清宮質文

 長くなりそうだから、活字にします。
 先週でかけた鈍行列車乗り継ぎの旅の報告です。
 いろいろあって、朝9時に博多駅を出た初日は、播州赤穂東横インで荷物を下ろしたのが夜8時を過ぎていた。その間なんど乗り換えたのか。博多⇒小倉⇒下関⇒岩国⇒白市⇒福山⇒岡山⇒邑久(おく)⇒播州赤穂。乗り換え時間がほとんどなかったから博多駅で菓子パンを購入しておいて正解。前回の旅はけっきょく昼飯抜きだった。
 まる一日変わりゆく海をみていて全く飽きなかった。
 のっけから横道に入る。
 「海は広いな大きいな。月は昇るし日は沈む」
 よくもデタラメな歌を作った。月が昇り日が沈む光景を見られる場所なんて、人の住んでいないような離れ小島か岬の突端ぐらいなものだろう。
 『アザミのうた』もそうだ。なんだか可憐な花の様に歌っているが、実際のアザミは荒れ地にでも咲く、生命力の強い野草だ。だからイギリスにやられたスコットランドは国花にした。
 ぼうっと海を見ていて浮かんだことです。

 先月の山陰線もそうだったが、海は広いけれど陸地はひどく狭い。というか平らな土地がほとんどない。「こんな処で生きているものはウカウカしていたら海にはみ出してしまうから、そうとうな緊張感なしには生きられなかったな。」海に突き落とされないように緊張すると同時に、こんな狭小な場所の外へ進出する機会を常に狙っていたはずだ。
 去年冬の津軽平野の広さには驚いた。見渡す限り真っ平らな土地。ああいう土地で生きている者は、数年ごとに飢饉があったとは言っても、「外に出たい」という気持ちはなかなか起こるまいと思う。
 『天皇の世紀』の読み過ぎかもしれないけれど、土地柄が人気(じんき)を育む。まったく正反対の気風の人間が出会わなければならなかった。それが近代。

赤穂線には邑久以外にも難読駅名があって面白かった。
 日生、寒河
 それぞれ「ひなせ」、「そうご」。たいていの古い地名の表記は当て字だとは思うが、難読を通り越して「無理」。

 翌朝、邑久駅前に停まっているバスの運転手さんに「このバスは瀬戸内美術館に行きますか?」「えっ?」後ろに座っているオジサンが「はい。」と言ってから運転手に教えている。研修中だった。
 牛窓の港が見えて市役所が近づいたらその教官がボタンを押してくれた。「ありがとうございました」
 三階が図書館、四階が美術館。なんともコンパクトな市役所だった。
 招待券を送ってくれたマリコさんに渡してくれるように、クマモンの入っている封筒を受付に預けた。
 木版画しか知らなかったけど、他に水彩画やガラス絵も多数ある。
 小さいものは4㎝×8㎝。でも充溢しそう。

 「はるか昔、人間のなかに最初に生まれた感情は〝悲しみ〟だったのではないか」
 水彩画はなにが描かれているのか分からないようなものばかり。
「ぼくは空気を画きたい」
 何回も同じ女性が画かれている。その女性が、飯塚の隣町千手(せんず)に生まれた織田廣喜さん(琵琶湖の近くに安藤忠雄が設計した『赤い帽子ミュージアム』があるはず。織田さんの女性はよくつば広の赤い帽子を被っているのです。)の女性そっくり──カシニョールは成熟した女性。織田さんや清宮さんのはまだ何も知らないジブリ的な女性──に感じて、(これは野見山暁治さんに教えなきゃ)と思っていたら、ガラス絵の壁の終わりに野見山さんのことばが掛かっていた。「清宮質文さんのガラス絵を初めてみたとき〝あ、絵だ。〟と思った。」
なんだ。
 清宮さんは1917年生まれ。では残りの二人は? 
 スマホで年齢を調べる。
 織田廣喜1914年。
 野見山暁治1920年。
 三人とも大正時代の人だった。
 パンフレットによると、来年も「清宮質文Ⅱ」をやるとあるのでアドレスを書いてきた。
 来年は港の突端にあったプチホテルに泊まろう。

 瀬戸内美術館に行きたくなった理由のあと一つは「うしまど」という地名に記憶があったから。「何かの文学作品にあった」
 ずっと気になっていたけど思い出せないまま帰宅して、この部屋に入ったら「そうだった!」
 牛窓の波の潮騒島(しま)響(とよ)み寄そりし君は逢わずかもあらむ
      牛窓の波の潮騒が島を響かせる様に、(私に)言い寄りなさったあの人は、
      もう逢いにきて下さらないのでしょうか。
 万葉集(2731)だった。
 来年は牛窓でゆっくりする。
 
 バスで邑久にもどって、赤穂線邑久⇒山陽線岡山⇒福山⇒糸崎⇒三原。車内放送が「雨のため列車が遅延しております。お乗り換えの方は駅の案内放送にご注意下さい」下りてみると「呉線は先ほど動き始めました」その日の一番列車に乗ることになった。
 呉から船で江田島へ。
 江田島は思いがけぬほど人気のいい処だった。 もとの海軍兵学校に行く道を訊くと、おばちゃんが返事もせずにスッスと歩いて行く。「なんだ。」と思いつつ目で追いかけていると指さして「このバス?」

 赤煉瓦のゲストハウスで30分ほど待ったら案内役が現れた。一時間半ほど歩くと言う。
 ゲストハウスも次の校舎も、どう見てもたっぷりした時間がたった建物にしか見えないので「ここは爆撃を受けなかったんですか?」と訊くと「はい。呉は空襲に遭いましたが、ここは爆撃どころか一発も撃ち込まれませんでした。」〝仁義なき戦い〟ではなかったことになる。(戦争って何だ?)
 校舎は長過ぎて写らなかった。
「全長が144mあります。戦艦大和はこの倍近くあったことになります。
 その大和(武蔵?)が海底でバラバラになっている理由を探った番組がBSであった。「巨大艦に合わせた巨大リベットを打ち込む技術が日本にはなかった」爆発に耐えられず鋲が飛び散ってバラバラになったのだろうという。
 明治維新以降(明治維新もそうだが)日本は無理に無理をかさねて、けっきょくみずから破綻した。 

 歴史資料館に入る。「40分後に玄関に集合して下さい」
 大和の最後の艦長伊藤誠一が福岡県三池郡高田町出身だったとはじめて知った。興味が湧いてスマホで検索する。軍令次長だった時に開戦。交換船でアメリカから戻ってきた後輩に「この戦争の行く末を研究しろ」と命じる。命じられた男は「勝ち目はまったくない。日清戦争以前に戻れたらマシなほうだ」と、怒鳴りつけられるのを覚悟で報告する。伊藤誠一は無言だったという。
 かれは特攻出撃命令に従い、徳山で給油をしている間に病人やけが人のほかに配属されたばかりの最後の兵学校卒業生49人に下船を命じた。「日清戦争以前に戻れたらマシなほうだ」と報告した後輩は、戦後、伝道師になったという。生き残った49人のその後を調べた人が居ないかな。
 真珠湾に侵入した特殊潜航艇乗組員ただひとりの生き残りは戦後、トヨタに入社して、ブラジル・トヨタの社長を勤めたとある。
 回天、桜花、、、etc。
 黙って出てきた見学者たちに、江田島出身者だけでも3000名近くが特攻で亡くなったと教える。「平均年齢は19,8歳でした。」──この男はスゴいな。毎日毎日おなじことを言っているはずなのに、すこしもスレていない。──誰にも頭の下げようがなかったから、案内役に頭を下げた。
 ──あとは、本田先生の青春の場所を歩こう。
 そこは「キャンバス」ということばがピッタリの空間だった。
 生徒たちがクソ暑いなか制服で何組も走らされている。声のそろい方が見事。中にはリュックを背負って走っている若者もいる。ひとりが「ウェー野球部よりもキツそう」と言ったので見学者たちが笑い出した。
 ゲストハウスに戻って案内役が挨拶をすると大拍手。きっと色んな思いがこもった拍手だったに違いない。

 戻ってきた翌々日は、胃を全摘した同級生の快気祝い。愉快な仲間11人の集合。去年一年で男ばかり三人減ったのだという。で、今年一名補充した。
 「あと10年してごらん。〝まだ生きとったら願い通りに一緒にお風呂に入ってやるとにねぇ〟ち女ばっかりで話しよろうね。」
 「雪国20回」に、自分で作った「吾亦紅」の前奏を披露すると気持ちよさそうに歌い出した。松下電器OBが「なん。それマザコンの歌やんな。オレ好かん!」ではと「惜別の歌」にすると皆で合唱。
 この松下電器は人物で、この男のお陰で同期会がうまく回っている。藤沢正彦が好きで「ぜんぶ読んだ!」と言ったあとでこっちに顔を向けて「哲学は数学より二段階低い頭でも出来る?」
 後半部分には大賛成。でも藤沢正彦は読んだことがない。読んでみるかと思っていた頃に「品格」がどうのという本がベストセラーになって、「じゃぁ、オレが読む必要はない」根がアマノジャクなのです。
 それに明治という時代や明治人を神棚にあげる気がまったくない。明治人はその前代が営々と築きあげた精華をとことん食いつぶした。どの時代の人間も前代を食って生きるしかないんだけれど、彼らは次世代が食らうべき精神文化を何も産もうとはしなかった。そのあとの惨憺たる姿を次世代だけの責任にするわけには行かない。
 またもや大佛次郎の読み過ぎかもしれないけれど、──幸田露伴は同趣旨のことを書いた後、「もう死ぬ」と部屋から出て来なくなったという。──他人事じゃないよなぁ。オレたちはどんな精神文化を産もうとしているのか?

 ゾンビーズがそろい踏みをしていて、今度は『黄色いサクランボ』を披露すると言う。「おう、最後のサクランボやな。」
 担任を囲む会で小学校以来の同級生が「アタシ、もういつ死んでもいいち思いよった。でも、未練を残しながら死ぬともいいかなぁち思い始めた」と言った話を披露すると、「オウ。」と言ったあとに「あの男、この男、、」「いやぁ、あの食べ物、この食べ物かもしれんよ。」
 わいわいやっているうちに半日がたち「そろそろ帰らんとエズいき。」と立ち上がったら「へぇーまだ愛されとるとやね。」
 次回は8月初めに唐津でピアノ伴奏入りのミニ・コンサート。次は同月末の福岡支部同窓会。11月には予算4万以内でどこかへの二泊三日を企画しろと言う。「予算が厳しいばい。」「みんな年金生活やけんねぇ。」

 『天皇の世紀』を読み終えた。
 その話はいずれまた。

追記
 五月に会った高3の担任に手紙を出していたら、まったく期待していなかった返事がきた。「梅雨空を吹き飛ばすような便りをうれしく拝読した。」再会の折にお話しできるのを楽しみに待っています、お元気で、とある。うーん。内科と泌尿器科への通院を忘れない様にせねば。