雲雀よ! 〈9〉

雲雀よ! 〈9〉


「荒木先生のバカ」
一年○組○番  ××××

 ぼくは、荒木先生はバカだと思う。
 なぜなら、先生がしている昔話を聞いていると、けっこう頭が悪かったということが分かったからだ。そして、なかなか教えるのがへたくて、分かりづらいからだ。
 なのでぼくは、荒木先生はバカだと思う。
 でも、そんな所が面白くていいと思うし、荒木先生はいい先生と思う。
    

 一学期最後の授業の二百字作文の一例。GWの第一回目につづく課題は「論理的な文章を書いてみよう」
 「夏休みをゆっくり過ごしたい者は今日頑張って提出しなさい。」と言ったなかで最後に提出されたのが右のものだった。ざっと目を通して「よーし。ゴォーカァーク!」と言うと何ともいい笑顔になった。あるいは彼は、小学校以来はじめて、センセイなる者とのコミュニケーションに成功したのかもしれない。


 『イサム・ノグチ』読了。
 かれはその晩年、売らずにとっていた自分にとって重要な作品(そのなかには西洋人が「芸術」とは認めなかった『あかり』も含まれる)を展示するイサム・ノグチ美術館建設(マンハッタンのアトリエを拡張したもの)に情熱を燃やす。
 かれの死後、牟藎にある重要な作品二十七点も移される。牟藎に展示されているもののうち九十七点は未完成品なのだという。
 それで分かった。
 著者は「そういわれなくては判断がつかない」と書いているが、周りの石塀のほうが美しいと感じたのも、小屋の背後に積み上げられていた「作品から除外された石」のほうに存在感を感じたのも当然だと言えば当然だった。
 ただ、石工和泉正敏は、「太陽が地平線へと沈みゆくまでの数十分が、先生の石がもっとも美しくみえるときです」と言う。
 「とくに夏のその時間帯、石彫群は強い日差しから解放され、いっせいに色をいきづかせる。光と影のコントラストが弱まるにつれて、石肌はみずみずしくふらみをおびる。」
 もいちど「夕暮れ時にその場にいさせてくれ」と頼むか。
 著者は「牟藎の裏庭からは、芸術家イサム・ノグチの全人生が見えてくる」と書く。彼女もあの場に立って、おなじように「よかった」とほっとしたのだと思う。イサムは和泉に「思い出がいっぱいつまった庭」だと説明したという。

 自分の仕事を総括したイサム自身のことばでこの項を締めくくる。
 「帰属への願望が自分を創作へと駆り立てた。」かれが帰着したかった場所は、アメリカや日本ではなかった。むろん「ノグチ」でもなかった。
 けっして成功した著作とは言えない『人間の条件』でハンナ・アーレントは、人間を「つくるもの」と定義する。(その結語は唐突に思われた。でもいいんだ。彼女は「人間とは何か」を考えずにはいられなかった。──読み直したばかりの『生命とは何か』でシュレジンガーはウナムーノなる人物の言葉を引用していた。「もしけっして自己矛盾に陥らない人があるならば、それは事実上なにも言わなかった人であるからにちがいない。」──)もし、彼女がイサムのことばを知っていたら、即座に会おうとしただろう。(アーレント1906〜1975。イサム1904〜1988。)アーレントもまた帰属すべきものを持たず、しかし、けっしてなにものかへの願望を捨てない人だった。
 
 イサムの遺体はアメリカで荼毘にふされ、その半分はニューヨークのイサム・ノグチ財団が受け取り、四分の一は妹のアイリス(彼女の父親の名が最後まで明かされなかった理由を考えているうちに、アイリスとイサムの父親は同じだったのではないかと思えてきた。であるならば母レオニィは父の名を告げる必要を感じなかったはずだ。)が受け取り、イサムが大好きだったハワイで散骨をした。
 そこには首長の妻が世継ぎを産むための、石が敷き詰められた特別の場所があった。イサムはその遺跡を中心にした公園を構想していたが、例によって予算不足のために計画倒れになり、いまはパイナップル畑になっているという。
 残りの四分の一は牟藎の和泉が受け取った。かれは、生前イサムが「この中に入りたい」と言った卵形の石を削り、その中に遺灰を納めたあと、もとの通りにし、「母と子の和解の場所」である裏庭の、古墳を思わせる小山の上に据えた。文字などは何もないただの丸っこい石で、誰でも触ることができる。

 名残惜しいので、ドウス昌代あと書きの終章を書き抜く。
 自分の極限を終始試されつつも、それにもまして、いつも時の流れを忘れるほどエキサイティングで、新しい発見にみちていた「イサム・ノグチへの旅」。このすばらしい旅を可能にしてくれた多くの人々に深く感謝しつつ。
   イサム・ノグチ十一年目の命日(一九九九年十二月三十日)

 『微光のなかの宇宙』も読み終えた。
 司馬遼太郎の書いた追悼文はどれも誠実さと気品に満ちているが、なかでも須田剋太八木一夫への文章は、友情と敬愛に満ちていて、しかも過不足なくその芸術を語っている気がした。
扉にあった八木一夫の作品とイサムの「エナジー」を並べてみる。八木一夫の作品は、せいぜい二〇〜三〇センチのものだと思うが、その量感は「エナジー」を凌駕している。もちろん戸外に置けるわけではないけれど、見る者の想像力をより刺激する。司馬遼太郎が「日本人の美術のなかで世界的水準」であるものの第一等に陶芸をあげた時、念頭にあったのは、たとえば八木一夫だったのだ






 「あとは何をしよう?」と思った数日後、『中国古代の文化』も読みさしていたのを思い出して開いた。けど、また止まってしまった。
 その「巫祝の伝統」の部分を書き抜く。
「この巫咸の咸(音は「カン」。訓は「みな」「ことごとく」)は、卜辞にも神名としてみえるものであるが、巫祝について最初の統説を試みた狩野直喜博士の「説巫」に、それはウラル・アルタイック族の間で、いまもなおKam,Kama,kamenとよばれ、満州語でShamaとよばれるものと同じ語であり、──満州語ではK・GがS・Jになるはず──いずれも古く巫を意味した語であるという。」
 KM語の元祖がちゃんといた。
 狩野直喜って何者なのかネットで見てみると、「肥後生まれ。内藤湖南などと並ぶ京都支那創始者のひとり。1867〜1947」。ひょっとしたら学生時代に誰かの引用でここを読んでいたのかもしれない。

 まだSacred Prostituteにこだわっている。
 『中国古代の文化』第六章。
 「遊と旅はもともと同じことだった。──遊びは神の行為だった。それが女神である場合は遊女と呼ばれた。」


 散歩の時、やっとそろそろ歩いていらっしゃるお婆ちゃんから「それ何という種類ですか?」と声をかけられた。自分でそう言っといて「聞いてももう覚えられんとですけど。」と可笑しそうに笑う。「テリヤというイギリスの犬です。」と笑顔で答えつつ、──知性というのは何と美しいものなんだ──と感動していた。
「この頃はきれいな犬ばかりで、」
 四国旅行中にバスで見かけた方もそうだった。何人もの客が席を譲ろうとするのを断って、だれに言うともなく「いっぺん座ったら立ち上がるとが、」とつぶやき、運転席後ろの柱にずっとしがみついて前方を見つめていらっしゃる横顔にただ見惚れていた。
「美しい!」
 知性と学歴はなんの関係もない。ひょっとすると「大学」と名のっているものは、むしろ知性を抑えつける役割を果たしつづけて来たのかもしれない。(べつにお二人を、大学出じゃないと決めつけたいわけではないけれど。)
 われわれの体力と、われわれが知力だと思っているものの両方が衰えてきた時に発露しはじめるものがほんとうの知性であるのならば、まだこのCrap Teacherにもチャンスは残っている。

       2016/07/19