不染鉄二

不染鉄二の絵をもし野見山暁治さんが見たら、「素人の絵だ」で片付けてしまうかも知れない。でも、印刷物では残念ながら分からないけれど、彼の山や島や岩には、いまにも動き出しそうな不気味な生命感がみなぎっている。それを確かめたくて奈良県立美術館に行って来た。
 その生命感は不気味としか言いようがなかった。
 「20世紀にこんなものを描いた人間がいたのか」
 その自然は歴史以前(人間が自然を意識する前、人間よりも自然の方がこの世界の主役だった頃)のものに思えた。
 そういう絵を見続けたあと、下のカラーのような〝灯り〟のある絵が突然のように現れると「胸きゅん」もイイトコ。人の営みへの確信と、その営みへのあこがれ(それじたいが矛盾しているけど)が湧き出てきて、その日はもう何もする気がしなくなった。(奈良公園に行って鹿をみて過ごそう。)
 たぶん、そのうち誰かがこの一所不住の画家を小説にしそうな気がするけれど、まったく相反する絵を描いたのちに、不染鉄二は上のような信じがたいほど軽い爺さん、体重計に乗っても針は動かないんじゃないかと感じる軽々とした爺さんになった。
 会場の出口に、画集やかれの言葉が集められたものが並べられていたが、「なにも買うまい」。自分が感じたことをそのままにしておきたかった。
 一人の人間とまた出会うことができた。

 『西南の役』は6冊目の途中で頓挫したまま。
 次第次第に重苦しくなってきて、読み終わる前からサラッとしたおさらいをしたくなってきた。
 理由のひとつは、徳富蘇峰の筆があまりにも生々しいから。人間もゴキブリも大して変わらない、と以前から思っていた証拠を、目の前にズラリと並べて見せる。(嫌中・嫌韓派には是非薦めます。)──人間はこの世界にとって最大のノイズだ、と少し前に感じたのを思い出して、いま羞じている。あれは裏返しのロマンに過ぎなかった──
 あとひとつの理由は「西郷はなぜ死ななかったのか」を考えたことによる。
 熊本城を陥落させることを諦めた時点で勝敗はすでに決していた。なのに戦争が続いた理由はただひとつしかない。西郷隆盛切腹しなかったからだ。
 では、なぜ西郷は切腹しなかったのか。「西郷隆盛という物語」が完結するシチュエーション、もっとはすっぱな言い方をするなら、英雄としてふさわしい死に方を見つけられないままだったからだ。その間に両軍を合わせて万を超える戦死者が出た。
 「無私の人」というイメージで語られることの多い隆盛は、実は常識人には想像がつかないほどの我執の持ち主だったのではないか。
 身近な者たちには、そんな西郷の心性は見えていたはずだ。なのに何故最後まで行動を共にしたのか。(たとえば今、村田新八という洋行帰りの男に興味が湧いてきている。日本に戻ってきてはじめて西郷が下野し薩摩に戻ったことを知り、帰朝報告もせずに故郷に戻る。村田について行こうとした後輩には「お前は親孝行をしろ」と東京にとどまらせる。そのとどまった男の生き方も気になるなぁ)
 上に書いた通り、かれらは西郷隆盛というレジェンドにふさわしい死に方をさせたかった。そのことに尽きるのではないか、というのが中間報告です。いつも中間報告だけなんだけれども。