唐人形のモデルを見かけた

2100/9/19
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 昨日、報告し忘れたことが二つ三つあるので追加。
 まず第一に、太秦に行く途中の地下鉄のなかで正面に坐った女性は、唐人形のモデルだったんじゃなかろうかと思うようなひとだった。顔立ちも体つきもふっくらとして、食い入るように見たいけれどそうも行かなくて困った。
 10数年前か、修学旅行で西安に行ったとき、宿泊したホテルの土産物売り場で唐人形の模製を見つけた。模製に決まっているけど、いましがた掘り出したばかりであるかのようなほんのりとした明るさがあった。金額は約2万円。「買おう」その日はもう閉店していたので、明朝早起きして買うつもりでいたのに、翌日は朝から大騒ぎになって、買い物をするどころじゃなかった。いまでも悔しい。便覧なんかに載っているあの可愛らしい童女かと思われる人形だ。その人が目の前にいる。もうそれだけで、京都まで来た甲斐があったと感じられた。
 ふたつ目は、児玉桃のピアノ(チェロのフランソワ・サルクも、なんだか「日本人の演奏みたいだ」と感じる不思議な感性の持ち主だった。きっと世界には、まだまだ知らないすぐれた演奏家がたくさんいるに違いない。)に聞き惚れていたときに思ったこと。
 キリスト教イスラム教がそのユニバーサルさを喪って久しい。いまやそれらは相対化されてしまい、そのことによって世界はぎすぎすしてしまっている。(仏教はそのマイナーさのせいと、一神教ではないがゆえに、相対化をまぬがれている。その果たす役割はこれから広がっていくかもしれない。)が、世界が狭くなった分、それもまた仕方のないことなのかもしれない。そのなかで、音楽はかろうじてユニバーサルさを保ち続けている。
 たぶん、これからいよいよ、世界を維持していこうとする努力にとって音楽(という言語)の比重は重くなっていくのだろう。そういう意味で、いつかきっと権代敦彦の『カイロス』は放送されるはずだから、その時は聴いてみてください。たぶん、世界のだれが聴いても、オレと同じことを感じると思う。
 三つ目。建仁寺の庭をみていると、枯山水もいいなと思った。拾翠邸の池も豊かだったが、建仁寺の庭も広々としていた。その両方のものをもっていることが、この国のありがたさなのだろう。この前の連句のとき、どちらかのあとに「枯山水をわれは好まず」とつけようかと思ったのだが踏みとどまった。踏みとどまっておいてよかった。
 付け足し。今回のなんとも贅沢きわまりない旅行のなかで、唯一目的を果たせなかったことがある。それは、餃子の王将のニラレバイタメを食うチャンスがなかったことだ。なんで京都でニラレバイタメなんだろうと自分で不思議だったが、今日テレビを見ていて解決した。餃子の王将は京都で生まれたのだそうだ。

別件
 中谷美紀の『猟銃』(チケットは手に入れた)を奨めてきたI氏の手紙のなかの一節。
 「未完におわったマーラーの十番は『草枕』の世界だ。」
 いつか聴いてみましょう。