FSへ

ジンから「お前の書いてくることは良う分からん。だいいち字が読めん」と言われてしまったので、タイピングします。
 あなたがどんな生き方をしてきたのか聞きたかったのに、うまくマングリが合わなくて残念でした。
 相当に躊躇して居たのですが、同期会に行って良かった。
石川明子さんから「ジンちゃんが来るよ」と電話が掛かってきて「なら行く?」ひょっとしたら最後になるかもしれないと思っていたけど、新開や藤井さんが「今度はクラス会をやろう」と言い出した。そしたら、今度はあなたともゆっくり話してみたい。
 その時の話の種に、いま考えていることを書きます。

 アベが唐突にぶち上げたアドバルーンのことです。
 現行憲法の粗雑さ(いちおう文学の徒のつもりなのですが、その悪文さ加減はひどすぎます。そこにある論理も緻密にみえて実は乱暴極まる)がなんとも気に入らなくて、生徒には「わたしは改憲論者だよ。意見はいろいろあろう、でも、自分たちの生命と安全を他人任せにする、という前文はひどすぎるから変えようよ。だいいち日本人が自分の命を預けると言っている〝平和と公正を愛する諸国民〟っていったいどこにいるの?」というと生徒たちが笑い出しました。(2〜3年前の公立高校でのことです。)高校生から笑われるようなことを大人がやってちゃいけない。

 私自身は、前文の書き換えと、9条2項の削除だけなら実現の可能性があるかなと思っていたのですが(実は、「天皇は国事行為のみを行う」という条文があることを知ったのは数日前のことでした。)、今回の「9条2項のあとに自衛隊の存在を明記した3項を加える」という発想にびっくりしました。「無茶苦茶じゃないか」
 石破茂がどんな発言をするか興味津々で見たBSフジのプライムニュースで共産党の書記局長?が「3項を加えたら2項が空文化する」と言ったのは的を得ているけれど、戦術的には最悪の発言だと感じました。手の内をさらすのが早すぎる。あとは防戦一方に追い込まれる。
 護憲派の大半は「自衛隊はぎりぎり合憲」論です。(私には「〝疑わしきは罰せず〟の精神で百歩譲って認めてやっている」論に聞こえます)しかし、自衛隊を明記することが違憲だと言うのなら「これまでの〝自衛隊合憲〟は実は心にもないことを言っていたわけだね」と詰め寄られたら反論できません。
 安倍の変化球に直球で応じようとするならば、「現行憲法でも自衛隊はぎりぎり合憲であることには既に国民的合意がある」と、まずは自衛隊違憲派学者を切り捨てなくては行けない。──どう読んでも自衛隊違憲だと思うけど──その上で「国民的合意があるのに恣意的に第三項を加え、そこで自衛隊の存在を明記することは現行憲法の精神に反する」という論理にするしかない。

 ながく高校教員をやってきたのですが、生徒には「いま日本人が真っ二つに割れてハデに揉めているように見えるけど、じつはどちらも〝平和を守ろう〟ということでは一致しているから心配するな。割れているのはただその〝平和の守り方〟の違いで、どっちのほうが平和の守り方として有効かという方法が、極端に言うと丸っきり違っている。私は、平和を守るためには〝何かせにゃいかん〟と思う方だけどね。」

 安倍側はさらに「天皇は国事行為のみを行う」のなかの「〝のみ〟」を削除するのを提案する。このこと(公的行為などは完全な違憲行為であること)に関しても、「国民誰も、天皇憲法を犯しているなんて思ってはいないのだから、現行のままでいいじゃないか」としか言えない。「だったら〝のみ〟の二文字を削除することに反対する国民はいないはずじゃありませんか?」
 護憲派は今回も直球ではなく、「いったん変えたら歯止めが利かなくなり、絶対天皇制や、軍国主義の国に戻る」という変化球に頼るのでしょう。

 今回「すごいことを言い出したな」と思うのは、実は憲法をどういじるのかということではなく、護憲派が反論をしようとすると、どうしても「現行憲法」という言葉を使わないと新憲法案との区別が曖昧になることです。つまり、これまで現行憲法を絶対化してきた側も、それを相対化しないと議論が成り立たなくなる。そのことの意味は相当に大きい。
 実際にその加憲なり削憲なりが選挙の争点になるかどうかは、世論の動向次第でしょうが、(いまの首相は「機を見るに敏」)最終的には矛を収めるにしても、投げかけられた波紋はもう消えない気がする。
 
 イギリスがEU離脱を決めたとき、サッチャーの「これまで私たちは自分たちの歴史を書き続けてきた。次の世代も自分たちの歴史を書こうとするのか?それとも書かれる側になるのか?」という発言を思い出しました。「また書こうというのだな。」
 隣の国を見ていて思うことのひとつもそれです。あの国には「自分たちの近代史」がありません。彼らは「も一度歴史をやり直し」たい筈です。
 何十年も前になりますが、『アフリカ史』という新書を読んだことがあります。その中でいちばん印象的だったのは、独立したあと「国には歴史が必要だ」と大統領が学者たちに歴史編纂命令を出したという挿話でした。──歴史は文学か、社会科学科か、というのは不毛の議論にしかなりません。たいていのことはそうですが、歴史もまたハイブリッド体だと思っています。──
 ベネディクト・アンダーソン(実は二言だけですが口をきいたことがあります。)の、、なんという題名だったかな、その本のなかで独立を果たしたインドネシアが最初になさなければならなかったことは「インドネシア語」を作ることだった、と彼は書いていました。
 
 疲れてきたから、そろそろ終わります。
 自分たちの歴史を自分たちの言葉で次世代に書き残すこと。30代なかばに、ある尊敬していた修猷館の国語教員から「新しい私立男子高ができる。いっしょにやらないか」と声をかけられて喜んで加わりました。いっしょに働き始めていくらも経たない頃かれが「先生、国語の授業の目的は文化の伝承だと思うよ」──あ、司馬遼太郎を読んだな──もちろん異論はありません。
 自分の言い残そうとしたことが、どれほど生徒に伝わったかはわかりませんが、もう40をとっくに過ぎている卒業生のクラスのとき、ある男が「オレたちは荒木先生から、受験に役立ちそうなことは何一つ教わらなかった!!」と言うと大歓声が起こりました。われわれの時代で言うなら「異議ナーシ!!」そのあとに付け加えた言葉が感動ものでした。「でも、オレたちは先生から哲学の初歩を教わった。哲学ってすべての学問の基礎ですよね。」
 ホントにそんな授業をしたのかどうかは全く記憶の外にあります。だいいち同じクラスの別の生徒は「先生、いっぺん浅田次郎を読んでみてください。小説のようなきれい事ではない雑文でアイツの言っていることは先生そっくりですよ」と言います。たぶん二人とも半分あたっていて半分は外れているのだろうと思う。外れている半分のほうは、私から教わったことではなく自分で考えたこと、なんじゃないかな。

 ぐちゃぐちゃ書きましたが、もし、「じゃぁお前は〝誇り高き戦争〟と〝恥多き平和〟の二択しかなかったらどっちを選ぶのか?」と訊かれたら、やっぱり後者かな。でも、それは「蛙の面に小便」以上の強靱な自意識と精神力を要求されることなんだと思っているけど。

 この春リタイアして最初にしたことは、嘉穂の野球部を応援に行くことでした。(その次は、数年前からサニックスが主催している「ワールド・ユース・ラグビー」を宗像に見物にいったこと)
 今年の野球部は久しぶりに強いです。140㎞近い球を投げる投手が二枚揃っているし、打てるから、ひょっとしたらひょっとします。
 でも、「変わったな」と感じたことも幾つか。
 いちばん「変わった」と感じたのは、2試合とも応援団長が来ていなかったこと。もう肥川のような男がいないのか、そういうこと(応援団長が校旗をもってひとりで応援に行った日は出席扱いにすること)を学校が許さなくなったのか。その両方かもしれない。
 たまたま夏の予選で一度だけ私のいた高校と嘉穂が福岡の球場で当たったことがあります。こちらは私立なのでその日は「補習中止」。嘉穂側のスタンドにはだれもいず、ただひとり黄色くなったシャツに学生帽をかぶり校旗を持って仁王立ちしているヤツがいて嬉しかったのに。
 そうか、それよりもっと前、たまたま天神を歩いていたらクソ暑いなか学生帽をかぶっているヤツがいたので、そうかと思って、「勝ったか?」と声をかけると直立不動になって「勝ちました!」
 今でも柔道部は嘉穂らしいです。
 7月下旬に飯塚でそれらしき、体重が120キロはありそうな学生帽とすれ違いそうになったので「金鷲はいつからだ?」──OBの新原が「私財を擲って」御幸町の滴水館?を再建したあとのことです──と声をかけましたら、ぴたっと足を止めて帽子をとり「明後日からです。」「楽しみにしとくぞ」と言うと「有り難うございます。」
 帽子をとると同時に坊主頭から汗がザァーっと流れ落ちてきたのが何とも好ましかった。「嘉穂は嘉穂やな」
 野球場で「変わったな」と感じたあとひとつのことは、前に陣取っていたお母さんが「ね、ボタ山ちゃ何?」と隣のお母さんに訊いていたことです。
 もひとつは、これは自分にとって決定的なことだったのですが、(だってそれを楽しみに出かけてきたのに)7回になっても、勝利しても、校歌を歌わなかったこと。
 もう21世紀に「歴史は遠し三千年」はそぐわなくなったのかもしれないですね。
 
 中高一貫コースを作ってから嘉穂の偏差値はすこし持ち直しましたが、いまは女子生徒のほうが多くなったと聞いています。運動会後のストームもなくなったか、男女全員参加になっているのかも。
 仕方がない。
 文化祭に行ってみたことがありますが(母親の暮らしていたグループホームが新しい校舎のすぐ傍だったのです)、教員たちは塾の先生と区別がつかなくなっていました。

 長くなりすぎて申し訳ない。
きっとまた会えますように。
 今度こそゆっくり話せますように。