保田与重郎『後鳥羽院』抜き書き―1―


「日本文芸の伝統を愛しむ」
もののあはれといふ歌のみちは、男と女との間のはしをうたふことであった。
・家持から王朝の美女の文学が発生する素地がきづかれた。後宮を中心とした機智の文学は、家持のサロンに於いて早くきづかれてゐた。のみならず、この浪漫化の心が、皮肉にも西行らの「隠遁と放浪」者の心なき文学の母となり、もののあはれやさびしをり、ないしはわびの文学となって、閑寂の茶道の花やかささへ築かれたのである。
・このみちやの嘆きは芭蕉に於いても雄大な回顧を象徴した。たれが歩いてゆくか、古から歩いた人の俤をたどって、俳諧茶道の先人をよぎって、西行にゆき釈阿(俊成)にたどり、つひに後鳥羽についあたった。すべて家持のサロンの流れである。それを思へば寛平の御時の后宮の歌合せの意義も明瞭となる。人麻呂を思ひ山上憶良を考へたなら、天平の人家持のサロンへゆくみちもわかるのである。
・王朝の歌は小野小町和泉式部式子内親王 の三人の女性で云へるやうである。そして式子内親王に於いて日本の歌の歴史は終焉した。西行の発想法にしても聯想法にしても、すでに俳諧のものである。・・・後白河院の皇女式子内親王こそ最後の歌人であった。わが国風の歴史はこの後に於いて武人の時代に入るとともに、儀式的歌学派と隠遁詩人の血統を伝へるのである。
・院の孤島の日を隠遁の外形で見て、西行文学に近づけてはならない。西行の一人のみちには満足があった。院の時は満足のない詩人の宿命である。
・蕉風は茶漬けの味を知る心であった。これは芭蕉の語録の一つの伝説である。
・院の見た西行芭蕉の見た西行とはもう異なってゐた。西行のみちをこの奉仕の世渡りの上からさへ見てしまったのはむしろ芭蕉である。院に於いて西行は心ある――この心はまだ真実であった、天地の意志であった――理想の形であったと思へる。
・院の政治的失敗に関せず、その文芸への精神は絢爛と後代を刺戟した。院の流を追った一人である芭蕉がやはり変革的雰囲気を時代の中でただよはしたのは近世のことである。
・院の遠島の歌には、至尊の丈夫ぶりと、地下の人びとの呻きをともにもってゐた。しかし芭蕉の末期の嘆きも、荒野をかけめぐる夢に困苦する孤独者のこゑである。
西行の精神を一つの象徴の形として決定されたのは院の精神であった。後鳥羽院を考へるとき、蕪村に始まるものと芭蕉に終わったものとの関係が光の道のやうにあざやかにあらはれるのである。


「歌と物語」
・今日の役人たちは、また教育者も、ある重大で大切な少年少女時代の神聖さをもたなかった人びとではなからうか・・・・増鏡の文法的解釈や歴史的考証が、唯一の科学的教育と思ってゐるやうな教師でもいるなら、さういふことを云ふ人は、古い日本の神道家が、文法学や歴史書に名をかって、己の鬱結を世間にたたき込んだあの学問の志の表現法は分かりやうがなからう。
・はるか遠い昔に業平が歌を物語のあはひで描かうとした志、歌のはてに物語を見いだした原始は、物語の終末に於いて歌を見いだすことによって終わったのである。
もののあはれや心ばへの道が、すき心と自然非情の風詠派に分離していたことは、芭蕉の出現によって明らかである。さうしてこの文芸上の近代の英雄は、再び古来のものの統一を近世の形でなした。この最後の人にあった近代の芽は、誰かに摘まれねばならなかった。それは芭蕉に永遠な師を感じた蕪村と、芭蕉を徹底して批難した秋成によって、人や自己が知るや否やに関係なく、彼らの体幹と血で感じられたのである。芭蕉が遺言とした残り三合の世界は、うそでない予言となった。
・相聞と挽歌が同一発想であったといふやうなことが、理解されての上の機智や技巧ゆゑ、これはもう大さうな文化である。あの一条院の御代に爛熟したやうあ女性教育は、もう再びされがたい文化の一つであらう。
・女たちの悲観的感傷主義の不安の文学の外延としての民衆的迷信をかりに云ふとしても、それらの迷信生活に於いては、王朝文献にあらはれている迷信より、北条氏の鎌倉時代の迷信の方が、はるかに救ひのない断末魔にあふれてゐるのである。王朝の終末感は大半が人工だったのだ。
・一条院の御代の文学を女(体)で表せば、後鳥羽院時代の文芸は少女小説であらう。「物語」は感傷化したのである。
 しかもそれは王朝の女性文化のつひのみちとも、又デカダンスとも云はねばならない。さういふことはすでに俊成女のあの大やうの作風にも見えるけれど、建礼門院右京大夫や、宮内卿、待宵小侍従となればさらに濃厚であらうし、式子内親王などその風潮のきびしさを代表する一つである。式子内親王建礼門院右京大夫の、あのプラトニックな恋愛歌を、一条院のころの和泉式部にでも比較すれば充分である。さうして「うたたねの記」のやうな、あるひは「更級日記」のやうな、ああいふなつかしい文学少女風の人の手になる感傷的な作品がつひに出来上がったのである。それは王朝風な心理追究の終末的にたどらねばならなかった道であらう。


宮廷の詩心
・万葉と古事記の発見はまことに近世の原動であったし、それに法隆寺の発見を加へたのは、明治の世界精神である。・・・・ほゞ二百年来の歌風が生活の歌といふものに向かひつゝあったことも私は充分に認めるのである。さうして現代に於いてそれがまさに二百年の頽廃にたどりついたといふことも断言してよい。近来の歌が生活の生命感をつひに病患によってしか展き得なくなったことが、もうその決定的事実ではなからうかと考へられるからである。
・私は後鳥羽院をのべる一聯の文章の中で、院より始まり、吉野に於いて燃焼するひとつの歌風が、永遠なる姿で、木の下をゆく水のごとく絶え間なく中世をへて維新にまであらはれることを述べようとした。
・万葉以降を考へても、日本の宮廷文学は、民衆のもつ神秘的な呪文的調べを多分に更生の種子としてゐることが知られる。民衆といふものは・・・・文学の世界では我々が考へたやうな簡単な概念でもなく、さらに事実でもなかったのである。

桃山時代の詩人たち
・元禄の芭蕉などの天才が出現した時代で、はじめて桃山時代が変貌終焉した。足利末期、堺文化が確立した時から、それが頽廃する過程を私は桃山時代と呼びたい。わが国風が徐々にしてつひにはっきりと俳諧的精神に崩れてしまふ。・・・・俳諧的精神が国風を分解した事実は、後鳥羽院以後にはじまる。
・私は俳諧の本質はひとつの詩の精神と思はない。それは、王朝物語と発想を異にする小説精神である。国風の和歌からふたつの小説精神が生まれた。(※たぶん、「民衆」という概念をも含んだ象徴主義と、「さびしい」とか「かゆい」とかいう個人主義を指してる。)・桃山の詩人たちが近世の初期に組織した、日本の美観の体系と発想の多くは、元禄や化政の江戸市民によって変革されないで、また明治の西学的趣味と教養に少しも敗れず、日本文化の伝統を今日まで生きてゐる。
文学史的に空白な桃山時代は、前後に比をみない生活を意識づけ生活を浪漫化する装置の天才を生んだ。生活から生まれた芸術は、生活を芸術する芸術であった。さういふとき利休に表現されたものは、堺の旦那衆の趣味生活そのものであった。
・おそらく、桃山の詩人たちの規模は、ひとりの豊公に表現されつくされてしまったあとゆゑ、かへって個人個人が雄大であったと思はれる。文化と野蛮の表現上の差は、たゞ発想だけのものであらう。終ったところで語ってゐるか、終りへもってゆくために語ってゐるかのどちらかである。
・わが美観の直線の流れはつねに朝廷より外に出なかった。われらはさういふ時代をへて、明治に来たのである。
・豊公は自らに単純のかぎりまで達してゐた天才であった。だから堺市は秀吉が出て初めてその生命に方法を与えられたのである。
・秀吉は本有に於いて大なる冠辞を一切に自然とすべく生まれてきたのである。この気宇は天才信長を圧倒し、当時の公家武家を圧倒してしまった。しかし堺の生んだ詩人たちはみな昭鴎の門下から出、さうして利休の門下であった。贅沢で派手でそのうへ一切の放蕩と官能を知り尽くした堺商人のお茶漬けの味の方が、抽象されてしまったのである。
・秀吉の精神が桃山であった。茶の世界に於いてさへ、秀吉は利休を創造したのである。
遠州雄大さは、秀吉のもった物質にめぐまれなかったところに発生する。その雄大さは、東山の義政とは異なるであらう。その精神の深さは、義政の虚無にちかい象徴に到らぬ。・・・・その「雄大さ」を同時代の後水尾院に比したとき、はじめて遠州の本質が理解される。
・所謂「後水尾院好み」をひとつに系統づけることは、日本の文芸家の任務としても意味がある。その茶室の無造作な雄大さは、昭鴎系統でさへすでに思ひ及ばぬところである。桂に於いては、遠州よりも院が主たる発想者であらう。修学院の大きい刈込の雄大さは帝王の精神に他ならぬであらう。・・・・桃山の芸術は後水尾院と秀吉を語ることによって始めて完全である。

後水尾院の御集
西行の学派の人々のゆく先々には、戦場の日にも連歌があった。・・・その道は後鳥羽院より始まり、古い始の祖師は赤人であった。赤人と人麻呂をならべて、芭蕉に於いてそれらの二系の完全な結合がなされた。芭蕉の旅の心は、西行風のダンディズムだっただらう。その伝統の長いはての日常と思はれる。しかし、芭蕉の哲学と人生観と、さういふ思想の表現は、永遠な人麻呂的慟哭であった。」
・近世の銀行家たちも、その風流と芸術と境涯の表現に於いては、貴族のやうに表現するか、ないしは百姓のやうに表現した。・・・・百姓のやうな生活を表現することは、反って市民のてらひであった。・・・・二十世紀に入って芸術はやうやく文化と混乱をひき起こし、かういふ二つの生活を失った上の抒情や純粋が、知的なものとして、文学的な基本線となったやうである。・・・・後水尾院の組織されたときの好みには、さういふてらひも気どりも少しもなかった。・・・・百姓のまねをして風流がる代はりに、修学院の庭には、近いころまで百姓がそのままの姿で通行してゐたのである。


別件
 飯塚商店街を歩いていて、絶滅危惧種に似合いそうな上着を見つけたので、はり込んで買った。10歳ほど先輩に見える女主人に言うと、
――あなたは、お目が高い!!
 奥さんにか、というのでうなづいたら
――浮気でもしたの?