森山優 感想文

Gへ

 メールを読んだ。
 『法隆寺を愛した米国人』については、実はまったく同じ感想を持った。
 アメリカは日本と並んで、「やり手婆文化」が瀰漫したいまの世界のなかで、希有なほどナイーブな国。──あとひとつ、スペインを加えよう。あのアメリカ征服はスペインのナイーブさなしに説明するのは不可能な気がしてきた。──
 ナイーブさ(crap・teacher用語で言う「童貞文化」のこと)は、時として露骨さとして現れる。日本の中国侵略(あれを「侵略じゃなかった」と強弁するのはもう止めよう)がそうだったし、尻込みしていた日本を開戦に引きずり込んだアメリカの「対日制裁」もまたそうだった。フーバーのしたこともそうだ。いまトランプがしようとしていることも、そうでなければいいのだが。
 ヨーロッパのやり手婆たちは、日本とアメリカの凄惨な戦争を「いい気味だ」としか思っていなかったんじゃないかな。なぜなら彼らは、アメリカの田舎者たちに、表向きだけにしろ、お追従を口にする自分たちが、すでにナイーブさを失っていることを痛烈に意識していたはずだから。
 そのやり手婆たちの国で、いったいどのくらいの数のアメリカ(そのなかには日系人も混じっていたのだが)の若者が血を流したことか。──「自由」のために? でも、「自由」って何だ?アメリカ人の「自由」とは自分たちが脱出してきた現実からの自由ではなかったのか?(「一世が語りたがり、二世が聞きたがらなかったことを、三世は思い出したがる」と言ったのは誰だったか?でも、日系在米三世は例外に見える。)
 二百万近いという日本の戦死者には「故郷の母親や妹たちや子の日常を維持するため」という幽かな動機を信じる自由があり得たから、まだしも一抹の救いがあったと思いたい。

 『日本はなぜ開戦に踏み込んだか』に東条英機のことが書かれている。
 陸軍大臣だった時強硬な主戦論者だった東条は、首相になったとたん慎重派に成り変わり、陸軍からは裏切り者視されたという。その正直さが天皇の信頼を得た。東京裁判では、天皇に累が及ぶのを防ぐため、「赤心」東条は罪を一身で背負う。
 陸軍大臣だったときも、首相として戦争を指揮したときも、東京裁判の被告になったときも、そのナイーブさは、嫌になるほど何ら変わりがなかった。

 前にも書いたことがあるが、当時の日本の最大の失策は日独伊軍事協定を結んだことにある。なぜ日本は旗幟鮮明にしたのか? 松岡たちの意図とは別に、日英同盟解消後の日本は自分の曖昧さに耐えられなかったからだ。(戦争でも平和でもない曖昧さに耐えられなくなった日本は戦いに訴えた。開戦を知った野見山暁治さんが「なんだかホッとした」という回想は実に正直だと感じた。「どうなるかは分からないけど、これで遠くない時期に、ともかく決着がつく。」ただし、そのとき、自分が徴兵されるかも知れない、ということには思い至らなかったらしい。)
 アメリカの「門戸開放」を受け入れなかったことも、「中国膺懲」の看板を下ろせなったことも、「万一に備えて」戦争に必要な物資獲得に動いたことも(いったん動き出したらそれはもう「万一」ではなく既定路線化する)、ナイーブと呼ばずにどう説明ができる?
 陸海問わず、長を持たない軍部の責任の肥大化とともに、この国の童貞文化は筋金入りだし、それは今も変わってはいまい。

 でも、だからと言って「だから日本はダメだった」とは結論付けたくない。
 マーガレット・サッチャーは「1000年にわたって私たちは自分たちの歴史を書き続けてきた。私たちの子孫はその歴史を書きついでいくのか?それとも書かれる側に回るのか?」と言い残した。いまイギリスは果然と「自分たちの歴史を書き継ぐ」選択をした。
 が、フランスは、韓国や中国同様に「自分たちの現代史」を持ち得ない。ドイツは「ナチ史」でそれを代用することにした。EUはひとつの歴史を共有化するために「科学的歴史」を定めた。でも科学的歴史って何ですか? 
 固定された歴史は、大統領が変わったらひっくり返される法令同様に紙切れに過ぎない。
 かれら(そのなかには、天皇東条英機を含む)はそれがどんなものになるかを見通す能力はなかったが、あるいは見通す度胸はなかったが、「自分たちの歴史を書き足す」ほうを目をつぶって選んだ。その「歴史」を「国体」と言い換えたら、今日言いたいことが伝わるだろうか?
 そしていまや21世紀。その渦中で連綿と続く自分たちの歴史を書き続けている国が日本やイギリスのほかにどこかあるのかな?

 いつものことながら、少しズレて終わります。
 なにか、明るい未来について語りたい。
 日本は自分の曖昧さに耐えられなかったと書いた。そして孤立にも耐えられなかった。とてもじゃないが大人ではなかった。
 ただし、この国に象徴的な神道を見た時、その曖昧さというか、ほとんどいい加減さに、(そのいい加減さは、自分自身のいい加減さでもあるのだが)驚くのを通りこして感心してしまう。
 神道は、いくらソフィストケイトしてみても土俗宗教そのままだ。その土俗宗教は権力や外来の新興宗教と摺合することによって現代まで生き残った。その曖昧かついい加減な、宗教と呼んでいいのかどうかも判然としないものお陰で我々は魂の在りかをイメージすることが出来る。
 ことば遊びに取られるかも知れないが、「ピュアではないがナイーブ」であるお陰で現代人のなかで生き残っている宗教はほかにもある。
 スペイン(あるいは中南米)のカソリック。イギリスのアングリカン・チャーチ。アメリカのゴスペル。
それらと日本のソフィストケイトされた土俗宗教や密教は、どこかで心を通わせ合うことが可能なのではないか?