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 アマゾンのコンピューターは凄いと思う。
 時々、「こんな本は如何ですか?」というメールが届くが、先日は、サロモン・マルカ『レヴィナス 生と痕跡』ときた。さすがは日本の暗号を解読していた国だ。──この著者はひょっとするとオレと似た様なことを感じたのかもしれない──

 内田樹訳の何とかを読んでしばらく経って、何が書かれていたのかも丸っきり忘れてしまった頃、「あの人たち(ユダヤという国はまだなかったはずだから、一部のセム人たち)は、宙の一角に何かが居た痕跡を見つけたんだろうな。」と思うようになった。もちろんそれは既に痕跡にすぎないのだから、彼らの一神教はほとんど無神論紙一重ということになる。
 リタイアしてから、以前から気になっていた山折哲夫『ブッダはなぜ子どもを捨てたのか』を読んだ。老学者は、まるで青年のような筆致でそれを書いている。きっと、「学者」であるために長く封印していたことの蓋を開けたのだ。
 読んだ感想は、それが老学者の言いたかったことでもあると思うのだが、仏教もまたその根本はニヒリズム紙一重だということ。
 悟りをひらくためには欲を捨てなければならない。その欲にはとうぜん性欲も含まれる。ということは、仏教一途の人々はいずれ滅んでいくしかない。
 エリー・フォールの言を借りれば、ユダヤ教を去勢することによって──抽象化することによって、と言い換えるほうが分かりやすいはず──成立したキリスト教が世界に広まった。その時こんどは各地の土俗宗教と混交して生命力を甦らせた。(鶴岡カソリック教会の黒い聖母はいつか拝みに行く。)
 仏教はその成立過程当初から他の生命力あふれるものと交わり変容しながらアジア一帯に広がった。そして、それが海を渡って日本に来たときは、ブッダの時代のものとは丸っきり違うものになっていた。(ただし、まがい物はダメだという考え方はまったく取らない。)
 が、そのユダヤ教や仏教で起こったことは少しも特殊な例ではない。宗教以前の土壌なしに宗教は成りたたず、であるならば「ニヒリズムとの紙一重現象」は避けられない。成立以後もそこここの風土に合うものに変容することで宗教は広まり、生きていく。
 
 宗教に限らず、ニヒリズムとロマンティシズムを不倶戴天の敵同士のように思い込んでいたら、過去も現在も見えないんじゃないかな。現実とはむしろそのニヒリズムとロマンティシズムの二層構造なのだ。司馬遼太郎空海を天才だと評価したのは、そのカラクリに肯いたからに違いない、というのが、この頃の考え方です。
 河内長野観心寺如意輪観音にも一度会いたくなってきた。