池田紘一先生へ

 何から書いたら良いのでしょう。
 注文していた『赤の書・テキスト版』が届きました。
 でも、それを開いたら、いよいよ書けなくなりそうですので、その前にお手紙を差し上げます。内容はバラバラになります。ご容赦ください。

 先生のお話を聞きながらハンナ・アレントを思い出していました。
 彼女を主人公にした映画が作られて以来、いまはちょっとしたブームで、先日は新聞の書評欄に彼女の『人間の条件』についての日本人が書いたものが紹介されていました。その冒頭は「読みづらい。」だとあります。でも、私にとっては「読んでも分からない。」でした。(これは失敗作だな。──自分の理解力不足とは思わない所がアラキ流です。──)分からないまま、ただ活字を追いかけていたように記憶しています。それでも最後まで追いかけ続けたのですから、何か惹きつけて離さないものがあったのです。
 読んでから20年ほどたって、彼女が言おうとしたことは、「自然を創ろうとする非自然的実態が人間なんだ。」ということだったんじゃないかなと今は思っています。(私なら「創ろうとする」ではなく、「産もうとする」になると思いますが。)
 その「非自然的実態」と、先生の図のなかにあった「ペルソナ」とが私の中で符合したのです。とすると、「自己」が私のなかに浮かんだ「自然」になりそうな気がします。
 「自然を思い出せ」。
 その「自然」とは、言葉以前のものです。
この頃思うことのひとつは、ドイツ語の「世界観」って言葉で出来ているんじゃないかということです。でも、わたしたちの世界観には言葉の入る余地はありません。人間だけでなく、あらゆる生き物は世界観を持っています。もし、鳥が世界観を持っていなかったら、あんなに自由に空を飛ぶことは出来ないはずです。
 
 最初にあった、イギリス文学とフランス文学とドイツ文学の比較はしっくり来ました。といってもドイツ文学にははなはだ疎いのですが、DVDを買った『ヴォツック』はまさに「分からない」だと思います。ロシアの『ボリス・ゴドノフ』にも同じことを感じます。
私はテレビが大好きで、見ない日はありません。ただし見るのはスポーツ番組とBBC刑事物が大半です。その刑事物で19世紀末のロンドンを舞台にしたものは、いったん終わったのに、また続編がはじまりました。本国でも人気があるのだと思います。その続編の冒頭は、余命幾ばくもない娼婦から行方不明の子どもの捜索を依頼された主人公が仕事を放り出して探し出す話でした。
 そうか、その娼婦に会う前に主人公は、廃墟で息を引きとりかけている少年を見つけます。その少年を抱き起こして、耳元で、
──Don't afraid. You are not alone. I am here.
 と囁きます。少年はほっとした表情をして目を閉じます。
 もう、それだけで「ジーン」です。
 
 娼婦の子は死んでいましたが、その遺体を母親に渡すことができました。
 生きて渡せなかったことを謝る主人公に、埋葬を済ませた母親がお礼を言います。
──やっと、息子は安らかな眠りにつくことができた。Under the tree. among the birds.
 それを聞いた主人公は、自分が妻を孤独のままに死なせてしまった過去を告白します。 聞き終わった母親は、
──You were forgive.
 と言ったように聞こえました。
 でも、中学校のときに習った知識では、それは受け身形になっていません。その母親はそんな育ち方をした人間として描かれているのでしょう。
 「きっとサンタ・マリアも似たような境遇だったんだろうな。」
 BBC犯罪物を見飽きない理由です。

 わたしたちの世界が全きものであるためには、わたしたちの言葉は不完全なままでなければならない。──このごろ本気で思いはじめていることです。──不完全でありつづけるためには考えつづけるしかない。
 
 「偉そうなことを言うな!」と言われるのを承知の上で、そう思います。

 『赤の書』の絵を見ながら二人の日本人画家を思い出しました。
 一人は「大昔、人類が最初に意識した感情は〝悲しみ〟だったのではなかろうか。」と書き残した清宮(せいみや)質文。おもに木版をやっていた方です。下に画集から撮影した『吐魯番トルファン』をつけておきます。実物は横幅が12〜13㎝でしたから、下の倍まではなかった気がします。

 図柄以上に、色の取り合わせにユングと近いものを感じたのだと思います。と書いたら、図柄もまたどこかユング的な気がしてきました。
 あと一人は、イタリアで出会ったフレスコ画を油彩で再現しようとした秋元利夫。但し、実物を見たことはありません。もし見たら、触りたいという衝動にきっと襲われそうです。それぐらい(専門用語がちゃんとあるのでしょうが)画面の地肌が好きなのです。ただ、それに比べて図柄にはピンと来ないものがありました。
 でも、下の絵はユングそのままなのではないかと感じます。


 1985年に40歳で亡くなっていますから、『赤の書』を見る機会はなかったのではないでしょうか。でも、きっと、ユングや有元以前からあった図柄なのでしょう。
 
 「書かねば。それはあの講演を聴いた者の義務だ。」と思いつつ、やっと書けました。