『津軽』読書感想文

 また新年が来ました。
 じつは昨秋、あと一ヶ月弱で百歳だった母親を見送ったこともあり、今年は格別の新年のような気がしています。といって、特別のことは何もしないのですが。
 例年通り、糸島の桜井神社に初詣に行っておしまい。でも、互いに親を抱えていましたので、正月を二人だけで過ごすのは結婚以来今年が初めてです。そんな記念すべき正月なのに、年末に私が寝込み、年が明けたら相棒が代わりに寝込んで、なんとも静かな正月になりました。これは、そんな無聊を慰める、宛先なしの手紙です。

 私が寝込んだのには伏線があります。
 12月23日〜25日。友人と青森に行って来ました。そのアルバムは後ろにつけます。
 ほんとうは旭川から加わる男と青森で落ち合って昼飯を食う予定だったのに、北海道は悪天候で飛行機は欠航、急遽乗り込んだ列車はポイント凍結や倒木で何度も停止し「今年は無理かも知れない」というメールが届き、気を揉みましたが、それでも深夜になって弘前でなんとか会えました。(弘前は、明るい季節にも一度訪れたいと思う魅力的な街でした。)

 今回の目的地はただ一カ所、五所川原の金木です。
 高校時代と教員になった初期、教科書で『津軽』を読んで、いつか行ってみたいと思っていたところです。──『夜明け前』を読んだ長塚節たちが(名前を覚え違いしていたらご免なさい)すぐ語らって東京から木曽まで尻を端折って歩いて行ったという話を何かで読んだことがあります。あの小説のなかに隠っている地霊の息づかいに触れたかったのだと思います。ただ私の場合の金木はなんだか遠い遠い「父母未生の地」に感じられていました。──6月頃「そろそろ行ってみるか」と言うとその数日後には「航空券を手配した」というメールが届いたのでびっくり。(アイツもそんなに行きたかったのか?)
 三日間の予定だったのに、じっさいには上記のような事情で中の一日だけしか動けなかったのですが、大満足の旅でした。でも、その間のことはアルバムだけにします。

 戻ってきてすぐ新潮文庫の『津軽』を買い、翌日には読み終えていました。教科書以外の部分を読んだことがなかったのです。

 坂口安吾の『文学のふるさと』、檀一雄の『リツ子その死』。昔「この人この一冊」という読書案内プリントを作ったことがありますが、太宰治は『津軽』にします。
 ──また余談です。檀一雄に「狼のパクパク食われる赤頭巾」という句があります。安吾忌のときの作だそうです。よほど『文学のふるさと』に共鳴していたのでしょう。ついでに余談をはさむと、『ふらう』をはじめたきっかけのひとつは檀一雄の『さみだれ挽歌』を読んだことでした。太宰治との交遊への挽歌です。自分たちの青春への挽歌と呼んでもいいと思います──
 『津軽』は、昭和十九年「故郷の風土記を書いては」という出版社の依頼を受けて書いたものなのだそうですが、私には彼の魂の風土記に思えました。そこで彼の魂は千々に乱れまくっています。
 「本州北端の海岸は、てんで、風景にも何にも、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。…………大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思い浮かばないのと同様に、この本州の路のきわまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。」
 と同時に、あらぬ方向へ何度も彷徨います。たとえば、志賀直哉評の鋭さは見事でした。
 「格別、趣味の高尚は感じなかった。かえって、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思ったくらいであった。…………「文学的」な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感ぜられた。…………貴族的、という幼い批評を耳にしたこともあったが、…………あれは、貴族の下男によくある型だ。」SNOBでさえない、と言っているのです。かれの出自こそSNOBだったのですから。

 「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない」
 檀一雄は「信じるに足る現実」をつかむためなら何でもしました。が、太宰にはたぶん育ちのせいで、現実と遭遇する準備がなかったのでしょう。だったら自分で「信じるに足る現実」をでっち上げればいいだけのことなのですが、そんな野蛮な生き方が出来るようには生まれついていなかったのですね。

 『津軽』は唐突に、次のように終わっていました。
 「津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらば他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」

 それを読み終わったのが、ちょうど母の百か日法要の日。
 その翌日からドッと床についたんですから出来すぎですが、嘘をついているわけではありません。というか、むしろ、いつもそのようにして生きてきました。  
 新年の読書は、アマゾンで注文している、レヴィナス著、内田樹訳『モーリス・ブランショ』からになりそうです。
 旅に行く前にエマニュエル・トッド(『問題なのは英国なのではなく、EUなのだ』『グローバリズム以後』)を読んでいるうちに、やたらと気になったのが『明かしえぬ共同体』のブランショでした。
 トッドの発言は予言に満ちていると同時にひどく矛盾しています。──でも、『生命とは何か』の中でシュレジンガーはウナムーノという人の言葉を引用しています。「もし決して自己矛盾に陥らない人があるならば、それは事実上まったく何も言わなかった人だからに違いない」──モーリス・ブランショの考えていたことをレヴィナスを通して確かめるという所からリ・スタート。
 予感を先に書けば、ブランショは人間を平準化することを善だと考える「近代化」へ決闘状を突きつけているはずです。(ちょうど日本で幸田露伴が「江戸文化を破壊して東京という低俗化した街ができた」と激しく難じたように。露伴が「もうオレは死ぬ」と部屋から出なくなったというのはその直後のことではないかと思っています。)
 でも、あるいは例外の国がひとつだけあります。もちろん、それが、現代のなかに歴史や歴史以前が道ばたの雑草のようにあちこち無数に息づいている日本です。『野生の思考』の著者はそれに気づきました。トッドも気づきかけています。気づきかけると同時に自分が矛盾してきたのにも、自分の発言がほとんど自己否定になりつつあるのにも気づいています。でもトッドは、歴史学者として、そのことを恐れていません。
 トッドは自らユダヤ系だと言っています。レヴィ・ストロースもそうなのかな? ブランショの親友であり内田樹の師であるレヴィナスユダヤ教のラビでもありました。

 いつものように主題がなんなのか分からない手紙になりました。
 最後にひとつ付け加えて終わります。
 日本に来て伊勢神宮に案内され、「もし神がいるといしたら、こんな所なのかもしれない」と言ったユダヤ教学者がいたそうです。「ただし、自分はホロコーストで家族の大半を喪った。そういう経験をした者が神を信じられると思う?」
 その人は、そんな経験以前からユダヤ教徒ではなかったのだな、と私は思います。もしレヴィナスが私の発言を聞いたら、悲しそうな顔をして頷くはずです。何故ならユダヤ教的神とは理不尽さを人格化したものだったからです。それを文明化したのがキリスト教的神なのだと私は考えています。いま思い出しました。『美術史』のアンリ・フォールはそのことを「去勢した」と呼んでいました。
 理不尽さを去勢ようとし続けた文明の危機。
 大風呂敷もいいとこだと承知の上で言いますが、進歩主義(あるいはグローバリズム)という「モノカルチャー」主義が行き着きそうな姿が見えてきたことへの恐怖が、いま人々を盲目的な行動に駆り立てはじめている気がしてなりません。といって、この世界を収縮させようとすることは、さらなる災厄をもたらしそうで一層怖いのですが。