今山物語

 主人公リードはリッパー・ストリートでもとの部下の下に入って働くことになる。
 ロンドンに同道した娘は貧民街でボランティアを始めるが、ある廃墟に入ったとたんに悲鳴をあげる。心配してついて行っていたリードが飛び込んでいくと、息を引き取りかけている男の子がいた。リードはその子を抱きかかえ 「ドント アフレイド イット。 ユー アー ノット アローン。 アイ アム ヒア。」と囁く。それが分かった男の子はほっとした表情になり穏やかな顔をリードの胸にあずけて息を引き取る。
 そのことがきっかけで、リードはすでに梅毒で神経を冒されている娼婦から行方不明になっている息子の捜索を依頼される。リードは担当事件をほっぽり出してかけずり回り、孤児院の不正を暴くと同時に彼女の息子の死体を発見する。
 息子を取り戻してくれたお礼を言う彼女に、リードは妻を死なせてしまった自分の過去を告白する。それを最後まで聞いた余命幾ばくもない彼女はマリアのような横顔になって「あなたはもう許されている」と言い、自分の体をリードに委ねる。
 再開された「リッパーストリート」第一回の枝葉を取ったストーリーです。
 残念ながらその娼婦の最後の台詞は聞き取れなかった。あるいは「ユー ワー フォーギブン オーレディー」だったのかなぁ。あの、最初は色気のイもなかったのに最後は輝く様な横顔になった女優さんの名前をいつか知りたい。


 「此の節は西郷先生始め桐野・村田等の諸豪傑と日夜協謀。実に以て愉快の事に御座候。城中の模様は日に衰弱の由。いずれ遠からず、落城は顕然に御座候。数年の精神を込めたる義兵と給金日当の士官、日雇ひ取りの兵卒とは、天地の懸隔あるは明白に御座候。」
 『西南の役』に戻ります。
 いつか『近世日本国民史』の西南の役篇を読もうと買いためていたのには、それなりの理由がある。西南の役をロマン化したがる風潮への強い疑念があったからだ。──徳富蘇峰なら、地面からの目線を持っているはずだ──
 上は薩軍に参加したもと熊本藩宮崎八郎(のちに戦死)が親に宛てた手紙の一節。
 この手紙のなかに、参加者たちの世界観(旧士族たちの異常なまでのエリート意識)があらわに見えている気がする。
 かれらは一度は主人公になりたかったのだ。幕藩体制下のサムライは一度も自分たちが主人公であることがなかった。
 自らを独立した人格として意識することさえ出来なかった藩制度が崩壊したとのとほとんど同時に、彼らは「ただの人民」の一部にされてしまった。彼らのねじくれた誇りは行き場を喪った。自由民権運動もその自己主張の過激な表現に見える。彼らの「民権」の「民」とは、彼ら自身の階層そのもののことだった。反政府運動のリーダーだったはずの板垣退助が入閣して体制側に属したのを背信行為と呼ぶ気にはならない。
 そのことと、彼らの庶民(とくに貧しい農民)への蔑視は、いまの我々からは想像もつかないほど強い。
 たとえば彼らは、熊本城を包囲すれば「日雇ひ取りの兵卒たち」は恐れをなして帰順するものと思い込んでいたと蘇峰は書いている。じっさいに「神風連の乱」のときは攻撃開始と同時に多くの兵士たちは四散してしまった。鎮台は彼らを再度編成し直して何とか守ることができた。が、その教訓から鎮台新長官になった谷干城は、相撲大会や花火大会を催して一体感を育てると同時に、直接闘わせることの不利を悟り、ひたすらな籠城作戦を進言し受け容れられた。さらに大量の酒を城内に持ち込み、戦闘中に酒を飲んで景気づけをするのを薦めた。そのような実際的な能力の持ち主がすでに頭角を現していた。
 あるいは、半年以上にわたる戦争中、荷役をさせた人々に薩軍はきちんと賃金を払っただろうか?「給金日当の士官、日雇ひ取りの兵卒」と宮崎八郎は呼ぶ。が、時の政府は官軍の軍夫には日当1円70銭を払ったと『秋月党』の著者は書いている。木戸孝允の小間使いの月給が1円50銭だった時のことだ。当時の1円50銭を現在の20万とするなら、軍夫の日当は23万円ぐらいに相当する。「日雇ひ取りの兵卒」の危険手当はそれ以上だったに違いないし、戦死した場合の遺族への多額の弔慰金なども約束されていた。
 第一、薩軍が戦争だけにかまけていた間、政府は同時に着々と新時代を作るのを忘れていなかった。たとえば、同じ明治10年には東京大学が設立されている。

 日本の文明開化を英訳したら「re−formation」なのかも知れないなと思い始めた。略したら「リフォーム」。?外はそれを「普請中」と呼んだ。リフォームは一般化しすぎてしまったから「シフト替え」。明治政府はそのシフト替えを急ぎに急いだ。(そのシフト替えにとって最大の邪魔が薩摩だった。)
 自分たちの世界観のなかで死んだひとたち、新しいシフト替えされた世の中では生きて居たくもなかった人たちのことは、それはそれでいいとして、新シフトの必要性を知り、なおかつその新シフトに十分対応できる自分の能力を疑わなかった人たちまでが何故薩軍に身を投じたか?
 いまの疑問はそちらに移ってきた。
 たとえば徳富蘇峰は薩摩の人永山弥一郎を取り上げている。
  かれは戊申の役ののち陸軍少佐に任じられ、開拓使大主典として屯田兵の長をつとめた。(のちに中佐)彼は征韓論に与せず、私学党決起の際も彼の「大義」は別のところにあった。
 西郷の要請で尋ねてきた村田新八らに彼はこう言う。
 「今日、在朝の人々は皆わが友人である。彼らは日進の時局に当たり、その知識の進歩もまた我らの比ではない。かつ今日陸海の軍備ようやく整い、兵を起こしてこれと争うも、必ずしも勝算ありと思えない。むしろ自重して他日国難の日に際し、奉公の誠をいたすに如かず」
 その永井弥一郎はしかし、戊辰戦争をともに闘った桐野利秋に懇望されて参加してよく闘って負傷、退却の途中に見つけた民家の老婆に「この家を売ってくれ」と持ち金数百円を渡し自刃したのち部下に火をかけさせたという。その間の彼の心の動きが分からない。
 大山巌とともにヨーロッパで学んできた村田新八のことは「国民史」が終わったら読もうと2冊用意したので、来月あらためて報告することになると思う。
 あと一人、中津から長駆薩軍に合流したのちに戦死した増田宗太郎はより身近に感じる。
 彼の家は福沢諭吉の家の隣、親戚でもあった。維新後帰ってきた福沢諭吉と話して慶応に入学しあっという間に英語を習得した。異能の持ち主だったらしい。が、家庭の事情をもって帰郷する。「今日の日本を興隆するには、士気を鼓舞するより先なるはなし。士気を鼓舞するには、学校を設立するを急務とす。学校を興し、青年に向かって大義名分を教うることは、すなはち士気を鼓舞するゆえんである」
 福沢諭吉は「中津より宗太郎を出だしたるは、あたかも灰吹きより龍の出でたるようなものだ」と、その死を嘆いたという。
 彼は本来は、薩摩を討伐して全国統一の完成を期した。それが一転して西郷とともに斃れることを選んだのは、たぶん上の「日本人の士気を鼓舞する」必要にかられたからだろう。
 維新後、日本人は、道の真ん中を闊歩する異人を避けて歩いた。(実は学生時代、それと真逆の経験を韓国でしたことがある。道が分からなくなって話しかけた女の子が身を避けたときの表情をいまも覚えている。)その異人の語を通訳する男たちの日本人への傲慢さ(三好十郎に『地獄の季節』というエッセイ集がある。敗戦後に道を歩いていると米兵の腕にぶら下がった派手な格好をした女の子から「やーい、日本人!」と声をかけられたと書いている。あるいはその女の子は第三国人だったのかも知れない)については後のイサベラ・バードも義憤を籠めて書いている。
 「自分の国の道をこそこそ歩くな!」
 その歪んだリフォーム(普請)を建て直すこと、さらなるシフト替えには薩摩と組むよりほかに道はないと決めた、のが、増田宗一郎だったんじゃないかな。

 第六冊で薩軍は「数年ここに割拠する」はずだった人吉をわずか数日で放棄した。
 事実上この時点(私学党蜂起から三ヶ月半)で新政府のリフォーム(中央政府を持った国家)はほぼ完成する。
 あとは西郷隆盛に、いかにしてその存在にふさわしい死に方をさせるか。課題はすでに別のことに移っていく。

附記
 当時の薩摩人には、人を人とも思わぬところがあった。木戸孝允は、その薩摩人の視線を我慢がならないものに感じたのだろう。
 しかし、その視線は薩摩人自身へも向けられていたことに木戸は気づいていたのかどうか。(たぶん、気づいたうえで、やはり許しがたいものだったのだ。西郷たちの考えには人の営々とした営みへの敬意がまったく見られない。)
 彼らにとって自分の命は、大義の前では「鴻毛よりも軽」かった。そう思っていない人間、もしくは「大義」を持たない人間は彼らの感じる「人間」のうちには入らなかったように思われる。薩摩人はそういう西郷の視線を何よりも恐れた。そして、自分の命を丸っきり軽いものとして振る舞うことを自分に強い、それが常態化した。
 その傾向は、西郷の死後も日本軍を縛り付け、軍自体の堕落に?がっていった。
 また、新たな補助線です。