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 今朝の新聞のコラムを読んでいて、「?」だったので追伸です。
 昨年、「中高生新聞」が全国の教員からアンケートをとったところ、生徒に薦める本の第一位が『こころ』だったというのです。
 わたしは違和感がぷんぷん。
 そう投票した教員たちは、まともに『こころ』を読んではいず、ただ単に「いじめ」問題の道徳教材と思っているんじゃないのかな。あるいは『こころ』の中身なんぞは覚えてなくて、ただ「名作だ」と言われたことだけが記憶に残っていた、、、。
 『こころ』は強い感染力を持っています。だから、自分自身の問題として読んだ者はきっと感染して、一生「こころ症候群」を抱えていくことになる。そういう教員は『こころ』を薦めるはずがない。(いやぁ、自分も薦めたことがあるかも知れない。でも、それは、ある特定の個人に対してだけだったはずです。)
 『こころ』をやる度に「またか?」
 毎年、生徒が感染しないように工夫しつつちゃんと読ませるというのは、けっこう大変でした。(さいわい、感染しそうな資質の生徒はそういなかったけど)

 漱石は偉大な小説家(という言い方をしておきます)であると思います。
 数年前、「先生が〝漱石〟〝漱石〟って言うから、この歳になってはじめて漱石を読みました。」という手紙が一回り以上若い理科の教員から届きました。「読んで、びっくりしました。百年以上前の小説を普通に読めました。」
 彼に会ったときの返事です。
 「あんたはスゴい。国語の教員でも気づいていない者が幾らでもいる大切なことに気づいた。いまオレたちが〝小説〟と思っているものの原型を最初に独力で作りだしたのが漱石なと。あとの者はその漱石の作りだしたものの真似をすれば小説というものを書けた。だから百年たってもそれが普通の小説に思えるのは当然たい。」
 「そうですか。」

 もう最後の授業だったことになりますが、去年か一昨年か西陵で『こころ』をやったとき、たまたま「こんな生徒はいままでこの学校の普通科にはいなかったな」と感じる生徒がいたので、慎重に授業を進めました。そして最後のまとめのときに、
──漱石はきっと、純粋に道徳的な理由だけで自殺する人間を書きたかったんだと思う。(そういう人間だっているんだ。)あとは、読者がそのことに納得するためにはどんな話にすればいいのか逆算して筋書きを考えたんじゃないかな。
 というと、その生徒が大きく頷いたので、「ほっ。」

 上のように入力しながら思い出したことがあります。岩下志麻の『五辨の椿』です。学生時代にそれを見たから、以後の岩下志麻はいっさい見ていませんし、原作も読んでいません。

 ただ、課題があったぶん、小説としては『こころ』は成功しているとは言いがたい気がします。
 20代のとき実業高校で最初に授業をやったあとの女子生徒の作文は忘れません。
 「漱石は女の気持ちをどう思っているのよ? 漱石なんか大っきらい?」
 作者がそんなことを書き込んでいたら肝心の課題を成し遂げることは出来なかったと思います。(もともと女の内面を書くのは苦手でもあったとも思いますが)
 あとひとつの成功しているとは言いがたいのは(こちらのほうが大きいのですが)、「わたし」が自殺したのは「純粋に道徳的な理由」からではなく、「K」に感染したからと考える方が自然だということです。では、Kが自殺したのは?・・・明治の近代日本にはすでにKの生きていく場所はなかったと思います。いまもありません。

 思い出したことを付け加えます。
 吉田健一のことばです。
 「漱石の小説はなんともつまらない。小説というのは、書いている本人自身が〝いったいどうなるんだろう?〟と思いながら書くから面白いんだ。」
 確かに、30代のころ夢中で読んだ吉田健一の小説はまったくそういう趣のものでした。それがどれだけ私を癒やしてくれてことか。
 漱石の小説のなかで私がいちばん好きなのは『草枕』です。でも、そう言われても漱石はきっと少しも嬉しくはありませんでした。なぜなら『草枕』は彼にとって「仕事」ではなかったからです。(かれの仕事は、日本の文学を「近代化」することだったのですから。)

 多難な一年が終わりかけています。
 ここ数ヶ月、読書をしたり、音楽を聴いたりすることがありませんでした。
 やっとイヤホーンを耳にしたとき聴きたくなったのは、ジネット・ヌヴーブラームスでした。
 20代後半からこれまで、音楽を聴いている時間の半分以上はセザール・フランクでした。彼の音楽こそ「オレたちの歌だ」と思っていました。その音楽にどれだけ慰められ、励まされたか分かりません。
 でも、長かったことに区切りがつき、どうやら「自分の時間」がやっと始まりそうになりかけてきた今、もっとも自然に感じるのがジネット・ヌヴーブラームスであることに満足しています。

 コラムは次のようにしめくくられていました。
 愛読の一冊は人それぞれだろう。「〝道〟の追求よりも〝猫〟をもっと書いてほしかった」という獅子文六説に、小欄は迷った末の一票を投じる。
 よし、獅子文六の何かを読もう。