今山物語8

 福岡は昨日は嵐、今日は菜種梅雨。
 博工国語教員たちへメッセージを届けた勢いでこれを書きます。
 昨日、録画していたNHK『神の数式』を見た。題名が気に入らなくて、見るかどうか迷っていたけど見て良かった。実に充実した内容でした。 
 この宇宙をひとつの数式で表そうとした男たちの物語は素人にも分かりやすく、あとに付けるメッセージに書いているその「限りなく本当にちかい嘘」に引き込まれてしまった。
 簡潔に言えば超弦理論についてのことです。(でも、超弦理論は糸口になるかもしれないけど、それだけでは解決にはつながらないんじゃないかなあ。)
 2013年に放送されたものの再放送で、アインシュタインやホーキングも登場。
 アインシュタインは自分の一般相対性理論を使って宇宙を数式化(たぶん「言語化」と同じこと?)できると考えたんだけど、式の分母に0が現れてしまった(んだったかな)。
 ホーキングは、「ブラックホールの底の底」とビッグバン以前の「始原の宇宙」の二つを一元化しようとしたけど、数式に∞が現れてしまうのを解決できなかった。
二〇世紀の物理学者たちはアインシュタインの予言したブラックホールの究極の場所がビッグバン以前の宇宙とそっくりであることに気づいたのだそうです。──その「そっくり」が彼らにとっては具体的にはどのように「そっくり」なのかは分からなかったけど。

 その「ブラックホールの底の底」のイメージと、レヴィナスを読んでいて感じた(ほとんど視覚化させられた?自分の記憶では「見たくもないものを見させられた」)「ユダヤの神の位置」のイメージが重なってしまいまい、驚きでした。──「あぶらやま通信」で書きたかったことのひとつに「勘違いすることの貴重さ」がある。その構想がまとまらないうちにリタイア。その程度に読んでください。

 いま追いかけているのは、きっと、「ニヒリズムの復活」。終局的救いはそこにしかなさそうなのです。そのニヒリズムに近いのがユダヤ教であり、仏教であり、たぶんロシア正教であり、中国人が自分たちでも気づかずに信じている何か、のような気がしてきた。・・・キリスト教的神は人間がいなくなったら消えてしまう・・・。

 ここからは妄想であります。(これまでも十分に妄想的だったけど)
 いつか近い将来、ヨーロッパ人たちは、自分たちの世界観をぶち壊すそれらの「秘教」と正面から対決するときが来る。その対決自体は避けられそうにない。その対決が破局につながらないための唯一の手がかりは、その時にデモクラシィが生き残っていることだ。生き残るためにはデモクラシィは「血を血で洗う」ようなものでありつづけなければならない。けっしてママゴト化させてはならない。

 番組では、最初に「神の数式」にもっとも迫った男としてロシア人のブロンスタイン(ユダヤ人?)が紹介されていた。かれもまた数式に∞が無数に現れてきて挫折している。が、それとほとんど同時に、まだ30代でスターリンによって処刑された。
(ひょっとしたらスターリンという無神論者は当時唯一のブロンスタインの理解者だったのかもしれない。)
 それが見終わった感想でした。

ここからは土曜日に会った人たちへのメッセージ

 楽しい時間をくださった皆さんに礼状を書こうと思いつつ数日経過しました。
 ほんとうに有り難うございました。
 とくに嬉しかったのはI先生やF先生に再会できたことです。画像工学科の生徒が私のことを覚えてくれていたという報告も、とてもとても嬉しかった。
 私は「希望なんかなくても人間は生きていける」という信仰にちかい信念を絶対に手放す気のない男ですが、でも、希望はあるほうがいい。もうすぐ70歳になる子どものいない(ということは孫もいない)男の希望は次世代の人たちです。だから、是非また会いましょう。

 私の話はすぐよれて横道に行きますから、今日話したいことを、まず書いておきます。
1,「大人になる」って、どうなることなのか?
2,リアリズムが呼吸していないロマンに実現可能性はない。その「リアリズム」を日本語に言い換えるならば「野蛮さ」になるはずだ。
3,私のリアリズム。
4,今年のゴールデンウィークの自分の課題は勝手にでっち上げつつある『二〇世紀の俳句2017版』を完成させることです。完成したら、このアドレスに送りますから、K先生もF先生も、アクセスしてみてください。

 では、話の開始です。
 私は、中等教育の主目的は、次世代の子どもたちに大人になる準備をさせることだ、と思っています。でも、私自身が自分を「大人になりはじめたな」と感じたのは50代に入ってからです。その50代とは、親に対する慈しみの情がわき始めた頃でもあります。
 わずかなアルコールに酔った勢いで言った「血を吐く思いで書くこと」とは、自分の親のことです。心貧しく戦中・戦後を生き延びた彼らの希望は唯一「子ども」だったっと思っています。その子どもたちが、「希望」に値する生き方をしたかどうかははなはだ疑問です。ですから、彼らのことを書くことに耐えられる精神力が身につくのが先か、自分のことさえ忘れてしまうのが先か、まったく分かりませんが、これは「勝負?」です。

 私の自慢(たくさんたくさんあります。わいわいお喋りをしているうちにあっという間に4時間がたつ若い友人たちを持っていることもその自慢のひとつです)の一つは、教室で生徒に「今度の日曜に、私の尊敬している小説家が福岡に来て話をするそうだから聴きに行く。アラキ先生の尊敬している人ってどんなひとだろう、と思うものは来い」と黒板に時間と場所を書き、当日行ってみると、たしか6人の生徒が会場でウロウロしているのでびっくりしたことです。
 日野啓三です。

 私の学生時代はベトナムで戦争があっていました。沖縄の嘉手納基地からは米軍の長距離爆撃機が腹いっぱい爆弾を抱えてベトナムに飛び立っていました。(「見に行ってやる」と出かけたそのときの感想は生徒にも意識的に伝えるようにしていました。ベトナムから帰って来たのであろう、ジャンボ旅客機よりも遙かに大きく見える、爆弾の重みから解放されたB52がフワァーっと着陸する姿はただただ「カッコいい」としか感じませんでした。)
 そうか、なぜ沖縄に行きたくなったのか、その動機のひとつを思い出しました。「銀座というところで呑もう」という話になって出かけたカンターバーは客がいっぱいで、横に居たのは「ボブ」と名のった戦地を離れて東京で休暇を過ごしているまだ10代のあどけなさをたっぷりと残している兵士でした。「明日はまたベトナムに戻るから今夜は飲み明かすんだ。」カタコトの英語であれこれ話しているうちにボブがお酒をおごってくれました。サボテンから作られているというテキーラでした。それを一口のんで咳き込んでみせると大喜びしました。
 そのあとのことです。われわれが立ち上がって料金を払おうとすると、バーテンダーが奥に固まっている女の子たちに日本語で大きな声をかけました。「カノジョたちィー、こっちに来て話し相手になってあげてヨォ。この子たちはもうすぐ死ぬんだからサァ。」
 あの強烈な記憶がなにかをきっかけに甦ったのです。
 どの新聞を読んでも、どのラジオを聞いても、ベトナムで何が起こっているのかサッパリ分かりませんでした。(当時テレビは持ちませんでしたが、もしテレビで映像を見ていたら、なおのこと分からなくなったはずです。坂口安吾の「新聞で信用できるのは日付と棋譜しかない」という言葉に出遭って、何か分からないことが出てきたら「安吾ならどう考えたろう?」と思う様になりました。──付け加えます。読解力とは相手の言っていることは信用できるか出来ないかの判断能力のことです。──)
 その頃、かろうじてベトナムで起こっていることのイメージを与えてくれたのが開高健日野啓三でした。(忘れないために書いておきます。さいごに、機会を捉えては生徒に読ませていた日野啓三の文章を付け加えます)

 講演が始まる前に紙が配られ、司会者が「あとで回収します。日野さんに質問のある方はそれに書いてください。」というので事情を書いて「高校生たちに何かアドバイスをしていただけませんか?」と書きました。(制服を着て会場にいる高校生は、ほかには修猶館と筑女だったと記憶しています)講演が終わったあと司会者がそれを読み上げ「日野さん、いかがですか?」と水を向けると「難しい注文だなぁ。」と言いつつ、世界中にあった通過儀礼の話をし始めました。「軍国主義の時代に育った僕たちの場合それが徴兵検査だった。それに合格したとき僕たちは〝大人になった〟と感じた。それは誇らしくあった反面、戦争に行く義務を強要されたことでもあったから身震いするような思いもした。いまの日本にはその通過儀礼に相当するものがない。だったら君たちは自分で自分のための通過儀礼を創りなさい。」
 日野さんのことばを自分なりに補足すると、「自分の生き方を誰からも強要されることない自由な時代とは実はどうしようもないほど生きづらい時代なんだ。だからその覚悟を持つところから始めなさい。」ということでしょう。それは、ベトナム戦争の取材から生き延び、帰ってきた日本で自分の寿命を意識しはじめた日野さんの次世代への率直かつ誠実な尊いメッセージだったと思っています。

 人間はほんとうに大人になる必要があるのかどうか。ひょっとしたらニンゲンという生き物は唯一自分たちを大人にならずに済むようにした生き物なのかもしれません。─(それが文明化の隠された目的だったのかもしれない)としたら中等教育はなんのためにあるのか?いまの私にはもはや皆目わかりません。分かりませんし、私はすでにそれを分かろうとすることを放棄しました。なぜなら60を過ぎてからの私は加速度を増しながら思春期に邁進しているからです。それは「希望」ではなく「願い」であるように感じています。その思春期は通過点にすぎず、目指されているのはきっとそのずっと先の「父母未生のとき」──なんじゃないかなぁ。
 50歳の子ども、60歳の子ども、70歳の子どもが生き生きと生活している社会が自由な社会だ、という考え方を否定する気持ちは、これから「75歳のチンピラ」を目指している私には毛頭ありません。ただ、それは「自分の生き方の責任をひとに押しつけない子ども」のはずです。

 2の話に移ります。
 この一年間はひたすら、徳富蘇峰が「日本人の自画像」と呼んだものを読み続けました。(さっそくですが、徳富蘇峰を「右翼だ」からと無視したら、たぶんこの国は見えません)2月末にどっと寝込んだのはきっと体だけでなく心も頭も自分の能力を超えたからだったろうと思っています。それから回復していま思うことは、「日本にリアリズムがあったのは西南戦争までだ。以後の日清戦争日露戦争もママゴトに過ぎない」ということです。(それは「気が重たい」などというものではなく布団から起き上がりたくなる思いでした。)もちろんまた気力が戻ってきたら続きを読むつもりですが、シベリア出兵も日中戦争も日米戦争もママゴトでした。敗戦後、日本はかろうじてリアリズムを取り戻しました。しかしそれは在日米軍の存在抜きにはあり得ないリアリズムでした。
 でも、きっと今、世界中で熱心にそのママゴトが行われているのです。いい年をした大人たち、超一流大学を卒業した大人たちががママゴトに熱中しているのです。だって、ママゴトのほうが熱中しやすいもの。リアルなことなんて面白くもなんともありません。(ちなみに、生徒たちに「こんなことを言う引退した先生がいるよ」と紹介してみてください。かれらは大喜びすると思います。)
 そのママゴトに熱中している国のなかには、世界を滅亡させるに足る量の核兵器をいつでも使用可能にしている国が幾つもあります。
 「ほんとは怖い○○」という本が流行ったのは、そんなに以前ではありません。
 そういう本が売れ始めた頃、すでにその社会はママゴト化していたのです。だってもともとの子どもたちはその童話に息づいている危険を感知するから「怖いもの見たさ」に駆られて読んでいたのです。読んで眠れなくなっていたのです。私の場合は嫌悪感が先だって子どもの頃は絵本をほとんど読みませんでした。私の最初の読書体験は漫画から始まります。──上の「危険」を、野蛮ともリアルとも読み替えてみてください。そして「ママゴト」をロマンと読み替えてみてください。わたしの乱暴な考えがほの見えるかもしれません。ロマンを生きたものにするためにリアリズムは決して欠かせないものなのです。
 2,のところで「ロマンの実現性」と書きましたが、訂正します。実現していないものは私の考えるロマンに相当しません。それはただの絵空事です。現実性が息づいているロマン。それが言葉の矛盾である限りにおいてロマンはあります。その現実性が「危険性」であり「野蛮さ」なのです。見たくも聞きたくも臭いを嗅ぎたくもない血なまぐさくキナ臭く耳を塞ぎたくなる現実性なのです。
 徳富蘇峰は自分の書く日本の近代史を「自画像」と呼びました。そんな「自画像」にいちばん近い絵を描いたのがレンブラントだと思っています。数年前に何十年ぶりかで会った学生時代からの友人が「絵を見て涙が出たのはレンブラントの自画像だけだ。」と言いました。(この男ははいまもオレの友だちだ。)
 坂口安吾はそれらのことを「シンデレラ」や「赤頭巾」を材料に書きました。(たしか「文学の故郷」という文章です)そのこと自体はべつに坂口安吾から教えられなくとも分かっていたつもりです。ただ、安吾を「この人はほんとうに偉い人だった」と感じたのは、「文学の故郷は絶望である」と書いたそのあとに「だが、大人の仕事は故郷に帰ることではない」と付け加えていたからです。正直に言います。わたしはレンブラントの自画像には感情を忘れて見入りましたが、安吾の文章のその一節に出遭ったときは泣きました。ひとりでこっそりと泣きました。
 その部分に共感したからでしょう、檀一雄安吾忌に「狼のぱくぱく食われる赤頭巾」と詠んでいます。

3,長くなりすぎましたので、あとは手短にします。
 K先生がすこぶる付きに有能であることは参加者全員異議ないと思います。しかしK先生がいなくなったあとの博工国語科に私は不安を感じていません。(職員室のことは分かりませんが)
 わたしも実は自分で自分を「有能だ」と思っていました。(ほんとうは、どうしようもないほど無能だったのですが)ただし、もし私がもうひとり職員室にいたらその学校は機能不全に陥るだろうということも分かっていました。組織とはそういうものです。それは私のけっこう悲しいリアリズムでした。
 だれが、どこで、どういう役割を果たしているのか、相当に優秀なリーダーでもそれを把握ことは出来ないと思います。その組織が生きている以上、その組成員(学校なら生徒も含みます)ひとりひとりが「有能」なのです。

 そのこととは別に、もし、もうひとりの私の存在に気づいたら、私は即座にその場から離れるでしょう。私に限らず、自分を見せつけられることに10秒以上耐えられる人って滅多にいるはずがない。
 
 つたない手紙はこのへんまでとします。
 今週末、友人たちと新潟・佐渡に3泊4日で出かけます。目的地はいくつもありますが、そのうちのひとつは鶴岡(山形県?)カソリック教会の黒い聖母です。ポーランドから寄贈されたのだそうです。
 その聖母の肌がなぜ黒いのかについては諸説あるようですが、私は印刷物ではじめてそれを見たとき、ただ「美しい」と思いました。それが日本にあるなんて、カソリックにとってはいまも世界はひとつの家族なんですね。
 その鶴岡の天主堂で何を感じるのかは、いっさいの予感を抑えきって向かいます。

 最初に書いた日野啓三さんの文章を紹介します。
 日野さんが福岡の高校生たちに「自分で自分の通過儀礼を創りなさい」と直接言ってくれたあとに書かれたものです。

 ※済みません。申し訳ないのですが、パソコンのなかをいくら探しても日野さんの文章がでてきません。たしか『変わらないもの』という題名だったと思うのですが。
 ので、今日は日野さんの文章を探しているときに(へぇ、オレはこんな文章を書いていたのか)と感じた「こくごのとも」がニンマリしそうなものを下につけます。


 小論文講座 

 作文をにがてな生徒がなんとなく好きだ。
 小学校のとき作文の宿題がでて、いっしょうけんめい書いて出したら、先生がみんなの前で読んでくれた。読み終わってから先生が言った。「みなさんは、この作文をどう思いますか? これは嘘です。小学生がこんなことを考えるはずはありません。みなさん、作文に嘘を書いてはいけません。」・・・・・そのときの先生の声まで、まだはっきり覚えている。〈大人ちゃこげんもんなとやな〉
 以後、作文はいっさい書かなかった。小学校のときだけでなく、中学に入っても、高校生になっても・・・・。文章だけでなく、自分の考えを人に伝えようとすることじたいが苦手になった。だから、思ったことを言える友達ができたのは、ものすごい幸運に恵まれたとしか思えないし、その延長として、いつのまにか、こうして文章を書くようになった自分が不思議でしかたがない。

 自分の考えていることを他人にわかってもらうということは、何とむずかしいことか。「いや、別にオレは、先生ごと、ややこしい作文ぎらいじゃないと。ただ、考えるとが面倒臭いだけなと。だいいち、普段は何も考えてとらん。」という者もいるかもしれない。でもね、実はね、そういう君もちゃーんと考えているんだよ。ただ、それを言葉に換えようとしていないだけなのだ。
 「いやいや、--人間は言葉なしに考えることはできない--と前に習うた。」と思い出した者もいるかもしれない。でも、それは間違い。勘違い。大違い。人間は言葉なしでも考えることができるのです。というか、その人にとってもっとも大切なことは、決して言葉を使って考えてなんかいないから。ただ、「オレは何を考えていたのかな?」と自分に説明するためには言葉にしてみるしかないだけなのだ。しかし、我々にとってもっとも大切なことは、言葉では言いあらわせないないこと、理屈では説明できないことだと、この国語教師は思っている。説明がつくことなんて、本当はその人にとって大したことではないのかもしれない。
 「自分は何も考えていない」「自分自身の考え方とかまだない」と思っている君も、本当はちゃんと考えを持っているし、自分なりのものの見かたを持っている。その「見かた」や「見えかた」を難しい言葉に直すと「世界観」と言います。でも本当は少しも難しいことではない。君が世界観をもっていなかったら怖くて道も歩けないし、鳥は自由に空を飛べないし、魚は水中を泳げないし、木は根を生やしたり枝を伸ばしたり出来るはずがない。生きとし生きるもの(生きているものすべて)は世界観を持っている。(いや世界観は言葉で出来ているんだ、という人たちも居るけれど、ほんとかなあ?)ただ、それらを言語化するのが面倒臭いだけだ。いや、それどころか、すべてを言語化しよう(言葉になおそう)とか思ったら気が狂いそうになる。私も君たちも十分に賢いから、決してそんなバカなことをしようとはしない。

 学生時代に、日本語を勉強してから腕試しに日本にきた夫婦の案内役をやらされたことがあった。おっかなびっくり引き受けたけど、やりはじめてみたら何ということもなくて、ふたりとも実に達者な日本語の使い手だった。その夫婦と渓谷に行ったとき、ご主人が、「美しい岩だ。」というと、奥さんが、「いや、あれは大きな石よ。」と言う。「ちいさな岩だ」「大きな石よ」と言い合っているうちに、夫婦喧嘩になってしまった。そして、「どっちが正しいか、日本人のお前が判定しろ。」
 「石でも岩でもどっちでもいいんだ。日本人はそんなことで、いちいち夫婦喧嘩なんかしない。」
 前置きばかりが長くなってしまった。けれど、「石と岩のちがいを説明せよ。」なんて課題を与えられたら、まず、やる気をなすくだろうな。「岡と丘と山はどう違うのか。」という課題だったら、「ほんとうにそれを考えたいのなら、お前が自分で考えれ。自分は考える気がないのならオレたちへの課題にするな。」とだけ書いて提出するかもしれない。

 言葉で説明するのがいちばん厄介なのは、たぶん「自分」だ。「身長170センチ。体重60㌔。17歳。」と書いても、たぶん自分を説明した気がしない。「高校生。野球部員。外野手。ベンチウォーマー。」「家族5人。住所、福岡市西区今宿、、。」いくら書いても、それは、「ある男子高校生」の姿をなぞっているだけで、自分自身にはたどりつかない。で、先生からも「なんや、これだけか? もっと考えれ。自分を見つめてみろ。」と怒られる。もともと嫌だったことだから、ムカつく。ウザい。ダルい。「オレはオレやからよかろうもん!」      
                              (次回につづく)                                       
 小論文講座〈Ⅱ〉 

前回の話
 われわれにとって最も大切なことは、言葉では言い表せないことなのではないか。たとえば、自分にとってたったひとりの「自分」を説明しろ、と言われても、「オレはオレやからよかろうもん!」と、つい言いたくなってしまう。

 そう「オレはオレ」「岩は岩」「石は石」なのだ。それが一番正確な言い方なのだ。
 と同時に、それでは何を説明したことにもならない。つまり、「説明する」とは、限りなくウソをつくことにちかいのだ。私たちは、「できるだけ本当にちかいウソをつく」ことを「説明する」と呼んでいる。
 ウソが嫌いな人は、ふつう黙っている。黙ったままでいることで、自分を、自分の誠実さを守ろうとしている。そして、ぺらぺらしゃべっている人を胡散臭(うさんくさ)く――どことなく疑わしく――感じている。
 もし、「何も言わなくても自分のことを分かってくれる」友達だちや家族がいたら、どんなにいいだろう。そんな先生がいたら毎日の学校が楽しいのに。――ほんとうにそうだろうか?――もし、「何も言わないのにオレの考えていることがわかる先生」がいたら、それこそウザくて、もう学校になんか行きたくなくなるんじゃないかな。
 ウソをつくぐらいなら黙っているほうがましだ、と思っている君も、実は、薄くて邪魔にならない程度のオブラートのようなウソにつつまれているから、安心して日常生活をおくっていられる。そのことを大人は「演じる」と言う。
 人間はみな「自分」を演じているのだと思う。その演技がまだ不自然な間は未成年。「自分」を自然に演じられるようになった者を大人と呼ぶ。
 こんなことを書いている61歳の教員も、別に生れつき教員だったわけではない。27歳のときに教員になって、なった以上はと、一生懸命「センセイ」を演じてきた気がする。一生懸命センセイをやりながら、心のどこかで、それ以外の「ほんとうの自分」がありそうな気がしていた。でも、あるとき気がついた。AさんやBさん、C君やD君がそれぞれ見ている「自分」は全部ほんとうの「オレ」なのだ。それらを全部ひっくるめたものが、「ほんとうのオレ」なのだ。
 「半端なウソやらつきたくない」と思っている人も、「だれも分かってくれんでもいい、オレはオレたい」と思っている人も、実はそういう「自分」を演じていることに変わりはない。
 じゃあ、その自分。人が見ている自分。先生が思っている自分、社会が期待している自分ってどういう人間なんだろう?
 ものごとは全部、同時進行ですすむ。同時進行だから、ひとつひとつが全て100パーセントなんてことは最初からありえない。
 けっして、100パーセントを求めるな。60パーセントで十分だ。60パーセントだけ自分の考えをまとめよう。(言葉にしよう)それができたら大成功だ。その考えのまた60パーセントぶんだけ人に説明できから大成功。0.60×0.60=0.36パーセント説明できたら大々成功なのだ。
 さあ、今日も「小論文」

追記

 最近思うこと。

 日本語でものを考えるときに必要なもののひとつは、「口ごもる能力」であるようだ。口ごもることによって、われわれは考えるための時間稼ぎをしている。その「時間をかけて考える」ことが大切なのだ。考えることに時間をかけない「頭のいい人」たちとは、できるだけ疎遠(そえん)にしていたい。じっさい、口ごもることがにがてな人は考える能力じたいが劣る気がする。
 もともとの日本語の論理は西洋の論理とはずいぶん様子がちがっている。「たゆたふ論理」「やすらふ論理」(「たゆたふ」「やすらふ」の意味がわからない君は古語辞典をひきなさい。)で昔の日本人はものを考えていた。日本人が西洋流の直線的論理でものを考えるようになって以来、この国ではロクなことしか起こってはいないんじゃないかな。
          

 今日の追加です。

 クリア・ファイルをめくっているうちに芥川賞を受賞した直後に朝吹真理子が新聞に寄稿した(日付は2011、2,15)『書くこと──静かなる梱包』と題された文章が出てきました。
──「言葉」を用いてつくりあげたものが何であるのか、どういう「意味」を持つのか、そうした問いは、書き手に問われてもわからないことのように思う。(私は)署名をし終えたら、後は何も言わず、そっと世界に差し送りたい。
 その中に「敬愛しているアーティストのアトリエをたずねた」話が出てきます。「作品を無言でつくりつづけることが最も厳しい選択であると思い知った。そして真のエレガンスというのは野蛮さをおおいに孕むものであることも」
(いったい誰だろう?)
 あれこれネット検索しているうちにYouTubeで「きっとこの人だ」と思う人物に出会いました。
 マニュエル・ゲッチング
 その音楽を聴いていると、ところどころ意識的に滞ります。「こんな音楽があったのか。」
 私が60を過ぎてやっと気づきかけていることに、彼女はごく若くして気づいているらしい。
 驚きでした。
 でも彼女に限らず、もう小説を読むことはないんじゃないかな。加速度がついてからは信じがたいほどに「忙し」くなっているのです。



最近知った男(だと思う)の俳句を付け加える。──このスゴいヤツはどこのどいつだ?

郷恋しましてや祖母の蓬餅       『玉子酒』不詳
黄水仙優しき日々のありしこと 同
街角によく似た人や春兆す 同
風鈴を買いて新たな風を待つ 同
雨になり首かしげたる案山子かな 同
独り分冷えたるを食う根深汁 同

今山物語7

 ホーキングの宇宙観にふれたときに思い出したことなんだけど、この話は書いたことがあったかなぁ。
 同じ頃、「原始人類」にも興味を持っていた。
 南アフリカ出身で、若い頃の恩人だったヴァン・デル・ポストのどこまでが現実かわからないようなアフリカの話に惹かれていたことも影響していたのだと思う。
 たとえば、『カラハリの失われた世界』に出てくるネイティブ、ブッシュマンのことわざ。
   「人間は、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。」
 ──それが正しい。夢野久作ドグラ・マグラ』の主題もそれだった。(学校で知り合い、のちに河合の名物教師になった男から「ドグラ・マグラを読んだか?」と訊かれたことがある。「うん。」「最後まで読んだか?」「うん。」「ふーん。ドグラ・マグラを最後まで読んでまだ普通でいれらる男はアラキさんでやっと二人目だ。」本人は頭がおかしくなりそうになって途中で投げ出したのだそうだ。)──
 ヴァン・デル・ポストのお婆ちゃんは、自分が開拓した土地を息子に譲って、さらに奥地の開拓に孫を連れて出ていった。その時、忙しいお婆ちゃんに代わってヴァン・デル・ポストを育ててくれたのがブッシュマンだったので、しぜんにブッシュマンのことばも覚えたという。なお、お婆ちゃんは、そこの開拓が済むと孫に譲り、自分はさらに奥地に現地の従業員たちを連れて入っていったとあった。

 すでに人類の祖先はサルとの分岐点にまで遡ることができるようになっていて、「一千万年以上前の人類の化石を発見した」と発表した学者もいるらしい。
 その過程で、南アフリカ最南端の洞窟から2種類の人類の化石が同時に見つかった。
 1種類は草食系。もう1種類は肉食系。
 男子校だから、生徒にその話をして、「それを、2種類の人類が協力して生きていたんだと考えた学者たちもいるけれど、私はそうは思わない。・・・どう思っていると思う?」と質問したら、「草食系は肉食系から食べられていた。」
 うん。そうだね。草食系は肉食系のエサだったと考えるほうが自然だな。
 ところで、われわれは、どちらの子孫だと思う?草食系?肉食系?
 生徒は黙っている。
 じつは草食系なんだ。自分の奥歯を確かめてごらん。ひらたいでしょ?ひらたい歯は草をすりつぶすための歯だ。われわれは牛やシマウマと同じ歯をもっている。草食系人類のほうが生存競争に勝ったんだ。
 生徒がなんとなくほっとしたような顔になる──というのはたぶん創作。

 肉食系人類のエサだったほうは草の根(いまで言う根菜類)を食うことで生き延び、繁栄を遂げた。それなら無尽蔵にあるし、葉っぱよりは栄養価が高いし、競争相手もほとんど居ない。(イノシシは根菜類に目がない。山小屋の庭は毎年のように掘りくり返されている。)
 
 ヴァン・デル・ポストによると、ブッシュマンの男たちは狩りをする。というか狩りしかしない。男たちが出て行ったあと女たちは棒きれを持って出かけ、木の実や根菜を集めて子どもたちと男たちの帰りを待っている。そして、たいていは手ぶらで帰ってきた男たちと食事をする。
 じゃあ男たちは女たちに寄生しているだけかというと、そうではない。かれらはカラハリ砂漠を、担いでいける範囲の簡素な生活用具だけをもって移動しながら生活している。そして或る地点にくると、男はストロー状のものを地面に挿して根気よく吸いつづける。すると筒の先から水が湧き出てくる。「今日はここにしよう」
 生きていくうえで最も必要不可欠なものを探り出し、家族に与えるのは男の役目。
 ──人間は、自分が知っていると思っている以上のことを知っている。──
 
 もちろん我々は牙も持っているから、肉食系と草食系のハイブリッド体、雑食系ということになる。両者は交配が可能な範囲の違いでしかなかったことになる。その違いを「文化」と呼ぶかどうかは、ほとんど好みの問題なんじゃないかな。
                                  2018/01/30

今山物語6

 やっと越知彦四郎の碑を見つけた。
田中健之『靖国に祀られざる人々』のなかに、玄洋社が東公園に建てた福岡の変の供養塔は現在、平尾霊園に移されているとあったので、ひょっとしたらと行ってみた。駅から歩くこと一時間半。谷間の霊園の一画にその「特別区」があった。
 その当時たまたま警察に奉職していたために同志の越知彦四郎を斬首した篠原藤三郎は直後に辞職し、報奨金5円を石工に渡して碑を作らせ、そのまま西南の役に参加しようとして捕縛された。役後釈放された篠原は中国に渡り、さいごは朝鮮で死亡したらしい。その間、帰郷することはなかったのだろうと想像している。
 付け加えると、玄洋社頭山満たちは萩の乱に参加しようとして逮捕され、西南の役が終わるまでは獄中にあった。
 もともとは「灯籠のような形」のものだったと書かれているから、碑の上の白い四角部分は移転したときに付け加えたのだろうと思う。
 刻まれている歌は篠原藤三郎、
  散る花としれど嵐のなかりせば春の盛を友と競はん
 越知彦四郎の辞世
咲かで散る花のためしにならふ身はいつか誠の実を結ぶらん
 に呼応したのだろう。

 『靖国に祀られざる人々』には、印象的な人物や話がいくつも出てくる。

 中野正剛の葬儀に東条英機が花輪を贈ろうとしたとき、緒方竹虎が「どこに置いてもいいのなら受け取る」と返答したところ、花輪は届かなかった。

 三島由紀夫の「少年期の感情教育の師」だったという蓮田善明は応召し、敗戦を迎えたジョホールバルで連隊長を射殺したあと自殺したとある。

 昭和13年に刊行されて以来130万部売れたという広島の人杉本五郎大義』で多くの部分が伏せ字になっていた17章には次のようなことが書かれていた。「かくして今次の戦争は帝国主義戦争にして、亡国の戦と人謂はんに、何人がこれ抗弁しうるものぞ」
 その前に引用されている『大義』の一節。
「汝、我を見んと欲せば尊皇に生きよ。」
 その「尊皇」を「世界」に置き換えたら、そのままハイデガーになる、気がする。
 近代とは、多くの人々が、自分の「生えた場所」から引っこ抜かれて別の場所で生きることを強要された時代だった。カミュが書こうとした通り「裸」だったかれらは自分が根を生やすべき土壌を性急に求めた。そういう時代だったんだな。

 大隈重信は、爆弾を投げつけたあと自殺した来島恒喜の命日には毎年花を届けたそうだ。

 秩父困民党事件から脱出後、変名して北海道に渡った井上伝蔵は野付で高浜某と出遭い、その娘と結婚し、子ももうけた。かれは死期が迫ったとき初めて家族に本名と自分の履歴を明かした。妻は内縁の夫との婚姻届けを、つれ合いの死後に提出したそうだ。
 井出孫六が『秩父困民党の群像』という本を書いているのを知ったので、読んでみる。
『アトラス伝説』以来。

今山物語5

 あらためまして明けましておめでとうございます。
 ことしもさっそく郵便爆弾です。
 例年通り、開くもよし、屑籠にポイもよし。よしなにお取り扱いください。

 年末に、NPO「ホップ・ステップ・ハッピー」から、自分のニックネームをつくれと言ってきたので、「ポエター(POETER)にしてくれ」と頼んだ。なぜPOETERを名のりたいか、というのが新年さいしょの話柄です。

 話の端緒は「ことばのインフレ」のことです。じつは、これは、大学時代に林達夫先生から聞いたこと。林達夫先は、ワクシに「知性」というものの具体的イメージを最初に与えてくれた方でした。あの大学が荒れていたときに「ぼくはどうせ書斎派ですから」と公言していた人は、戦時中には次の様なことを書いていた。
 「ぼくは駐在所の前で〝戦争反対〟と叫ぶ様なことはしない」
 学生に向かっては「ぼくが編集に関わっていたころの〝世界〟と今の〝世界〟を混同しないでください。」その意味が分かるようになったのは随分あとになってからだった。

 昨年、十数年ぶりに熱心なクリスチャンの後輩とあった。東京に引っ越すことになったので、その前に会っておきたかったのだと言う。
 彼女の話には、二言目には「愛」が出てくる。どうやら彼女の見るワクシはその愛に満ちた人間らしい。
 「お前ね、〝愛〟〝愛〟と連発するけど、連発しすぎたら何を言っているのか分からなくなる。その〝愛〟を別のことばに言い換えてみようとせんか?」
 怪訝そうな顔をするので、「江戸時代に日本に来た─正確に言えば織豊時代か。それより少し前か─宣教師たちでさえ〝お大切〟と言い換えとろうが。」やっとこっちの言うことが分かってクシャクシャの笑顔になったが、きっと彼女はこれからも「愛」「愛」と言い続けることだろう。

 明治維新直後の一円は今の一万円くらいに相当する、と生徒には説明していたけれど、デフレの時代があったとはいえ、今では数万円というほうが適当な気がする。一円は使われ続けているうちに数万分の一の価値に下がってしまった。
 言葉もまた使い古されていくうちに、その使われだした初期の重さや厚みを失っていく。
「君たちの使っている〝自由〟や〝平和〟と、それを口にし始めた先人たちの〝自由〟や〝平和〟を混同してはいけない」
 林先生が学生たちに言いたかったのは、そういうことだ。最初のころの「自由」も「泰平」も生血のにおいがぷんぷんする言葉だった(はずだ)。
 だったら、われわれは常に新しい別のことばを使うことで言葉の鮮度、生命力を維持しなくてはいけない。
 ワクシにとっての「文学」とは、そのようなものだった。「いい?文学って小説だけのことじゃないんだよ。」

 たとえば「平和」
 それを別なことばに替えるとするなら、、。国語教師は本気で考えた。「安穏」「平穏」。
 「もともとの中国語の〝平和〟ってね、敵対勢力や異民族全体にブルドーザーをかけるようにして平らにならしてしまうことだったんだよ。〝平成〟もまったく同じことだった。」でも当時はそこまでしか頭が動かなかった。
 そうして今や、満州族やモンゴルはたぶんほとんどが漢名を名のるようになった。いずれはウィグルやチベット族も漢名だらけになるだろう。──平成為(な)る。──

 いまなら「平和」を「無事」と言い換える。
 なにごとも起こらないこと、が「平和」なんだ。
 「今年こそ世界が無事でありますように。世界に何事も起こりませんように」
 ということは、たとえば飢えや寒さの恐怖にさいなまれている人々の現状も、突然の死や家族離散の予感を持ち続けている人々の見えない明日や、アイデンティをかなぐり捨てなければ生き延びることはかなわないとみずからに強いようとしている人々の断念や、自分の抱いている考えどころか感情まで周囲には悟られまいとしている人々すべてを「現状維持」であれと願っていることになる。「かれらの飢えや、死や家族離散や、アイデンティティの放棄などの恐怖がことしも続きます様に。」
 ワタクシもまたそういう「無事」をどこかで期待している。

 「愛」の話にもどる。
 以前、物質とは力の塊のことであり、その力には表の力と裏の力がある。物質はその表の力と裏の力のハイブリッド体なんだが、われわれはまだ、いやたぶん永久に裏の力を知ることなく終わる、と言ったことがある。──宇宙はその二つの力のバランスが崩れて生まれた。そしてそのバランスのいびつさは次第に拡大している。──べつに証拠もなにもないけれど今もそう思っている。「宇宙はいずれ収縮し始めてまたもとの無にもどる」というホーキングは学者から神秘家になった。

 後輩には言わなかったが、ワクシは「愛」もまた物質同様にハイブリッド体にちがいないと、ほとんど確信するようになった。
 愛が表、虚無が裏。
 虚無の裏打ちのない愛に生命力──この「生命力」も使い古されてしまって何を言い表しているのかまったく分からなくなったから言い換える──生殖能力はない。ミケランジェロピエタがなぜ人々を打つのか?そこには「虚無の裏打ち」があるからだ。生殖力に満ちているから今も人々はロンダニーニのピエタに会いにいくのだ。

 いい正月だとのんびりしていたのに、ニュースを見て一気に不快になってしまった。
 ローマ法王は今年、核廃絶を世界に説いてまわるという。(たぶんその真意は核戦争の危機を回避するために人々を動かそうとすることにある、とは思うが)
 かれは、核廃絶は不可能だと多寡をくくって安心して核廃絶を説く。
 万一、核兵器が地上からなくなったら何が起こるか?野心家たちは安心して紛争や戦争を起こし放題に起こす。そして国際機関(そのとき国連がまだ機能しているとも思われないから、そういう呼び方をしておく)は、世界の何処かで核兵器の密造が行われていないか血眼になって「査察」をすることになる。警察国家という言葉があるが、世界はもう警察世界になる。それは、オーウェルの描いた悪夢そのままだとワクシには見える。いや、核兵器を手にすることで世界を支配できると考える学者や政治家の登場は単純きわまる未来漫画のさらなる戯画にすぎない。
 宗教もまた「虚無」を内包していなければ宗教としてさえ在り得ない。(バチカンが、宗教よりは政治に重きを置く様になったことを一概に否定する気はないが)表向きの教義の裏にある虚無の厚みがその宗教の濃さをつくる。
 仏教者の言う「無」も「虚無」と言い直すだけでおののきが幾らかは甦ってくるのに。
 仏教者たちは「無」や「空」を、社会学者たちは「平和」を、そして多くのインテリたちは「理性」を祭壇の上の干からびた亀にしてしまった。
 
 言葉はときどき(世紀単位でいいから)更新されなければ最低限の役割をも果たし得なくなる。文学、なかんずく詩のほんとうの使命はそこにある。もともとの詩はそのようにして我々の前に現れた。

 70歳の年のはじめに思い至ったことです。ただ思うだけ。
今年米寿だという恩師から賀状の返事が届いた。
 「秋に上高地に行って冠雪した山々を見つつ、晩節を汚すことなく全うしたいと思った。」 東京の同級生たちに「米寿祝いのときは声をかけてくれ」と頼む。
 自分はただ「読み部」「思い部」として残りの9年を全うしたい。

            2018/01/04
 

今山物語4

 初参加の同級生クリスマス会(会費千円)は楽しかった。
 ワイワイやっている内に、訃報が載っていた葉室麟の話から村上春樹カズオ・イシグロに話題が移って「読んだことないけど、どうなん?」とふられた。「うん、どっちも読んでみたけど、?オレは読まんでいいな?ち感じた。知能指数の高い人たちは自分の頭でゲンジツを作り上げて、その頭の中のゲンジツと向き合うとるようなところがあるっちゃ。」「そんならアタシたちは大丈夫やね。」「うん、オレたちは大丈夫。」

 舌なめずりをするようにして見てきたBBC『リッパーストリート5』が終わった。主要登場人が主役のリード以外は全部死んだので、もう『6』はない。現実離れした無茶苦茶なストーリーだったけどハチャメチャに面白かった。サンキューでした。

 「意識的にそれを提示しようとする真面目なものの中にあるものよりは、荒唐無稽で徹底徹尾の娯楽ものの中に潜んでいる幽かなTruthのほうが輝いている」
 60ぐらいになってから切実に思うようになったことです。──定年退職後の県下最低ランクの県立高校で出会った生徒たちには「かぐや姫」にかこつけて言ったことがある。「西洋人にとって神様というのは?ヘヘーッ?と仰ぎおがむ存在だった。でも、われわれの先祖の知っている神様はちっちゃくてちっちゃくて、自分たちが大切に守ってやらなきゃという気持ちがわいてくる存在だったんだよ」彼らが嬉しそうな顔になったから、自分の言ったことが正しいかどうかなんて、どうでも良かった。──さっそく横道に入るが、そういうことを考えるようになったきっかけは、アイルランドで出会ったキリスト像。おどろおどろしい磔刑像とはまったく逆の、まるで子ども向けの漫画のような可愛い姿だった。──
 勘九郎野田秀樹の歌舞伎がそうだった。(息子たちが演じるものが近くに来たら必ず出かける)権太楼の落語もそうだった。(あの絶品の『雪椿』はも一度聞きたい)『ヴォィツェク』もそうだ。ルバッキーテの『フランク』も、そこには何も「意味」などない。ただ音楽というTruthがある。
 ことし最後にしたいのは、そんな話です。

 『リッパーストリート5』が、廃墟で発見して抱きかかえた瀕死の少年の耳元で、リードが「Don't afraid. You are not alone. I am here.」と囁くところから始まった、という報告は前にした。ほっとした表情になって目を閉じた少年は孤児院から脱走していたことが分かったところから事件(Case)が始まる。……すみません。今日はやたらと英語づいています。
 その過程で警察署に訪ねて来た余命いくばくもない中年の街娼から、孤児院に入れたまま行方不明になった息子の捜索を依頼される。Justiceを追求するためにはIllegalな行為も敢えて辞さないリードは孤児院の児童虐待を暴くが、街娼の息子はすでに死体だった。
 間に合わなかったことを謝るリードに母親は「謝る必要はない。私はあなたに感謝している」という「だって、あの子はやっと安らかな眠りにつくことができた。ーUnder the tree. among the birds.ー」
 それを聞いたリードは彼女に、自分の妻が夫を憎みつつ孤独のままに死んだことを告白する。
 それを聞き終わった母親はリードに「もう、あなたは許されている」と優しく言う。
 その字幕は読めても言葉が聞き取れず、録画を見直したら「You were forgive.」と言っているとしか聞こえなかった。しかも「フォーギブ」は「フォーギフ」。乏しい知識ではあるが、末尾のVをFと発音するのはアイルランド訛りのはず。
 ──そうか。彼女は受け身形も使いこなせないような、まともな教育を受けられない生い立ちだったんだ。
 なんという小憎たらしい演出!
 その、まともな教育を受けられず、まともな職業に就けなかった人間のわずかな教養の中にこそTruthが輝いている。(あの方もきっとそういう育ち方をしたのに違いない)
 ──50代のときに読んだ堀田善衛『城館の人』でもっとも印象的だったのは、モンテーニュの従僕の話だった。その従僕は流行病で家族が次々に斃れたびに穴を掘って埋葬した。そして最後の家族を埋葬し終わると、その横にもひとつ穴を掘り自分が入って自分で土をかぶせたまま動こうとしなかった。「彼は私が読んだ古今のどの哲人よりも崇高だった。」とモンテーニュは書き残しているという。でも、その従僕はただ、ひとりだけ取り残されるのがイヤだったんだ。
 あの方の孤独さは如何ばかりだったろう。
 ミケランジェロピエタ像を見るたびに思うが、あれは悲しみにくれている像ではない。あの姿と表情には、やっとまた我が子を取り戻すことができた女の安息が表現されている。

『リッパーストリート5』では、ずっと未解決だったユダヤ人数学者(かれは、「数学は、無秩序に向かっている宇宙に反している」ということを数学的に証明しようとしていた。──典型的な文系的発想──)の殺害犯人が、同じリトアニアからの難民だった警察署長(危機を感じてリードを殺人犯として絞首刑寸前に追い込んだ当人)であることを立証する。数学者は自分の「Truthの証明」に夢中で、他のことには全くの無関心だったのに、署長は避難する間に自分が犯したことが告発されるのを未然に防ごうとしたのだった。
 町にJusticeを取り戻すために憎み合いながらも命を預け合った友人たちはみな故人となり、自分の命に代えて救い出した娘は夫と去って行き、リードは全てを失う。そして、彼は、もっとも大切なのはTruthでもJusticeでもなく、Trustだったんだということを悟る。
 別にそんなセリフがあったわけじゃない。
 リードはアメリカに戻った男が、おぼれかけている子ども二人を助けて死んだ、という手紙を弁護士から受け取る。そして手紙の最後には、「遺言に従い、ささやかなものを送ります」とあって、封筒を逆さまにすると机のうえに小さな指輪が無造作に転がりでる。その指輪が時価数億円することは、「1」から見ている者だけが分かる。
 そんな終わり方でした。

 同封する新聞記事をコピーしにコンビニに行った帰り、一円玉を二つも拾った。わざわざ届けに行くほどのこともないので、そのまま財布に。・・・これで今年の宝くじもスカだな。
                         2017/12/26
 

池田紘一先生へ

 何から書いたら良いのでしょう。
 注文していた『赤の書・テキスト版』が届きました。
 でも、それを開いたら、いよいよ書けなくなりそうですので、その前にお手紙を差し上げます。内容はバラバラになります。ご容赦ください。

 先生のお話を聞きながらハンナ・アレントを思い出していました。
 彼女を主人公にした映画が作られて以来、いまはちょっとしたブームで、先日は新聞の書評欄に彼女の『人間の条件』についての日本人が書いたものが紹介されていました。その冒頭は「読みづらい。」だとあります。でも、私にとっては「読んでも分からない。」でした。(これは失敗作だな。──自分の理解力不足とは思わない所がアラキ流です。──)分からないまま、ただ活字を追いかけていたように記憶しています。それでも最後まで追いかけ続けたのですから、何か惹きつけて離さないものがあったのです。
 読んでから20年ほどたって、彼女が言おうとしたことは、「自然を創ろうとする非自然的実態が人間なんだ。」ということだったんじゃないかなと今は思っています。(私なら「創ろうとする」ではなく、「産もうとする」になると思いますが。)
 その「非自然的実態」と、先生の図のなかにあった「ペルソナ」とが私の中で符合したのです。とすると、「自己」が私のなかに浮かんだ「自然」になりそうな気がします。
 「自然を思い出せ」。
 その「自然」とは、言葉以前のものです。
この頃思うことのひとつは、ドイツ語の「世界観」って言葉で出来ているんじゃないかということです。でも、わたしたちの世界観には言葉の入る余地はありません。人間だけでなく、あらゆる生き物は世界観を持っています。もし、鳥が世界観を持っていなかったら、あんなに自由に空を飛ぶことは出来ないはずです。
 
 最初にあった、イギリス文学とフランス文学とドイツ文学の比較はしっくり来ました。といってもドイツ文学にははなはだ疎いのですが、DVDを買った『ヴォツック』はまさに「分からない」だと思います。ロシアの『ボリス・ゴドノフ』にも同じことを感じます。
私はテレビが大好きで、見ない日はありません。ただし見るのはスポーツ番組とBBC刑事物が大半です。その刑事物で19世紀末のロンドンを舞台にしたものは、いったん終わったのに、また続編がはじまりました。本国でも人気があるのだと思います。その続編の冒頭は、余命幾ばくもない娼婦から行方不明の子どもの捜索を依頼された主人公が仕事を放り出して探し出す話でした。
 そうか、その娼婦に会う前に主人公は、廃墟で息を引きとりかけている少年を見つけます。その少年を抱き起こして、耳元で、
──Don't afraid. You are not alone. I am here.
 と囁きます。少年はほっとした表情をして目を閉じます。
 もう、それだけで「ジーン」です。
 
 娼婦の子は死んでいましたが、その遺体を母親に渡すことができました。
 生きて渡せなかったことを謝る主人公に、埋葬を済ませた母親がお礼を言います。
──やっと、息子は安らかな眠りにつくことができた。Under the tree. among the birds.
 それを聞いた主人公は、自分が妻を孤独のままに死なせてしまった過去を告白します。 聞き終わった母親は、
──You were forgive.
 と言ったように聞こえました。
 でも、中学校のときに習った知識では、それは受け身形になっていません。その母親はそんな育ち方をした人間として描かれているのでしょう。
 「きっとサンタ・マリアも似たような境遇だったんだろうな。」
 BBC犯罪物を見飽きない理由です。

 わたしたちの世界が全きものであるためには、わたしたちの言葉は不完全なままでなければならない。──このごろ本気で思いはじめていることです。──不完全でありつづけるためには考えつづけるしかない。
 
 「偉そうなことを言うな!」と言われるのを承知の上で、そう思います。

 『赤の書』の絵を見ながら二人の日本人画家を思い出しました。
 一人は「大昔、人類が最初に意識した感情は〝悲しみ〟だったのではなかろうか。」と書き残した清宮(せいみや)質文。おもに木版をやっていた方です。下に画集から撮影した『吐魯番トルファン』をつけておきます。実物は横幅が12〜13㎝でしたから、下の倍まではなかった気がします。

 図柄以上に、色の取り合わせにユングと近いものを感じたのだと思います。と書いたら、図柄もまたどこかユング的な気がしてきました。
 あと一人は、イタリアで出会ったフレスコ画を油彩で再現しようとした秋元利夫。但し、実物を見たことはありません。もし見たら、触りたいという衝動にきっと襲われそうです。それぐらい(専門用語がちゃんとあるのでしょうが)画面の地肌が好きなのです。ただ、それに比べて図柄にはピンと来ないものがありました。
 でも、下の絵はユングそのままなのではないかと感じます。


 1985年に40歳で亡くなっていますから、『赤の書』を見る機会はなかったのではないでしょうか。でも、きっと、ユングや有元以前からあった図柄なのでしょう。
 
 「書かねば。それはあの講演を聴いた者の義務だ。」と思いつつ、やっと書けました。

今山物語3

 南原講演の栩木先生による要約を(ざっくりとだけど)読んだ。
 読んでいて、めったやたらに気が重たくなった。
 若いころなら、きっと昂揚感に満たされたに違いない。でも、いまは、ひたすら重苦しくなる。

 南原繁もまた(当然のごとく)進歩主義者だったんだな。それを「時代の制約」として片づけていいのか、という無力感。
 社会主義に限らず進歩主義一般はいずれ世界の画一化を目指すことを、もう我々は知っている。世界中が自由であることを求めることと、世界中を画一化しようとすることは同じ動きなんだと気づくと同時に、世界中が自由であるとはただの無秩序な状態にすぎないとも気づいてしまった。
 でも、進歩を求めない科学ってあり得るのか?
 いや、進歩を拒否して生きることなんて現実的にわれわれに可能なのか?

 南原繁の言っていることが間違っているのではない。ほぼ100%ただしい。
 しかし、もう、ほぼ100%ただしいことは、実現性はないに等しいと知ってしまっている。
「もっとも宏大な理念でさえ、それを実践に移すためには、偏狭さと排外主義の力を借りるほかない。」というレオン・ブランシュヴィックの言葉を教えてくれたのは、レヴィナスだったかブランショだったか。そのレヴィナスは次のように書く。
 「〝歴史的理性〟は、あとになってから(絶対的なものを)照らし出すのである。遅れてやってくる明証性、それがおそらくは弁償法の定義なのだ。」
 そのレヴィナスは自らは社会主義者であることを公言する一方でフランス軍に志願し、ドイツの捕虜となったことで生きながらえた。その間、レヴィナスの家族を守ったブランショは自らを〝王党派〟と呼んで憚らなかった。そのブランショについて語る時、レヴィナスは謎のように言う。
「真理が彷徨の条件であり、彷徨が真理の条件である。・・これは同じことを前後入れ替えて言っているだけだろうか?われわれはそうは考えない。」──この中の〝われわれ〟が、つまりはユダヤ教徒なのだろう──

 申し訳ないけど、ブランシュヴィックやレヴィナスブランショのほうが、現実と切り結ぶことを恐れなかった気がする。

 南原繁にして、どうして、そういうことが起こるのか?
 〝言葉〟のせいじゃないかな。
 彼の使う言葉はあまりにも清潔だ。しかし、清潔な言葉であらゆるものを包含している歴史や現実を語ることが可能だとは思わない。と同時に、清潔じゃない言葉を耳に入れたがらない人々が大勢居ることもわれれはすでに知っている。
 ハンナ・アーレントは「人間とは何者か?」を考察しつづけてほとんど沈没しかけたとき、「こういうことは論文の対象ではなく、文学の役目なのかもしれない。」とつぶやいている。ひょっとしたら、そうなのかも知れない。
 須賀敦子の『シゲちゃんの昇天』は送ったことがあるよね?
 あのシゲちゃんの最後の言葉「人生ってもの凄いものだったのね。アタシたち、そんなこと何にも知らずに胸を張って歩いていた」という言葉が突き刺さってきたのは、上のような事情による。たぶん今も、何にも知らないおかげで偉そうにそこら辺を歩いていられる。
 ヴァルター・ホリチアのことばを引用していたのが誰だったか、ひょっとしたらフォールかも知れない(全部フランス人じゃないか)けど忘れた。でも、下の言葉に出くわしたときの何か救われたような気持ちはいまも残っている。
 「科学研究はリアリスティックな言語で行われる。科学者はすべての人に受け入れられる結果を得ようとしているのであって、もし滅菌した言語と厳密な論理だけを採用していたら、科学者はどこへもたどりつけなかったはずだ。」
 わが恩人のひとりだけど、ホリチアがどんなことをし、どう生きたのか、丸っきり知らないままです。
 なんだか、また自分に宿題を作っちゃった。