろん毎日温泉三昧。ときには卓球部全員を連れて行った。何しろ当時の入湯料は何十円かだった。)そのアパートに「有働」と表札のある部屋があった。あるときその部屋から女の子が「キャー!」と飛び出してきたので「大丈夫?」「カマキリちゃんが! カマキリちゃんが!」部屋に上がると机の上の蛍光灯で大きなカマキリがどうしていいか分からずにいるので、つまんで外に出してやった。可愛い子だったのに、そのあとどうして恋に発展しなかったのは不明。「イトコはNHKのアナウンサーになった」という話だった。当時はテレビなしの生活だったから、実物の有働アナウンサーを知ったのはずいぶん後になってから。
 バラエティには山本耕史が招かれていて、「一生に一度ぐらい命がけで口説いてみたい、と思ったのです。」その後の週刊誌に載っている○○の写真はただの平凡な女性。きっとかれは、彼女のなかに「平凡になれる素質」を見抜いたのだ。山本耕史はなかなか非凡な男であるらしい。
 ○○の顔が卑猥にみえて正視できなかったのは、そんなに以前のことではない。どうしてなのか考えてみた。あの人はきっと自分を隠す演技力に乏しく、無防備な素顔が丸見えになっていたのだ。だから見るに耐え得なかった。芸能界しか知らず、素顔を持たない大人たちに囲まれて育った男にとって逆にそれは、吸い付けられるほどの顔だったんじゃないのかなあ。
 イノッチ曰く「命がけで口説かれたこと、あるでしょう?」「ある訳ありません。あったら今ここで、こんなことしていませんよ。」その当意即妙さが好み。でも、ひょっとしたら、長年の不倫を守っているのかも。(イノッチがそれを承知で言ったのなら座布団三枚)ファンの爺さんとしては是非そうであって欲しいし、ついでに、「堂々とシングルマザーになれ!」まだ間に合うかな?

 『住友回想記』と『土佐乞食いろざんげ』のあとは、『イサム・ノグチ』に戻る。作者のドウス昌代は傑物です。一九三九年岩見沢生まれ。早稲田卒。アメリカのドウス教授と結婚して改姓したが、旧姓は梅沢、らしい。
 何年か前に読み始めたときは、あまりに生々しくてエスケープした。が、今回はのめり込んでしまった。本の中身が変わるわけがないから自分が変わったのだ。たぶん来月の四国旅行までには読み終わっているだろう。
 むちゃくちゃにいいんだが、副題の「越境者」はピンと来ない。主人公にはもともとその出自からして「境」そのものがなかったんじゃないかな?だから、彼はその晩年、地を刻むことに興味を覚え、この球形のそこここに自分の点を残そうとした。この場合の「点」は正字の「點」のほうがぴったりする。「點」はもともと「確かな拠り所となる場所」を表す。「拠点」の「點」だ。──札幌郊外のモエレ沼公園にはいつか行ってほしい。あそこはイサム・ノグチの夢の場所です。彼の構想した宏大な「公園」をそのまま作ったのは世界中で札幌市だけではないかと思う。北海道の人々とイサム・ノグチとは何かが合致したのです。

 昨日は、十三歳のとき強制的に母親からアメリカの全寮制の学校インターラーケン校に行かされた所を読んだ。二歳のときに日本に来ているから少年にとっては見知らぬ国だった。日常品を詰め込んだバッグと、一時期茅ヶ崎指物師に弟子入りしていたときの大工道具を持って船に乗ったという。時に一九一八年(第一次大戦中)、イサム十三歳、身長百四十九センチ、体重四十三キロ。
 その学校がユニーク(教師三十五人、生徒百五十人。生徒たちは自分たちで建てた丸太小屋に暮らし、自分たちの作物を三度の食事とした)なので、そうとうに長くなるけど書き写す。

 インターラーケン校の敷地跡は現在では、カソリック系男子校に買い取られ、本館は立派な三階建てれんが造りに建て替わっている。だが、裏手にまわると、かつてと同じ広闊な緑の平地が開ける。干し草があちこちに丸く積まれた平地の一方には、大きなサイロと納屋が連なる。シルバーレイクと呼ばれる小さな湖は、この平地の彼方にのぞまれる。
 インターラーケン校時代には、シルバーレイクに面した場所に大小の校舎があった。十五の教室と学校事務所のある本校舎は普通の木造建築だが、体育館、木工場、金属細工場、手細工制作場、印刷場、また学年別にわかれた寮は生徒の手になる丸太造りであった。夏期校では寮の代わりに、湖に面した林のなかに多数のテントが張られた。・・・
 ・・・イサム・ギルモア(母の姓。法律的には母レオニーは未婚のままだった)は、東洋からやってきた木彫の「天才少年」として生徒たちに歓迎された。イサムの回顧によると、《突然に大パーティーに招かれたように、嬉しい日々となった》。
 インターラーケン校の日課は午前五時三十分起床、済みきったシルバーレイクでの一泳ぎから開始された。学校には農耕用をふくむ数十頭の馬のほか、牛や豚も飼育されていて、酪農がさかんであった。大規模な養鶏場もあった。朝食は午前六時。生徒がしぼった牛乳、とりたての卵が供された。
 午前七時掃除整頓、午前八時から農耕および手仕事。正午に三十分間また泳いだのち昼食。午後四時まで科学、歴史地理、ヨーロッパ古典文学、ラテン語など、黒板を前に授業がつづく。その後は各自の選択で馬術、カヌー、テニス、その他のスポーツを競った。・・・
 ・・・「大パーティー」にたとえるほど毎日が楽しかったインターラーケン校生活が、最初の予定通りに高校卒業までつづいていたならば、イサムの性格も、将来も異なったのかもしれない。彫刻家イサム・ノグチが生まれなかった可能性もある。幸か不幸か、「大パーティー」はたったの一ヶ月で、突如終わりを告げる。八月末、夏期校が終わった。同時にそれはインターラーケン校の終結を意味した。

 私財を投じて学校を創ったドイツ系のラムリーが「ドイツのスパイ」として反逆罪で逮捕されたことにより学校は閉鎖され、教師も生徒も四散した。が、行くところのないイサムを案じたラムリーは親友のスウェーデンボリ派「新しい教会」牧師マックに後事を託す。マックは自分の子どもたち(そのうちの一人は最初の原子爆弾実験に参加した核物理学者となる)と一緒にイサムを育て、地元の高校に通わせる。
 地元の高校を主席で卒業したイサムは「強情者№1」として紹介されている卒業アルバムに次のように書いているという。
 「大統領になるよりも、ぼくは、真実こそを追求する」

 母親レオニーは日本でイサムの妹を産む。父親の名前は最後まで明かさなかった。レオニーの英語の生徒である既に妻子のいた官僚か?将来性のある学生か? 娘も聞かされないままだったのではないか? いまはイサムよりもアイルランド系である母レオニーに興味が移りかけている。

 別の話になるが、スウェーデンボリ派の教会には十字架がないという。墓に十字架がない清教徒たちとなにか類縁があるのかもしれない。

 通勤バッグのなかの『微光のなかの宇宙』と『中国古代文学』はとうぶん眠ったままかな?
               
 もひとつ別の話。
 イギリスの犯罪ものを見ていて、英語にも「巫女」にあたる言葉があるのを知った。Maidenというのだそうだ。ただし、改めて辞書を引くとVirginと同義とある。日本の「巫女」を言う時はShrine maiden.
 じゃあ、Sacred prostituteとShrine maidenはどういう関係になるんだ?
 向こうのデカい国語辞典をひっくり返したら何か載っているかもしれないが、載っていてもその説明を読めるわけではない。

                   2016/05/24

雲雀よ!〈7〉

 母親との一夜を過ごして(予想外に)疲れて帰ってきた翌朝、ふと『羅生門』の今年のプランが浮かんだ。
 『羅生門』にしろ、『水の東西』にしろ、『こころ』にしろ、定番になっているものは、毎年なにか前回とはちがうことを考えなければヤッてられない。(例外は『山月記』。自分でも不思議なほど飽きがこない。)
 
 今年の最初の授業は川上未映子『ぐうぜん、うたがう読書のススメ』。──テーマ主義でいこう。
 「川上未映子さんが君たちに勧めているのはどういう読書なのかな?」
 1,偶然の読書≒要領よく終わらせようとしない読書
 2,疑う読書≒自分を信じる読書≒「名著だよ」「読んだ方が得だよ」という先生や出版社の言うことをアテにしない読書
 川上未映子さんの言おうとしていることは、じつは読書だけの話なんじゃなくて「生き方」の話なんだね。たった一回きりの人生を大切に思うのなら、要領よく生きようとしないほうがいいよ。自分を信じて生きるほうがいいよ。
   
 今年の『羅生門』のテーマもふたつ。
 1,人の心や考えはくるくる変わる。
 2,義しさって何だろう?
 1はこれまで通り、物語を時系列に並べて主人公の心や考えの変化を一覧表にする。(板書がいいか、プリントがいいかはまだ迷っている。今年の生徒をまだつかみ切れていない。けっきょく時間切れで板書になりそう)
 2は、『ぐうぜん、うたがう・・』同様空欄とする。「最後に考えよう」
 時系列は「ある日の暮れ方」から始まり、「黒洞々たる闇」で終わる。
 芥川龍之介の言おうとしていることが見えてきたね。彼は「義しさって何」だと考えた?
 そこで「黒洞々たる闇!」という答えがピタッと出てくれば立派なものだが、今年の生徒はそうは行かないかも知れない。こちらが板書しても「黒洞々たる闇って何ですか?」という質問が出そうな気がする。
 『蜘蛛の糸』を覚えているね?もし、あのときカンダタが下からよじ登ってくる地獄の仲間たちを可哀想に思って、「みんな頑張れ!いっしょに極楽に行こう!」と言ったら蜘蛛の糸は切れなかったのかな?お釈迦様は地獄の人間がみんな極楽に来るのを歓迎しただろうか?
 (いちおう手を挙げさせて反応を見る。)
 ひょっとしたらね。カンダタが極楽にゴールインしたとたんに蜘蛛の糸カンダタの足の下からプッツリ切れて、残りの者は地獄へ真っ逆さまに逆戻りさせられたかもしれない。もしそうなったらカンダタは、自分だけが極楽に来たことを「ラッキー!」と感じたろうか?……ぜんぶ仮の話だからほんとうのことは分からない。元々からフィクションだしね。……あとは、やっぱり「黒洞々たる闇」なんじゃないかなぁ。

 あくまでプランです。
 高校のとき誰かが言い出して流行ったことばがある。「予定は未定であって決定ではない」

 母親との夜に、『イサム・ノグチ』の上巻を読み終えた。
 上巻の最後には、華やかすぎるイサムの女性関係の中で例外的に純愛に終わったインドのパンディト・ナヤンタラが登場する。ナヤンタラはネルーの妹の娘。ネルーの盟友だった父親は第二次大戦がはじまって独立の機運が高まるなかで身の危険を感じ、娘たちをアメリカに留学させる。時にナヤンタラ16歳。イサム38 歳。娘たちの留学中に父親はイギリスの手によって獄死する。終戦によって独立を獲ちえようとしたインドはイスラムヒンドゥーが対立し、苦悩する伯父のネルーを助けるため、イサムを「ダーリン」と呼んでいた20 歳のナヤンタラは帰国を決心する。イサム43歳。帰国直前イサムに依頼されて頭像のモデルとなったナヤンタラはずっと泣き続けていたという。「あの頭像には私とイサムふたりの悲しみが現れています」……残念ながらまだその頭像は見ていない。
 「一人のインド人がこの広い世界のどこに行ったとしても、インドはかならずいっしょに行く。」
 ネルーのことばだそうだ。
 ナヤンタラが、インドで生きるためにインド人と結婚した後、イサムはインドに出かけ七ヶ月を過ごす。その間二人はいちど再会を果たしている。が、小説家が取材したときナヤンタラの記憶からはその再会が欠如していたという。

 あと一カ所、上巻でもっとの印象深かった部分を紹介する。
 20前後のときパリでイサムが師事し、晩年に「一生かけた主要目的が、その影響からの脱出になってしまった」と語っているブランクーシのことば。
 「 最初だからこそできるものを大切にせよ。・・・いまより以上のものができると決して思うな。」
 はじめて知った名前だったので図書館で作品集を見た。そのなかの何枚かを左に載せる。

 徳島の大塚国際美術館に行ってきた。が、収蔵品(という言い方が適当なのかどうか)があまりにも多様だったので、その時のことは省略する。

 翌日、高徳線屋島駅で下車して、イサム・ノグチ庭園美術館に行った。
 駅で声をかけてきた中年のボランティアの話によると、屋島には「ウロ」という地名があり、そこは神武天皇の父が生まれたところだと伝えられているという。「ムレがあってウロがあるんですね。」というと嬉しそうに「そうです。」あらためて屋島に来てくださいと見送ってくれた。
 「ウロ」は漢字表記だと「洞」。でも、日本人にとって「洞」と「胎」の区別はなさそうに思う。
 庭園美術館にはイサム・ノグチが石を彫っていた場所がそのまま残されていた。が、それらの作品が置かれている状態と、なにもない状態と、どちらを選ぶかと言われたら後者を選ぶ。どの作品にも、周りの石垣ほどの美しさもエネルギーも感じない。作品よりは作業小屋の裏に積み上げられている未完成の石材群のほうが余程存在感があった。
 ましてや、岡山の後楽園にある、大きすぎてそのままでは運べず幾つにも分けて切り出してきたという岩の生命観には及ぶべくもない。あの岩も切り出した線がなければ、あれほどの存在感をみなぎらせることはないはずだ。
 例外は有名な「エナジー」。聞き慣れないという人のために写真を載せておく。
ただ、当時のままだという作業小屋はなんとも居心地がよかった。(寝袋に潜り込んでここで眠りたい。)
 見学の第二部で、七十九歳の誕生日に、自宅の裏山を利用して作ったという庭に案内された。そこは立ち去りがたくなる空間だった。──母レオニーを身近に感じられる場所を作りたかったんだな。──
 その数奇な人生の晩年にこの作品があるのなら、それで良かったのだ、とほっとした。
 その庭の写真はない。普通のカメラで撮影できるようには作られていない。あそこは見るところではなく、立つところ、佇むところ、うずくまるところなのだ。「うずくまる」は「蹲踞(そんきよ)」の蹲で「蹲る」。以前から大好きな文字なのです。
 
 旅の最終目的地は伊予西条の保国寺(ほうこくじ)石庭。室町時代の作だという。
 重森三玲に案内されて訪れたイサムは何かを覚った。のちの「石は地球の骨だ」ということばを比喩と考える必要はない。イサムは恐竜の化石を彫るように石を刻むことに喜びを感じた。
 観光寺ではないので外から眺めることしか出来なかったが、しっくりと来た。ヤブ蚊がいなければ、もっと立っていたい場所だった。
 ──誰かが作ったんだという感じがしない。
 四国の石ばかりを使ったという重森三玲の京都の石庭は面白かったが、どこか作為が勝っている気がした。でも、あと四百年もたてばあそこも保国寺のように石と土とがなじんでくるのかもしれない、と思うようにもなった。
 裏山側から撮ったものを添えておく。


 『イサム・ノグチ』は山口淑子編に入った。
 ニューヨークで出逢い、一気に恋に落ちたイサムはパリの「ぼくの先生」のもとに連れて行く。山口淑子にはブランクーシは「ただ彫刻をするために息をしている」人のように見えた。
 喜びに満ちたブランクーシは弟子の美しい婚約者に「レダ」を披露する。「世界にこんな美しいものがあったのか」と涙が止まらなかった、とある。
 その「レダ」が左。ただし、ブランクーシは同じモチーフのものを繰り返し作っているそうだから、左のものだったかどうかは分からない。
 それと、イサム・ノグチ庭園美術館で開いた冊子に見つけたナヤンタラの頭像も。

 本日これまで。
                                                    2016/06/13


雲雀よ!〈8〉

 報告したいことがあるので、先のアテもなしに書き始める。
 イサム・ノグチが成人してはじめて日本に来た時の作品のなかに上のような頭像があった。それを見て思い出したのが下の写真。川端康成初恋の相手のたぶん十四歳のときのものらしい。「似ている!」酷似している、と感じた。

 でも、どこが似ているんだろう? 顔立ち? 構図? よく分からない。
 ただどちらも、いつまでたっても口を開きそうにない。それ以前に「声」を感じない。
 なにがしかの典型がそこにある。
 まるっきり資質が違うはずの川端康成イサム・ノグチはけっこう同じもの、いや同じことを見ていたのかもしれない。

 地下鉄でヨーロッパの若者(30代か)と隣り合わせになった。「エクスキューズ・ミー」と声をかけて、イギリスがEUから離脱するのをどう思うかと訊いたら、微笑んで「シークレット。」そうか、と思って、「私は、キャメロンはバカだと思う。」と言うと、「イエス」と言って話し始めた。半分も聞き取れなかったけど、大意は(たぶん)次の通り。
「ポンドの急落はイギリスが信用を失った証拠だ。しかし、経済的な問題もあるけど、それ以前に、中東からの難民に対する責任を放棄したことによる道義的な信用の失墜のほうが今後に与える影響は大きい。」インディード

 福井県が「原発廃炉税」条例を可決したという記事を見た。──本州も「沖縄化」してきたか。──
 イギリスは「トランプ化」したらしいが。
 
 テレビのニュース番組でキャスターの「その結果はともかくとして、私たちは投票によって自分たちの運命を決められるんだということが証明された意義は大きい」という発言を聞いてギョッとなった。投票結果がオールマイティであるはずがないし、それがデモクラシィの根幹ではない。
 もともとデモクラシィとは、為政者の意思を、民衆に声高に主張させるためのシステムだった(と考えている)。だから、為政者に必要とされる大きな資質のひとつは煽動する能力。(それを公序良俗に反するというのなら、政治について語ることはなくなる。)
 デモクラシィはもともとそういうものなのだから、いまもそのままであるべきだなどと言いつのりたいわけではない。そうではなくて、「投票結果がオールマイティ」なのをいいことだという思い込みは知性からほど遠いと言いたいだけ。もちろん知性がオールマイティであるはずもない。が、「その結果はともかくとして、私たちは投票によって自分たちの運命を決められるんだということが証明された意義は大きい」と発言したキャスターは「知的な発言」をしたつもりなのが見え見えだったから、ギョッとなったのだ。──知性とはそんなものではない。数字だけ、言葉だけ、は知性からもっとも遠い──
 結果を危惧したら(それが国を誤らせると感じたら)投票を無期延期する「無責任さ」もまた為政者に必要な資質だし、キャメロンに(政権を維持し続けることを最優先にさえしなければ)、その選択肢が残されていなかったとは思わない。
 少なくとも普通の国では、蛮勇ほど為政者に向かない性質はない。
 「お前の言っていることは、トランプ並にむちゃくちゃだ。」という意見には反論しない。ただ、あの男はどこまで本気なのかさっぱり見えて来ない。ただ自分の「成功」に酔っているだけのような感じがする。
 「閉塞状況」という一時期はやった言葉は今にこそ当てはまる。
 
 自分がかってに「世界の卵」と呼んでいたものがブランクーシの作品だったと知って、驚いたり得心したりしている。
 原題は「The new born」
「究極の具象」を目指したブランクーシのたどり着いたモチーフは幾つも形にされていて、自分が最初に見たものには、表面に「粘土板に刻まれた世界最初の地図」みたいなものがあったのを覚えている。もちろんそれも、かってにそう感じただけかもしれないけど。

 山口淑子と結婚したイサム・ノグチ備前焼人間国宝のところで数多くの作品を作っているのだそうだが、日本でもアメリカでも「真似だ」と評判が良くなかった。が、世話をした人間国宝は「ほんものの天才だった」と言っていたという。
 「イサムはひとつずつ緻密な設計図にもとづいて制作した。それはただ得たいの知れない造形ばかりだった。ところがそれを焼いてみると、まるで子どもがいたずらで作ったかのような趣が生まれる。」
 札幌テレビが「モエレ沼公園」完成を特集した番組がDVDになっているという。今度アマゾンで検索してみる。

 みずから「大いなる始まり」と呼んだ、「庭園という小宇宙」作りの時期に入った。イサム・ノグチ60代。
 ずいぶん前から「もしイスラエルに行くことがあったら必ず」と思ってきたビリー・ローズ彫刻庭園(イサムが「宇宙につながる空間」として構想したもの。ついでに言うと、「地中につながるもの」として構想された広島の原爆慰霊碑は地元から拒否されて実現しなかった。彼には構想だけで実現しなかったものが無数にある。)がついに完成した。
 なぜだか、もらい泣きしてしまった。
 以後、評伝は「牟藎」を中心にした晩年に入る。
 そこでイサムは「自然が許してくれる小さな過ち」に没頭する。それを支えた石工は、イサムが目をつけた石をまるごと自費で買いつけてイサムの来日を待つ。「石はひとつずつすべて違う。ノグチ先生はそれらの石をすべて覚えていて、きっとあとになって買わなかったことを後悔しはじめる。」イサム・ノグチ庭園美術館のそばにあったのがその和泉石材店だったんじゃないかと思ったが、もう遅い。美術館でチケット販売をしていた美しい方が、つまりは「和泉さん」だったのではなかろうか。
 もし、本人に、作業小屋の裏に積み上げられているイサムの「過ち」の残骸に、仕上げられた作品よりも存在感を感じた、と言ったら、ギロっと目を向けてから少し表情が緩んだはずだ。それは、イサムにとっては前提となっていることだった。
 「私は私より優れた判断(石の本性)に反してみる気になった。最も深遠な価値を、それを壊すことなくいかにして変貌させるか!」芸術家にできることは、自分を媒体にして自然を変貌させることだけだ、と言っていたと記憶しているのだが、読み返してみてもその箇所が見つからない。
 「言葉では言い尽くせないほど美しい」牟藎で「レジャー」(彼の用語)に興じているイサムのもとに、唯一の自伝『ある彫刻家の世界』出版に尽力した女性から手紙が届く。
 「この加速度的に変わりつつある世界はあなたを必要としている。あなたは世界に属する人なのです。」

 自分がどうしてこんなにイサム・ノグチにのめりこんでいるのか、少し見えてきた気がする。
 なぜなのだかは分からないが、この男はごく幼いころから「自分の帰属すべき」ものを探してきた。それが組織だったことは一度もなく、時に宗教だったこともあるし、理念だったこともある。が、いま、自分が帰属を求めているのは「場所」だったんだと思うようになった。「どこに帰属するか?」その「どこ」は、地名や国名とは直接つながらない地面そのものであるような気がする。
 「オレのいちばん得意なものは旅だ」と若い頃から自負していた。その「旅」とはつまり自分の足で歩くこと。──この冬には、青森の金木に立ってみたくなった。ほんとうなら夏祭りのときがいちばんふさわしいのだろうが、季節外れの雪しかない時に行くのも「ふらう」らしい気がする。

 『ある彫刻家の世界』を手にしてみたくなって、市民図書館や県立図書館の蔵書検索をしてもない。アマゾンに入力してみると、あるにはあったが最安値のもので5万9千円。ひょっとしたらと九大図書館を検索すると「ある!」しかも貸し出し可。もうカードの期限が切れているから、夏休みに顔写真をもって出かけよう。
 『イサム・ノグチ』はもう最晩年の「豊饒の季節」のみ。そして「さようなら、夢追い人」。たぶんそこでは、ドウス昌代の思い入れがたっぷりと語られているのだろう。

 別件(なのかな?)
 (旧約聖書学者)月本昭男(ワタクシに言わせると小人です)の書評に次のような部分があった。
 ?年ほど前、親しいユダヤ人の聖書学者を伊勢に案内したとき、「もし神がいるとするならば、このような場所だろう」とつぶやいた。
 ・・・・「君は聖書の神を信じないのか」と口走った。すると、母を除く全親族がナチスに殺されて、なお神を信じられるとあなたは思うのか、と逆に問い返された。
                       2016/07/03