今山物語5

 あらためまして明けましておめでとうございます。
 ことしもさっそく郵便爆弾です。
 例年通り、開くもよし、屑籠にポイもよし。よしなにお取り扱いください。

 年末に、NPO「ホップ・ステップ・ハッピー」から、自分のニックネームをつくれと言ってきたので、「ポエター(POETER)にしてくれ」と頼んだ。なぜPOETERを名のりたいか、というのが新年さいしょの話柄です。

 話の端緒は「ことばのインフレ」のことです。じつは、これは、大学時代に林達夫先生から聞いたこと。林達夫先は、ワクシに「知性」というものの具体的イメージを最初に与えてくれた方でした。あの大学が荒れていたときに「ぼくはどうせ書斎派ですから」と公言していた人は、戦時中には次の様なことを書いていた。
 「ぼくは駐在所の前で〝戦争反対〟と叫ぶ様なことはしない」
 学生に向かっては「ぼくが編集に関わっていたころの〝世界〟と今の〝世界〟を混同しないでください。」その意味が分かるようになったのは随分あとになってからだった。

 昨年、十数年ぶりに熱心なクリスチャンの後輩とあった。東京に引っ越すことになったので、その前に会っておきたかったのだと言う。
 彼女の話には、二言目には「愛」が出てくる。どうやら彼女の見るワクシはその愛に満ちた人間らしい。
 「お前ね、〝愛〟〝愛〟と連発するけど、連発しすぎたら何を言っているのか分からなくなる。その〝愛〟を別のことばに言い換えてみようとせんか?」
 怪訝そうな顔をするので、「江戸時代に日本に来た─正確に言えば織豊時代か。それより少し前か─宣教師たちでさえ〝お大切〟と言い換えとろうが。」やっとこっちの言うことが分かってクシャクシャの笑顔になったが、きっと彼女はこれからも「愛」「愛」と言い続けることだろう。

 明治維新直後の一円は今の一万円くらいに相当する、と生徒には説明していたけれど、デフレの時代があったとはいえ、今では数万円というほうが適当な気がする。一円は使われ続けているうちに数万分の一の価値に下がってしまった。
 言葉もまた使い古されていくうちに、その使われだした初期の重さや厚みを失っていく。
「君たちの使っている〝自由〟や〝平和〟と、それを口にし始めた先人たちの〝自由〟や〝平和〟を混同してはいけない」
 林先生が学生たちに言いたかったのは、そういうことだ。最初のころの「自由」も「泰平」も生血のにおいがぷんぷんする言葉だった(はずだ)。
 だったら、われわれは常に新しい別のことばを使うことで言葉の鮮度、生命力を維持しなくてはいけない。
 ワクシにとっての「文学」とは、そのようなものだった。「いい?文学って小説だけのことじゃないんだよ。」

 たとえば「平和」
 それを別なことばに替えるとするなら、、。国語教師は本気で考えた。「安穏」「平穏」。
 「もともとの中国語の〝平和〟ってね、敵対勢力や異民族全体にブルドーザーをかけるようにして平らにならしてしまうことだったんだよ。〝平成〟もまったく同じことだった。」でも当時はそこまでしか頭が動かなかった。
 そうして今や、満州族やモンゴルはたぶんほとんどが漢名を名のるようになった。いずれはウィグルやチベット族も漢名だらけになるだろう。──平成為(な)る。──

 いまなら「平和」を「無事」と言い換える。
 なにごとも起こらないこと、が「平和」なんだ。
 「今年こそ世界が無事でありますように。世界に何事も起こりませんように」
 ということは、たとえば飢えや寒さの恐怖にさいなまれている人々の現状も、突然の死や家族離散の予感を持ち続けている人々の見えない明日や、アイデンティをかなぐり捨てなければ生き延びることはかなわないとみずからに強いようとしている人々の断念や、自分の抱いている考えどころか感情まで周囲には悟られまいとしている人々すべてを「現状維持」であれと願っていることになる。「かれらの飢えや、死や家族離散や、アイデンティティの放棄などの恐怖がことしも続きます様に。」
 ワタクシもまたそういう「無事」をどこかで期待している。

 「愛」の話にもどる。
 以前、物質とは力の塊のことであり、その力には表の力と裏の力がある。物質はその表の力と裏の力のハイブリッド体なんだが、われわれはまだ、いやたぶん永久に裏の力を知ることなく終わる、と言ったことがある。──宇宙はその二つの力のバランスが崩れて生まれた。そしてそのバランスのいびつさは次第に拡大している。──べつに証拠もなにもないけれど今もそう思っている。「宇宙はいずれ収縮し始めてまたもとの無にもどる」というホーキングは学者から神秘家になった。

 後輩には言わなかったが、ワクシは「愛」もまた物質同様にハイブリッド体にちがいないと、ほとんど確信するようになった。
 愛が表、虚無が裏。
 虚無の裏打ちのない愛に生命力──この「生命力」も使い古されてしまって何を言い表しているのかまったく分からなくなったから言い換える──生殖能力はない。ミケランジェロピエタがなぜ人々を打つのか?そこには「虚無の裏打ち」があるからだ。生殖力に満ちているから今も人々はロンダニーニのピエタに会いにいくのだ。

 いい正月だとのんびりしていたのに、ニュースを見て一気に不快になってしまった。
 ローマ法王は今年、核廃絶を世界に説いてまわるという。(たぶんその真意は核戦争の危機を回避するために人々を動かそうとすることにある、とは思うが)
 かれは、核廃絶は不可能だと多寡をくくって安心して核廃絶を説く。
 万一、核兵器が地上からなくなったら何が起こるか?野心家たちは安心して紛争や戦争を起こし放題に起こす。そして国際機関(そのとき国連がまだ機能しているとも思われないから、そういう呼び方をしておく)は、世界の何処かで核兵器の密造が行われていないか血眼になって「査察」をすることになる。警察国家という言葉があるが、世界はもう警察世界になる。それは、オーウェルの描いた悪夢そのままだとワクシには見える。いや、核兵器を手にすることで世界を支配できると考える学者や政治家の登場は単純きわまる未来漫画のさらなる戯画にすぎない。
 宗教もまた「虚無」を内包していなければ宗教としてさえ在り得ない。(バチカンが、宗教よりは政治に重きを置く様になったことを一概に否定する気はないが)表向きの教義の裏にある虚無の厚みがその宗教の濃さをつくる。
 仏教者の言う「無」も「虚無」と言い直すだけでおののきが幾らかは甦ってくるのに。
 仏教者たちは「無」や「空」を、社会学者たちは「平和」を、そして多くのインテリたちは「理性」を祭壇の上の干からびた亀にしてしまった。
 
 言葉はときどき(世紀単位でいいから)更新されなければ最低限の役割をも果たし得なくなる。文学、なかんずく詩のほんとうの使命はそこにある。もともとの詩はそのようにして我々の前に現れた。

 70歳の年のはじめに思い至ったことです。ただ思うだけ。
今年米寿だという恩師から賀状の返事が届いた。
 「秋に上高地に行って冠雪した山々を見つつ、晩節を汚すことなく全うしたいと思った。」 東京の同級生たちに「米寿祝いのときは声をかけてくれ」と頼む。
 自分はただ「読み部」「思い部」として残りの9年を全うしたい。

            2018/01/04