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 本日は洗濯日和。
 大濠の再戦は11時から。この10年間見る番組はスポーツとBBCの刑事物のみ。(例外はNHKBSの『新日本風土記』。どこかの寺で、若い僧侶が泣き叫ぶように、仏をなじるかのように、お経をあげている一場面が紹介されていた。「これが本当だ。この姿に比べたら遠藤周作の『沈黙』なんて少女趣味だ。──その少女趣味がいまの世界のトレンドなんだけど──)

 のっけから横道に入るが、一年以上待ったウエルベックの『服従』(ほとんどまっさら。百数十人のなかでまともに読んだ人は幾人?)を読んでいて、コーラン法華経の、その信奉者の受け止め方は瓜二つのように感じた。きっと大川周明もそのように感じたんだ。またひとつ宿題が増えた。

 BBC刑事物『タガート』『フロスト』『モース』『マクベス』(もしも一度イギリスに行く機会があったらマクベスの駐在地ロックドゥを是非訪ねてみたい。シャーロック・ホームズの住んでいた部屋が保存されている国だからロックドゥも必ずある)。モースはとっくに死んだものと思い込んでいたら同好の士から「いや、まだ元気だよ。」最終回、ハート・アタックで倒れるシーンがあまりにも真に迫っていたから虚構が現実を塗り替えていた。
 そして、『ルイス』『ジェントリー』『シェトランド』『ヒンターランド』『ウイッチャー』『ヴァランダー』『フォイル』

 学生時代、こっちに帰ってきたときだけライアン・オニールの(彼の前世代の所のほうがはるかに面白かったが)『ペイトンプレイス物語』再放送を、とびとびなので粗筋もよく分からないままだけど深夜放送で見ていた。
 「プロテスタントとはこんなに孤独なものなのか」
 そういう感じってけっこう根深く残るもので、いまもイギリスからアメリ東海岸に生きている人たちを見る時の下地の役目をしている気がする。

 昨日見たのは、妻に逃げられたマサイヤスとシングル・マザーの「イギリスの伊藤蘭(マリ・ハリーズ)」がぶつかり合いながらウエールズに生きる人々の心の闇を解明していく『ヒンターランド』で、事件そのものより脇役たちの演技が冴えわたっていた。
 町の名士を殺した犯人を、学校にもまともに行かず密漁や盗みを働いて生きている孤児だと決めつけて、村人が山狩りをする話だった。──そのとき字幕に「害虫駆除」と出てきた言葉は「Rat control」。そうか。英国史のキーワードはこの「コントロール」だ。EU加盟期のイギリスは異常だったんだ。──
 親を知らない頭の弱い女の子が誰の子とも分からない男の子を出産する。福祉の手も届かずに自分ひとりで子どもを育てようとするが幼く死亡した(それも、殺人事件の捜査中にはじめて分かったことだった)頃、村に遊びに来ていた男の子が行方不明になり15年以上が経過して或る殺人事件が起きる。
 唯一の頼りだった「母親」が亡くなったあと、(さらわれた)男の子は学校にも行かなくなっていた。が、ある少女は「この子はわたしと同じ一人っきりなんだ」とプラトニック・ラブに陥る。山狩りを指揮した男はその女の子の父親だった。(母親は夫の社会的判断の正しさと、娘の恋の純粋さとの間で揺れ動く)
 事件自体は思わぬところから解決し、父親は娘の独立を認め、男の子はマサイヤスの蛮勇によって実の母親との自然な再会を果たす。(BBCの犯罪物にはドイツや東欧物と違ってユーモアや救いが用意されている。アガサクリスティものの話が出て来ないのは何か後味がよくないから)。

 なぜ長々と書く気になったのかというと、その、父親を捨てて孤児とたった二人で生きていく道を選ぼうとした女の子に見覚えがあったからだ。
 『ヒンターランド』の前の『シェトランド』で、たったひとりの友人を「はじめて好きになった男のことをバカにしたから」殺したと泣きじゃくりながら告白した女の子だった。殺さなくても済んだんじゃないかと言うペレス警視に「だめ。あの人の悪口を二度と聞きたくなかった。」と言いつつ「I miss her」。心が締め付けられるほどに切なかった。
 その高校生が美しく成長し、こんどは男の子と生きるために敢然と家出を決行する。
 イギリスの視聴者も日本の視聴者同様感慨深く見たはずだ。

 嬉しいことに、『シェトランド』も『ヒンターランド』もこの4月から新シリーズが始まるらしい。
 シェトランドでは、ブラジル人と結婚するために海を渡っていった亡くなった妻の連れ子(何という複雑さ)のことが気になるし、ヒンターランドでは、感情をぶつけ合ってきたマサイアスと「イギリスの伊藤蘭」の激しい一夜がそろそろのはずだ。

 どんぴしゃ11時です。