今山物語

 主人公リードはリッパー・ストリートでもとの部下の下に入って働くことになる。
 ロンドンに同道した娘は貧民街でボランティアを始めるが、ある廃墟に入ったとたんに悲鳴をあげる。心配してついて行っていたリードが飛び込んでいくと、息を引き取りかけている男の子がいた。リードはその子を抱きかかえ 「ドント アフレイド イット。 ユー アー ノット アローン。 アイ アム ヒア。」と囁く。それが分かった男の子はほっとした表情になり穏やかな顔をリードの胸にあずけて息を引き取る。
 そのことがきっかけで、リードはすでに梅毒で神経を冒されている娼婦から行方不明になっている息子の捜索を依頼される。リードは担当事件をほっぽり出してかけずり回り、孤児院の不正を暴くと同時に彼女の息子の死体を発見する。
 息子を取り戻してくれたお礼を言う彼女に、リードは妻を死なせてしまった自分の過去を告白する。それを最後まで聞いた余命幾ばくもない彼女はマリアのような横顔になって「あなたはもう許されている」と言い、自分の体をリードに委ねる。
 再開された「リッパーストリート」第一回の枝葉を取ったストーリーです。
 残念ながらその娼婦の最後の台詞は聞き取れなかった。あるいは「ユー ワー フォーギブン オーレディー」だったのかなぁ。あの、最初は色気のイもなかったのに最後は輝く様な横顔になった女優さんの名前をいつか知りたい。


 「此の節は西郷先生始め桐野・村田等の諸豪傑と日夜協謀。実に以て愉快の事に御座候。城中の模様は日に衰弱の由。いずれ遠からず、落城は顕然に御座候。数年の精神を込めたる義兵と給金日当の士官、日雇ひ取りの兵卒とは、天地の懸隔あるは明白に御座候。」
 『西南の役』に戻ります。
 いつか『近世日本国民史』の西南の役篇を読もうと買いためていたのには、それなりの理由がある。西南の役をロマン化したがる風潮への強い疑念があったからだ。──徳富蘇峰なら、地面からの目線を持っているはずだ──
 上は薩軍に参加したもと熊本藩宮崎八郎(のちに戦死)が親に宛てた手紙の一節。
 この手紙のなかに、参加者たちの世界観(旧士族たちの異常なまでのエリート意識)があらわに見えている気がする。
 かれらは一度は主人公になりたかったのだ。幕藩体制下のサムライは一度も自分たちが主人公であることがなかった。
 自らを独立した人格として意識することさえ出来なかった藩制度が崩壊したとのとほとんど同時に、彼らは「ただの人民」の一部にされてしまった。彼らのねじくれた誇りは行き場を喪った。自由民権運動もその自己主張の過激な表現に見える。彼らの「民権」の「民」とは、彼ら自身の階層そのもののことだった。反政府運動のリーダーだったはずの板垣退助が入閣して体制側に属したのを背信行為と呼ぶ気にはならない。
 そのことと、彼らの庶民(とくに貧しい農民)への蔑視は、いまの我々からは想像もつかないほど強い。
 たとえば彼らは、熊本城を包囲すれば「日雇ひ取りの兵卒たち」は恐れをなして帰順するものと思い込んでいたと蘇峰は書いている。じっさいに「神風連の乱」のときは攻撃開始と同時に多くの兵士たちは四散してしまった。鎮台は彼らを再度編成し直して何とか守ることができた。が、その教訓から鎮台新長官になった谷干城は、相撲大会や花火大会を催して一体感を育てると同時に、直接闘わせることの不利を悟り、ひたすらな籠城作戦を進言し受け容れられた。さらに大量の酒を城内に持ち込み、戦闘中に酒を飲んで景気づけをするのを薦めた。そのような実際的な能力の持ち主がすでに頭角を現していた。
 あるいは、半年以上にわたる戦争中、荷役をさせた人々に薩軍はきちんと賃金を払っただろうか?「給金日当の士官、日雇ひ取りの兵卒」と宮崎八郎は呼ぶ。が、時の政府は官軍の軍夫には日当1円70銭を払ったと『秋月党』の著者は書いている。木戸孝允の小間使いの月給が1円50銭だった時のことだ。当時の1円50銭を現在の20万とするなら、軍夫の日当は23万円ぐらいに相当する。「日雇ひ取りの兵卒」の危険手当はそれ以上だったに違いないし、戦死した場合の遺族への多額の弔慰金なども約束されていた。
 第一、薩軍が戦争だけにかまけていた間、政府は同時に着々と新時代を作るのを忘れていなかった。たとえば、同じ明治10年には東京大学が設立されている。

 日本の文明開化を英訳したら「re−formation」なのかも知れないなと思い始めた。略したら「リフォーム」。?外はそれを「普請中」と呼んだ。リフォームは一般化しすぎてしまったから「シフト替え」。明治政府はそのシフト替えを急ぎに急いだ。(そのシフト替えにとって最大の邪魔が薩摩だった。)
 自分たちの世界観のなかで死んだひとたち、新しいシフト替えされた世の中では生きて居たくもなかった人たちのことは、それはそれでいいとして、新シフトの必要性を知り、なおかつその新シフトに十分対応できる自分の能力を疑わなかった人たちまでが何故薩軍に身を投じたか?
 いまの疑問はそちらに移ってきた。
 たとえば徳富蘇峰は薩摩の人永山弥一郎を取り上げている。
  かれは戊申の役ののち陸軍少佐に任じられ、開拓使大主典として屯田兵の長をつとめた。(のちに中佐)彼は征韓論に与せず、私学党決起の際も彼の「大義」は別のところにあった。
 西郷の要請で尋ねてきた村田新八らに彼はこう言う。
 「今日、在朝の人々は皆わが友人である。彼らは日進の時局に当たり、その知識の進歩もまた我らの比ではない。かつ今日陸海の軍備ようやく整い、兵を起こしてこれと争うも、必ずしも勝算ありと思えない。むしろ自重して他日国難の日に際し、奉公の誠をいたすに如かず」
 その永井弥一郎はしかし、戊辰戦争をともに闘った桐野利秋に懇望されて参加してよく闘って負傷、退却の途中に見つけた民家の老婆に「この家を売ってくれ」と持ち金数百円を渡し自刃したのち部下に火をかけさせたという。その間の彼の心の動きが分からない。
 大山巌とともにヨーロッパで学んできた村田新八のことは「国民史」が終わったら読もうと2冊用意したので、来月あらためて報告することになると思う。
 あと一人、中津から長駆薩軍に合流したのちに戦死した増田宗太郎はより身近に感じる。
 彼の家は福沢諭吉の家の隣、親戚でもあった。維新後帰ってきた福沢諭吉と話して慶応に入学しあっという間に英語を習得した。異能の持ち主だったらしい。が、家庭の事情をもって帰郷する。「今日の日本を興隆するには、士気を鼓舞するより先なるはなし。士気を鼓舞するには、学校を設立するを急務とす。学校を興し、青年に向かって大義名分を教うることは、すなはち士気を鼓舞するゆえんである」
 福沢諭吉は「中津より宗太郎を出だしたるは、あたかも灰吹きより龍の出でたるようなものだ」と、その死を嘆いたという。
 彼は本来は、薩摩を討伐して全国統一の完成を期した。それが一転して西郷とともに斃れることを選んだのは、たぶん上の「日本人の士気を鼓舞する」必要にかられたからだろう。
 維新後、日本人は、道の真ん中を闊歩する異人を避けて歩いた。(実は学生時代、それと真逆の経験を韓国でしたことがある。道が分からなくなって話しかけた女の子が身を避けたときの表情をいまも覚えている。)その異人の語を通訳する男たちの日本人への傲慢さ(三好十郎に『地獄の季節』というエッセイ集がある。敗戦後に道を歩いていると米兵の腕にぶら下がった派手な格好をした女の子から「やーい、日本人!」と声をかけられたと書いている。あるいはその女の子は第三国人だったのかも知れない)については後のイサベラ・バードも義憤を籠めて書いている。
 「自分の国の道をこそこそ歩くな!」
 その歪んだリフォーム(普請)を建て直すこと、さらなるシフト替えには薩摩と組むよりほかに道はないと決めた、のが、増田宗一郎だったんじゃないかな。

 第六冊で薩軍は「数年ここに割拠する」はずだった人吉をわずか数日で放棄した。
 事実上この時点(私学党蜂起から三ヶ月半)で新政府のリフォーム(中央政府を持った国家)はほぼ完成する。
 あとは西郷隆盛に、いかにしてその存在にふさわしい死に方をさせるか。課題はすでに別のことに移っていく。

附記
 当時の薩摩人には、人を人とも思わぬところがあった。木戸孝允は、その薩摩人の視線を我慢がならないものに感じたのだろう。
 しかし、その視線は薩摩人自身へも向けられていたことに木戸は気づいていたのかどうか。(たぶん、気づいたうえで、やはり許しがたいものだったのだ。西郷たちの考えには人の営々とした営みへの敬意がまったく見られない。)
 彼らにとって自分の命は、大義の前では「鴻毛よりも軽」かった。そう思っていない人間、もしくは「大義」を持たない人間は彼らの感じる「人間」のうちには入らなかったように思われる。薩摩人はそういう西郷の視線を何よりも恐れた。そして、自分の命を丸っきり軽いものとして振る舞うことを自分に強い、それが常態化した。
 その傾向は、西郷の死後も日本軍を縛り付け、軍自体の堕落に?がっていった。
 また、新たな補助線です。

不染鉄二

不染鉄二の絵をもし野見山暁治さんが見たら、「素人の絵だ」で片付けてしまうかも知れない。でも、印刷物では残念ながら分からないけれど、彼の山や島や岩には、いまにも動き出しそうな不気味な生命感がみなぎっている。それを確かめたくて奈良県立美術館に行って来た。
 その生命感は不気味としか言いようがなかった。
 「20世紀にこんなものを描いた人間がいたのか」
 その自然は歴史以前(人間が自然を意識する前、人間よりも自然の方がこの世界の主役だった頃)のものに思えた。
 そういう絵を見続けたあと、下のカラーのような〝灯り〟のある絵が突然のように現れると「胸きゅん」もイイトコ。人の営みへの確信と、その営みへのあこがれ(それじたいが矛盾しているけど)が湧き出てきて、その日はもう何もする気がしなくなった。(奈良公園に行って鹿をみて過ごそう。)
 たぶん、そのうち誰かがこの一所不住の画家を小説にしそうな気がするけれど、まったく相反する絵を描いたのちに、不染鉄二は上のような信じがたいほど軽い爺さん、体重計に乗っても針は動かないんじゃないかと感じる軽々とした爺さんになった。
 会場の出口に、画集やかれの言葉が集められたものが並べられていたが、「なにも買うまい」。自分が感じたことをそのままにしておきたかった。
 一人の人間とまた出会うことができた。

 『西南の役』は6冊目の途中で頓挫したまま。
 次第次第に重苦しくなってきて、読み終わる前からサラッとしたおさらいをしたくなってきた。
 理由のひとつは、徳富蘇峰の筆があまりにも生々しいから。人間もゴキブリも大して変わらない、と以前から思っていた証拠を、目の前にズラリと並べて見せる。(嫌中・嫌韓派には是非薦めます。)──人間はこの世界にとって最大のノイズだ、と少し前に感じたのを思い出して、いま羞じている。あれは裏返しのロマンに過ぎなかった──
 あとひとつの理由は「西郷はなぜ死ななかったのか」を考えたことによる。
 熊本城を陥落させることを諦めた時点で勝敗はすでに決していた。なのに戦争が続いた理由はただひとつしかない。西郷隆盛切腹しなかったからだ。
 では、なぜ西郷は切腹しなかったのか。「西郷隆盛という物語」が完結するシチュエーション、もっとはすっぱな言い方をするなら、英雄としてふさわしい死に方を見つけられないままだったからだ。その間に両軍を合わせて万を超える戦死者が出た。
 「無私の人」というイメージで語られることの多い隆盛は、実は常識人には想像がつかないほどの我執の持ち主だったのではないか。
 身近な者たちには、そんな西郷の心性は見えていたはずだ。なのに何故最後まで行動を共にしたのか。(たとえば今、村田新八という洋行帰りの男に興味が湧いてきている。日本に戻ってきてはじめて西郷が下野し薩摩に戻ったことを知り、帰朝報告もせずに故郷に戻る。村田について行こうとした後輩には「お前は親孝行をしろ」と東京にとどまらせる。そのとどまった男の生き方も気になるなぁ)
 上に書いた通り、かれらは西郷隆盛というレジェンドにふさわしい死に方をさせたかった。そのことに尽きるのではないか、というのが中間報告です。いつも中間報告だけなんだけれども。

飯塚のことば

「懐かしい言葉」あいうえお順

名詞篇
あんぽんたん=かぼちゃ頭≒ピーマン。
インキョ=ビー玉で行っていたゲームの一つ。ルールは「ゲ ートボール」にそっくり。(たぶん説明の時間順が逆)
大阪じゃんけん=負けたが勝ち
カツカツ≒ちょきりちょん≒ぎりぎり
ぎっこんばったん=シーソー
げさく=下品
げってん=
けんぱた=石蹴り遊び⇒Sケン=S字型のけんぱた。
ごひな=ニナ(蜷)──川蜷のことか? 海蜷は?
三角野球=一塁と三塁だけの野球
スカ=空くじ
サムサム=鳥肌⇒サムサムが出来る。
さん(三?)のうがハイ⇒じゃんけんもってシ(四?)
すらごつ=空言(そらごと)=嘘。
スランパ=お金や景品を賭けない勝負事。
シビンタ=ニッポンバラタナゴ(ちっちゃくて美しい淡水  魚)
ぞうたん=冗談
地べた=地面
ツヤ=(翻訳不能。もし女の子から「わぁ、ツヤぁ」と言われたら、も うお終い)「ツヤつけるな」
テシ=パッチンの時の切り札
どべ(たん)=泥(濘)=でい(ねい)≒しんがり
ナバ=キノコ
にくじ=意地悪。
パッチン(場所によっては「ペタ」「ぺったん」)≒めんこ?⇒写真パン
ふ=運⇒フがいい、フの悪か。
ほおべんたん=頬っぺた。
ぽん菓子≒ポップコーンではなくてポップライス?
ほやけ=
ほんなこつ≒本当
まんぐり≒間合い。巡り合わせ。
もやい=共同
ラムネん玉≒ビー玉

述語篇
あのですねぇ=こちら独特の表現だと知ったのは大人になってから。
イケ好か⇒ま好かん
いっちょん=少しも○例「いっちょん分からん」
うじゃくる=いじゃくる≒
いぶる≒燻る
いぼる≒(足が抜けないほど)ぬかるむ。※大分では「じゅる  くなる」ち言うとげな。
いらう≒いじる。「こら、チ○ポをいらうな!」
言わせん=言いようもないほどいい。「○組の△は言わせん じぇ」「うん。言わせん。言わせん。」
うべる=ぬべる≒(熱湯をほどよい温度にするため)冷水を  さす。
えぐい≒苦みが強い。いがらっぽい。○転「あの先生えぐカ  ぁ」
えずい=怖い ○古「怖(お)づ」
えらい=大変だ。○例「先生、昨日の宿題はえらかったぁ。」
おうじょする≒往生する?=物事がはかどらない。
おえん=どうしようもない≒のさん。「おえんじぇ。」
おごる=怒る⇒「わぁ先生におごられたぁ。」
おちょくる=からかう
おらぶ=大声を出す。
かいい=痒(かゆ)い。
かてる≒加える○例「ねぇ、かててぇ。」「かてちゃらぁん。」
かてのこす≒のけ者にする。
〜かぶる⇒しかぶる。まりかぶる。
かまう≒からかう?
からう=背負う。
ギタギタ=脂っこい。
黄(き)ない=黄色い○例「黄粉(きなこ)」「黄臭(きなくさ)い」
ぎゅうらしい =口うるさい。大げさだ。
グラグラこく=めちゃくちゃに腹が立つ。=怒り心頭に達する
こく⇒「屁をこく」「スラゴツこく」
こさぐ=削る
こすい=ずるい
こちょぐる=くすぐる。
こわい=固い。○例「おこわ御飯」=強飯(こわめし)⇒手強い
こわる=筋肉が固まる。○例「肩がこわった」
サムサムが出来る=鳥肌がたつ。
しこたま=いっぱい。
しばく=鞭のようなもので叩く。「シバきあぐるぞ」
しまえる=終える。「もうオレしまえとっちゃん。」
しまやかす=終わらせる。「もうアイツしまやかそうか?」
しゃっちみち=どうせ
じゃかましい=やかましい。
しぇからしい=しゃーしい≒うるさい。煩わしい。
しょんなか=仕方がない。
しろしい=しるしい≒ひどく鬱陶(うっとう)しい。○古「著(し  る)し」
すいい=酸っぱい
スウスウする=寒気がする。
スカす=間合いをはずす。
カタンこく=期待や間合いを外される。
好かんたらしい=嫌みだ。
すべたんこける≒滑って転ぶ。
すわぶる=むしゃむしゃしゃぶる。
そうつく=うろつく。○例「こら。職員室の前をそうつくな。」
そぜる≒損傷する
ぞろぶく≒(着物の裾などを)引きずる
だだがらい=塩味ばかりがきつい。(漬け物などの発酵不  足)
だちかん≒(自分では使ったことがない)
たまげる(魂消る)=ひどくビックリする。
だらしい≒けだるい。
接(つ)げる⇒番(つ)がる⇒(御飯を)つぐ。
ツヤつける⇒「こら、なんばしツヤつけようとか?」
つんのうて=連れだって
でやす=じゃぁす≒ぼてくらかす=ボコボコにする。
でんぐり返る=ひっくり返る。
どっちみっち=どうせ
トゼン(徒然)ない=手持ちぶさただ。
トンピンつく=はしゃぎまわる。
なおす=整理整頓する。
なし?=なぜ?
なすくる=こすりつける
なぜる=なでる。
なめる=見下す。(相手を)軽く見る。
なんかかる=寄りかかる。
何ちかんち≒どう?
何かなし=何となく。どうでもいいから。
なんちゃない=どうということもない。
にあがる≒調子に乗る。「にあがんなぁ、こらぁ。 ぼてく らかすぞぉ。」
ぬくい≒なま暖かい
ねまる=腐敗する。
ねぶる=なめる。⇒ねぶり籤
のかす≒どかす。「この机を早よのかせれ」
ばさら(か)=たくさん。とても。○古「婆娑羅≒ヤンキー≒ 横道者(おうどうもん)?」⇒おおまん太郎兵衛
ばって(ん)=しかし○例「ばってん、、、もう良か!」
腹かく=怒る
腹がせく=腹具合が悪い。
 子供の頃、腹具合が悪くて病院に行ったら先生が「キュウっと痛む? キリキリ痛む?グリグリ?チクチク?シクシクかな?」と質問した。(こ  の先生すごい!)
はわく=掃く
はんかない≒生半可じゃなく○○だ?何となく?
ひだるい=腹がへる。
ビックリしゃっくり=ひどく驚く。
ひょうくれる=ふざける。
ぶうたれる=ふて腐れる
ふうたぬるい≒どんくさい。⇒ウチの担任ふうたぬるいキ好 かぁん。
ふぁーふぁーする≒浮つく
べた(に)≒平らに。直(じか)に。
ほかす=ほったらかす。
ほげる・ほがす≒穴が空く・穴をあける。
ほつれる=ほどける。
ぼてくらかす≒
ほんなこつ=本当に
間尺に合わん=間に合わない。
まる=オシッコをする。⇒古事記を読んでいたとき、『○○ の命(みこと)クソまり給う時』とあったのでビックリ。「ま る」は由緒正しい言葉だったのだ。
むぞか=可愛い⇒むぞうせぇ=可哀想だ
モオシ=申し=ごめんください。
やおい=やわらかい。⇒ヤオじゃない。≒困難だ。
ようけ=たくさん
よこう=憩う。休む。

接尾語篇
〜カ=○例「赤カ、きつカ、睡むカ、さびしカぁ」⇒(場所によっ ては「〜サぁ」○例「赤サぁ、きつサぁ、眠サぁ、さびしサ  ぁ。」)
〜キィ⇒コォ⇒キィ=「それ、あんたがしとキィ。」「うん。 そとコォ。」「?」「大丈夫ちゃ。ちゃんとしとっキィ。」
〜きる=〜出来る。○例「夜一人でトイレ行ききる?」「行き きらぁん。」
〜くさ=○例「あのクサ、昨日クサ、おれがクサ、」
〜ぐっちょ=〜ごっこ。「走りぐっちょ」
〜ゲ=〜の家。処。⇒アイツんゲに行こう。
〜げな=〜だそうだ。
〜げん。⇒どげん。こげん。そげん。あげん。
〜ごたる=〜のようだ。
〜しゃあ≒〜なさる「先生が言いよんしゃった」 
〜のゴツ=〜のように。
〜シコ=〜だけ全部。○例「持てるシコ持て。」
〜たい≒(念を押す時)
〜たもない=〜たくない。
〜っちゃ≒〜よ。「オレがするっちゃ」
〜てみん?≒〜てみらん?≒「行ってみらん?」
〜てろ、〜てろ=〜やら、〜やら。
〜チ=〜と○例「何チかんチ言うても=なんと言っても」
○例「〜ちゅうても=〜と言うても」
〜ちゃぁ≒〜てあげる・てしまうぞ。「先生に言うちゃぁ」
〜と?=学校に行くと?行かんと?
〜ト。=その卵焼きはわざわざとっとうトにぃ。
〜ない=〜しなさい。○例「家で宿題しない」
〜にゃこて≒〜なくちゃ。「自分でせにゃこて」
〜ばい≒(説明する時)
〜ばし≒〜であるかのように。
〜よる≒〜ている。「ほお、勉強しよる。」
〜んにき≒〜ら辺。「そこんにき置いとけ」

  ※気がついたり思い出したりした時は
     kamegg487009@yahoo.co.jp

清宮質文

 長くなりそうだから、活字にします。
 先週でかけた鈍行列車乗り継ぎの旅の報告です。
 いろいろあって、朝9時に博多駅を出た初日は、播州赤穂東横インで荷物を下ろしたのが夜8時を過ぎていた。その間なんど乗り換えたのか。博多⇒小倉⇒下関⇒岩国⇒白市⇒福山⇒岡山⇒邑久(おく)⇒播州赤穂。乗り換え時間がほとんどなかったから博多駅で菓子パンを購入しておいて正解。前回の旅はけっきょく昼飯抜きだった。
 まる一日変わりゆく海をみていて全く飽きなかった。
 のっけから横道に入る。
 「海は広いな大きいな。月は昇るし日は沈む」
 よくもデタラメな歌を作った。月が昇り日が沈む光景を見られる場所なんて、人の住んでいないような離れ小島か岬の突端ぐらいなものだろう。
 『アザミのうた』もそうだ。なんだか可憐な花の様に歌っているが、実際のアザミは荒れ地にでも咲く、生命力の強い野草だ。だからイギリスにやられたスコットランドは国花にした。
 ぼうっと海を見ていて浮かんだことです。

 先月の山陰線もそうだったが、海は広いけれど陸地はひどく狭い。というか平らな土地がほとんどない。「こんな処で生きているものはウカウカしていたら海にはみ出してしまうから、そうとうな緊張感なしには生きられなかったな。」海に突き落とされないように緊張すると同時に、こんな狭小な場所の外へ進出する機会を常に狙っていたはずだ。
 去年冬の津軽平野の広さには驚いた。見渡す限り真っ平らな土地。ああいう土地で生きている者は、数年ごとに飢饉があったとは言っても、「外に出たい」という気持ちはなかなか起こるまいと思う。
 『天皇の世紀』の読み過ぎかもしれないけれど、土地柄が人気(じんき)を育む。まったく正反対の気風の人間が出会わなければならなかった。それが近代。

赤穂線には邑久以外にも難読駅名があって面白かった。
 日生、寒河
 それぞれ「ひなせ」、「そうご」。たいていの古い地名の表記は当て字だとは思うが、難読を通り越して「無理」。

 翌朝、邑久駅前に停まっているバスの運転手さんに「このバスは瀬戸内美術館に行きますか?」「えっ?」後ろに座っているオジサンが「はい。」と言ってから運転手に教えている。研修中だった。
 牛窓の港が見えて市役所が近づいたらその教官がボタンを押してくれた。「ありがとうございました」
 三階が図書館、四階が美術館。なんともコンパクトな市役所だった。
 招待券を送ってくれたマリコさんに渡してくれるように、クマモンの入っている封筒を受付に預けた。
 木版画しか知らなかったけど、他に水彩画やガラス絵も多数ある。
 小さいものは4㎝×8㎝。でも充溢しそう。

 「はるか昔、人間のなかに最初に生まれた感情は〝悲しみ〟だったのではないか」
 水彩画はなにが描かれているのか分からないようなものばかり。
「ぼくは空気を画きたい」
 何回も同じ女性が画かれている。その女性が、飯塚の隣町千手(せんず)に生まれた織田廣喜さん(琵琶湖の近くに安藤忠雄が設計した『赤い帽子ミュージアム』があるはず。織田さんの女性はよくつば広の赤い帽子を被っているのです。)の女性そっくり──カシニョールは成熟した女性。織田さんや清宮さんのはまだ何も知らないジブリ的な女性──に感じて、(これは野見山暁治さんに教えなきゃ)と思っていたら、ガラス絵の壁の終わりに野見山さんのことばが掛かっていた。「清宮質文さんのガラス絵を初めてみたとき〝あ、絵だ。〟と思った。」
なんだ。
 清宮さんは1917年生まれ。では残りの二人は? 
 スマホで年齢を調べる。
 織田廣喜1914年。
 野見山暁治1920年。
 三人とも大正時代の人だった。
 パンフレットによると、来年も「清宮質文Ⅱ」をやるとあるのでアドレスを書いてきた。
 来年は港の突端にあったプチホテルに泊まろう。

 瀬戸内美術館に行きたくなった理由のあと一つは「うしまど」という地名に記憶があったから。「何かの文学作品にあった」
 ずっと気になっていたけど思い出せないまま帰宅して、この部屋に入ったら「そうだった!」
 牛窓の波の潮騒島(しま)響(とよ)み寄そりし君は逢わずかもあらむ
      牛窓の波の潮騒が島を響かせる様に、(私に)言い寄りなさったあの人は、
      もう逢いにきて下さらないのでしょうか。
 万葉集(2731)だった。
 来年は牛窓でゆっくりする。
 
 バスで邑久にもどって、赤穂線邑久⇒山陽線岡山⇒福山⇒糸崎⇒三原。車内放送が「雨のため列車が遅延しております。お乗り換えの方は駅の案内放送にご注意下さい」下りてみると「呉線は先ほど動き始めました」その日の一番列車に乗ることになった。
 呉から船で江田島へ。
 江田島は思いがけぬほど人気のいい処だった。 もとの海軍兵学校に行く道を訊くと、おばちゃんが返事もせずにスッスと歩いて行く。「なんだ。」と思いつつ目で追いかけていると指さして「このバス?」

 赤煉瓦のゲストハウスで30分ほど待ったら案内役が現れた。一時間半ほど歩くと言う。
 ゲストハウスも次の校舎も、どう見てもたっぷりした時間がたった建物にしか見えないので「ここは爆撃を受けなかったんですか?」と訊くと「はい。呉は空襲に遭いましたが、ここは爆撃どころか一発も撃ち込まれませんでした。」〝仁義なき戦い〟ではなかったことになる。(戦争って何だ?)
 校舎は長過ぎて写らなかった。
「全長が144mあります。戦艦大和はこの倍近くあったことになります。
 その大和(武蔵?)が海底でバラバラになっている理由を探った番組がBSであった。「巨大艦に合わせた巨大リベットを打ち込む技術が日本にはなかった」爆発に耐えられず鋲が飛び散ってバラバラになったのだろうという。
 明治維新以降(明治維新もそうだが)日本は無理に無理をかさねて、けっきょくみずから破綻した。 

 歴史資料館に入る。「40分後に玄関に集合して下さい」
 大和の最後の艦長伊藤誠一が福岡県三池郡高田町出身だったとはじめて知った。興味が湧いてスマホで検索する。軍令次長だった時に開戦。交換船でアメリカから戻ってきた後輩に「この戦争の行く末を研究しろ」と命じる。命じられた男は「勝ち目はまったくない。日清戦争以前に戻れたらマシなほうだ」と、怒鳴りつけられるのを覚悟で報告する。伊藤誠一は無言だったという。
 かれは特攻出撃命令に従い、徳山で給油をしている間に病人やけが人のほかに配属されたばかりの最後の兵学校卒業生49人に下船を命じた。「日清戦争以前に戻れたらマシなほうだ」と報告した後輩は、戦後、伝道師になったという。生き残った49人のその後を調べた人が居ないかな。
 真珠湾に侵入した特殊潜航艇乗組員ただひとりの生き残りは戦後、トヨタに入社して、ブラジル・トヨタの社長を勤めたとある。
 回天、桜花、、、etc。
 黙って出てきた見学者たちに、江田島出身者だけでも3000名近くが特攻で亡くなったと教える。「平均年齢は19,8歳でした。」──この男はスゴいな。毎日毎日おなじことを言っているはずなのに、すこしもスレていない。──誰にも頭の下げようがなかったから、案内役に頭を下げた。
 ──あとは、本田先生の青春の場所を歩こう。
 そこは「キャンバス」ということばがピッタリの空間だった。
 生徒たちがクソ暑いなか制服で何組も走らされている。声のそろい方が見事。中にはリュックを背負って走っている若者もいる。ひとりが「ウェー野球部よりもキツそう」と言ったので見学者たちが笑い出した。
 ゲストハウスに戻って案内役が挨拶をすると大拍手。きっと色んな思いがこもった拍手だったに違いない。

 戻ってきた翌々日は、胃を全摘した同級生の快気祝い。愉快な仲間11人の集合。去年一年で男ばかり三人減ったのだという。で、今年一名補充した。
 「あと10年してごらん。〝まだ生きとったら願い通りに一緒にお風呂に入ってやるとにねぇ〟ち女ばっかりで話しよろうね。」
 「雪国20回」に、自分で作った「吾亦紅」の前奏を披露すると気持ちよさそうに歌い出した。松下電器OBが「なん。それマザコンの歌やんな。オレ好かん!」ではと「惜別の歌」にすると皆で合唱。
 この松下電器は人物で、この男のお陰で同期会がうまく回っている。藤沢正彦が好きで「ぜんぶ読んだ!」と言ったあとでこっちに顔を向けて「哲学は数学より二段階低い頭でも出来る?」
 後半部分には大賛成。でも藤沢正彦は読んだことがない。読んでみるかと思っていた頃に「品格」がどうのという本がベストセラーになって、「じゃぁ、オレが読む必要はない」根がアマノジャクなのです。
 それに明治という時代や明治人を神棚にあげる気がまったくない。明治人はその前代が営々と築きあげた精華をとことん食いつぶした。どの時代の人間も前代を食って生きるしかないんだけれど、彼らは次世代が食らうべき精神文化を何も産もうとはしなかった。そのあとの惨憺たる姿を次世代だけの責任にするわけには行かない。
 またもや大佛次郎の読み過ぎかもしれないけれど、──幸田露伴は同趣旨のことを書いた後、「もう死ぬ」と部屋から出て来なくなったという。──他人事じゃないよなぁ。オレたちはどんな精神文化を産もうとしているのか?

 ゾンビーズがそろい踏みをしていて、今度は『黄色いサクランボ』を披露すると言う。「おう、最後のサクランボやな。」
 担任を囲む会で小学校以来の同級生が「アタシ、もういつ死んでもいいち思いよった。でも、未練を残しながら死ぬともいいかなぁち思い始めた」と言った話を披露すると、「オウ。」と言ったあとに「あの男、この男、、」「いやぁ、あの食べ物、この食べ物かもしれんよ。」
 わいわいやっているうちに半日がたち「そろそろ帰らんとエズいき。」と立ち上がったら「へぇーまだ愛されとるとやね。」
 次回は8月初めに唐津でピアノ伴奏入りのミニ・コンサート。次は同月末の福岡支部同窓会。11月には予算4万以内でどこかへの二泊三日を企画しろと言う。「予算が厳しいばい。」「みんな年金生活やけんねぇ。」

 『天皇の世紀』を読み終えた。
 その話はいずれまた。

追記
 五月に会った高3の担任に手紙を出していたら、まったく期待していなかった返事がきた。「梅雨空を吹き飛ばすような便りをうれしく拝読した。」再会の折にお話しできるのを楽しみに待っています、お元気で、とある。うーん。内科と泌尿器科への通院を忘れない様にせねば。

木履(ぽくり)


       木履(ぽくり) 



 八七歳の恩師を囲んだクラス会は参加者は十人だったけど盛況だった。
 企画してくれたCちゃん、割り勘要員という名目で加わってくれたO、I、それに、わずかな酒で大声を張り上げる半端爺々の面倒を文句も言わずにして下さったお店の方々、それから、言い忘れたらあとが怖しい優しい女性軍よ、有り難うございました。
 『雪国』を二十回以上読んだというSとは、またも言い合いこになった。「そんな風やからややこしい生き方をしてしまうとたい。女の気持ちやら分からん振りをして戸惑っておけば長続きする。」(なんだか、のっけから何処かの学校の△山通信みたいになってきた。でも、気づかないふりをするのも貴重な優しさ。)とはいうものの、一連の近代史ものが終わったら、友情の証しに五十数年ぶりに読んでみる。『津軽』同様なにか新しい発見があるかもしれない。

 先生は教え子たちに校歌を歌うように要求する。──魚津でもそうだったな。「ミチト歌え!」──
 ──歴史は遠し三千年 光遍き大御代に・・・見よや燦たる校章は朝日に匂う山桜
 教員と生徒の合作なのだそうだ。
 「ヨウシ、匂う、ちゃ何か?」
 「匂いというのはこの場合は鼻でかぐものではなく目で見るまぶしいほどの美しさを言います。」
 「ヨウシ、さすがは国語の先生!」
 (もう引退したんですけど、、、。)
 「なんで山桜なとか? 本居宣長はなんで大和心を山桜に喩えたとか?」
 「サクラ、サクラ、彌生の空は見渡す限り、霞か雲か、ちゅうでしょ? 山桜はぜんぜん目立たんで満開になっても霞か雲と間違えられるぐらいぼうっと見えるとです。だから、目立つ様なことは一切期待せず、己が義務と思うことを確実に果たして自足する精神を、本居宣長は山桜に喩えたとです。」
 「ウーン。よかろう。じゃ、ソメイヨシノと山桜はどう違うとか?」
 「ソメイヨシノは花が先に咲きます。花が散ってから葉が出ます。でも山桜はですねぇ、葉と花が同時です。」
 「ちょっと違う。山桜は葉が先に出る。花はあと。その代わりじっくり咲く。ソメイヨシノはパッと咲いてパッと散る。」
 「はあ、」
 先生は突然「遠き別れに耐えかねて、、」を歌い出す。教え子たちもそれに続いて斉唱する。
 ──君がさやけき目の色も、君くれなゐの唇も、君が緑の黒髪も、」
 たしか前後三回も歌わされた。
 「緑の黒髪ちゃ何か? どうして黒髪が緑なとか?」
 (こんなシツコい人とは思っていなかった。坦々と受験英語を教えながら、こんなことを考えていたんだ)
 「みどり児ちゅう言葉がありますから、?みどり?は色ではなくて、初々しさや若さを表しとぉっちゃないとですか?」
 (日本語の色は、以前?白馬?で「どうして?白?が?あを?なのか」についてウンチクを傾けた様に実にややこしい。 )
 「ウーン。も少し行け。生命力じゃ。緑の黒髪はイキイキした黒髪なったい。」
 ──先生の言いたいことが分かった! 山桜のほうがソメイヨシノより生命力に満ちとる。粘り強く生きるとが大和心ぞち言いたいとばい。
 ──お前たちはまだヒヨッコじゃ。まだまだこれからジックリと葉を茂らせれ。花を咲かせるとはずっと後ぞち先生は言いよんしゃぁとやね。
 「先生まかせといて下さい。オレたちはしぶとく長生きします。先生もですよ。」
 「オウ、お前たちはオレにとって特別の生徒じゃ。」 
 「これからがオレたちの黄金の十年ぞ!」
 「オウ! よう言うた!」


 それから越後湯沢の話に変わったのは、Sが『雪国』にこだわっていたからだろう。
 その先生の話は次のようなものだった。


昔、越後湯沢に匂いたつほどに美しい娘がいた。
娘は両親を知らずに育ったが、優しい祖父母と兄たちに守られて健やかに成長した。
村の男たちは彼女のまばゆさに誰も声をかけることが出来ずにいた。
娘は年頃になっても一度も男から言い寄られないのを気に病んでいた。
まだ鏡というものを知らなかった頃のことである。

ある年の夏祭のとき、隣村から来た若者が、一緒に踊ろうと誘った。
娘は天にものぼる気持ちになった。
祭が終わったあと若者は、来年の春、雪が融けたら迎えに来ていいか、と娘に言った。
娘は大きくうなづいた。

秋がきて冬になった。

雪が降り続き、みな家に閉じこもっているしかなかった。
家族の話題はしぜんに隣村の若者のことになった。
「早く春が来てくんろ」
しかし、越後湯沢の冬は長かった。
毎日毎日雪が降り続いた。

ほんとうに春が来るのか。
それ以上に、あの人は本当に迎えに来てくれるのか。
娘はしだいに悩み始めた。
そして焦りはじめた。

ある日、娘は、隣村に行ってみると言い出した。
驚いた家族は、吹雪になるかも知れないからと引き留めようとした。
しかし、寡黙な娘が一度言い出したら決して引こうとしないことを良く知ってもいた。

娘は、親が、形見に、と娘に残した木履を出してきた。
「そんなもん危ねぇから、せめて雪ぐつを履いていけ。」

娘は拒んだ。
女の子に恵まれたことを喜んで親が買ってくれていたという木履以外、彼女は何一つ華やかなものを持ち合わせていなかった。

木履での雪道は難渋した。
それでなくとも覚悟していた道中は少しも進まなかった。
しかも家族の言ったとおり次第に吹雪き始めた。

寒かった。
暗くなってきた。
方角があやしくなっていった。
泣きそうになるのをこらえながら、それでも先に進もうとして転んだ。
「ひゃっ。」
足から外れた木履を手にした娘に絶望感が襲った。
片方の鼻緒が切れていた。

「会えない。」

彼女は泣きながら引き返した。
「会えない。」
それは、もう一生会えないことのように思えた。

吹雪は何日も続いた。
娘は食事も喉を通らず、口もきけずに過ごした。
家族はただ黙って見守っているしかなかった。

雪も風も止み、明るい陽がさしてきた日。
娘は木履のことが気になって、も一度あの場所に出かけた。

木履はなかなか見つからなかった。
見つからなければ見つからないほど、鼻緒が切れたとは言え、あの木履が、自分と若者を結びつける唯一のたよりのような気がした。
この辺りだったはずだと雪を払っているうちに、
「あった!」
木履を見つけた。

手にした木履には真新しい赤い鼻緒が付け替えられていた。


 先生の話の記憶はそこで途切れている。
 先生が酔ってしまったのか、自分が限界を越えたのか、あるいはその両方か、もうその記憶も当然のようにない。ただ、新しい鼻緒の赤さはいまも、それこそ「みどりの赤」と呼びたいほど鮮やかに甦る。
 だから、その記憶が新鮮なうちに、先生の話を完成させたい。


「あの人だ。あの人は虫の報せで吹雪のなかを私を探しに出てきたんだ。そして鼻緒の切れたこの木履を見つけて、付け替えてくれたんだ。──春になったら必ず迎えにいくから待っていろ──と私を励ますために。」
娘は、若者の冷え切った手を温めるかのように、そうっとその木履を胸に入れて抱きしめた。。
そして涙が頬を伝わるのも気にせずに家に戻った。

もちろん、
春になり、雪がとけるとすぐ、若者が晴れやかな顔で娘を迎えにきた。
家族からの心のこもった風呂敷包みを抱えて出てきた娘は、赤い鼻緒を若者に見せて微笑んだ。
夫となるべき若者は左右の鼻緒が片々なのに気づき、「どちらかと似た布ぎれが家にあるかなぁ。」と思いつつ微笑みを返した。
村の若者は最後まで娘に声をかけることなく、まぶしそうに二人を見送った。



附記
 散会が近づいた頃、小学校以来の同級生が話しかけてきた。
 「アタシ、もういつ死んでもいいと思いよった。ばってん、未練を残しながら死ぬのもいいかなあと思うようになってきた。」
 「そら良か。是非そうしぃ。」
 「うん。」

附記2
  
 『雪国』を二十回以上読んだという男は「国境は?こっきょう?か?くにざかい?か」と議論をふっかけてきた。「オレは?くにざいかい?と読む。」
 教員だった頃、文学史で「新感覚派」が出てくると、そこを材料にして説明していた。
 「?国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。夜の底が白く光った?という文章は、時間の順番がむちゃくちゃだ。」 
 時間順に直すと、
 長いトンネルを抜けた→夜なのに地面が白く明るいのに戸惑った。→雪だ。雪が積もっているんだ。→オレは別の国に来たんだ。
 長いトンネルはこの場合、時間も価値観も、もちろん人間関係もまったく別々のふたつの世界をつなぐ幽界のような役割をもっている。だから、『雪国』の場合は、天城トンネルのような?くにざかい?ではなく、?こっきょう?の方がふさわしい。
 あとは、向こうに行ってからご本人に聞くしかないが。訊いたら、あの目玉でギョロッと睨まれそうな気がする。
       2017/06/06


追記
 これを送った岩手出身の友人からメールが届いた。
 「一晩に1mも2mも湿った雪が積もる地方で、あの話は成り立たない。第一、下駄では歯の間に雪が挟まって団子状になり数歩も歩けない。」
 御説御尤も。
 ただ、後半の方は、実は先生の話では下駄だったんだが、自分も同じことを感じて木履にしたのではありますが。

FSへ

ジンから「お前の書いてくることは良う分からん。だいいち字が読めん」と言われてしまったので、タイピングします。
 あなたがどんな生き方をしてきたのか聞きたかったのに、うまくマングリが合わなくて残念でした。
 相当に躊躇して居たのですが、同期会に行って良かった。
石川明子さんから「ジンちゃんが来るよ」と電話が掛かってきて「なら行く?」ひょっとしたら最後になるかもしれないと思っていたけど、新開や藤井さんが「今度はクラス会をやろう」と言い出した。そしたら、今度はあなたともゆっくり話してみたい。
 その時の話の種に、いま考えていることを書きます。

 アベが唐突にぶち上げたアドバルーンのことです。
 現行憲法の粗雑さ(いちおう文学の徒のつもりなのですが、その悪文さ加減はひどすぎます。そこにある論理も緻密にみえて実は乱暴極まる)がなんとも気に入らなくて、生徒には「わたしは改憲論者だよ。意見はいろいろあろう、でも、自分たちの生命と安全を他人任せにする、という前文はひどすぎるから変えようよ。だいいち日本人が自分の命を預けると言っている〝平和と公正を愛する諸国民〟っていったいどこにいるの?」というと生徒たちが笑い出しました。(2〜3年前の公立高校でのことです。)高校生から笑われるようなことを大人がやってちゃいけない。

 私自身は、前文の書き換えと、9条2項の削除だけなら実現の可能性があるかなと思っていたのですが(実は、「天皇は国事行為のみを行う」という条文があることを知ったのは数日前のことでした。)、今回の「9条2項のあとに自衛隊の存在を明記した3項を加える」という発想にびっくりしました。「無茶苦茶じゃないか」
 石破茂がどんな発言をするか興味津々で見たBSフジのプライムニュースで共産党の書記局長?が「3項を加えたら2項が空文化する」と言ったのは的を得ているけれど、戦術的には最悪の発言だと感じました。手の内をさらすのが早すぎる。あとは防戦一方に追い込まれる。
 護憲派の大半は「自衛隊はぎりぎり合憲」論です。(私には「〝疑わしきは罰せず〟の精神で百歩譲って認めてやっている」論に聞こえます)しかし、自衛隊を明記することが違憲だと言うのなら「これまでの〝自衛隊合憲〟は実は心にもないことを言っていたわけだね」と詰め寄られたら反論できません。
 安倍の変化球に直球で応じようとするならば、「現行憲法でも自衛隊はぎりぎり合憲であることには既に国民的合意がある」と、まずは自衛隊違憲派学者を切り捨てなくては行けない。──どう読んでも自衛隊違憲だと思うけど──その上で「国民的合意があるのに恣意的に第三項を加え、そこで自衛隊の存在を明記することは現行憲法の精神に反する」という論理にするしかない。

 ながく高校教員をやってきたのですが、生徒には「いま日本人が真っ二つに割れてハデに揉めているように見えるけど、じつはどちらも〝平和を守ろう〟ということでは一致しているから心配するな。割れているのはただその〝平和の守り方〟の違いで、どっちのほうが平和の守り方として有効かという方法が、極端に言うと丸っきり違っている。私は、平和を守るためには〝何かせにゃいかん〟と思う方だけどね。」

 安倍側はさらに「天皇は国事行為のみを行う」のなかの「〝のみ〟」を削除するのを提案する。このこと(公的行為などは完全な違憲行為であること)に関しても、「国民誰も、天皇憲法を犯しているなんて思ってはいないのだから、現行のままでいいじゃないか」としか言えない。「だったら〝のみ〟の二文字を削除することに反対する国民はいないはずじゃありませんか?」
 護憲派は今回も直球ではなく、「いったん変えたら歯止めが利かなくなり、絶対天皇制や、軍国主義の国に戻る」という変化球に頼るのでしょう。

 今回「すごいことを言い出したな」と思うのは、実は憲法をどういじるのかということではなく、護憲派が反論をしようとすると、どうしても「現行憲法」という言葉を使わないと新憲法案との区別が曖昧になることです。つまり、これまで現行憲法を絶対化してきた側も、それを相対化しないと議論が成り立たなくなる。そのことの意味は相当に大きい。
 実際にその加憲なり削憲なりが選挙の争点になるかどうかは、世論の動向次第でしょうが、(いまの首相は「機を見るに敏」)最終的には矛を収めるにしても、投げかけられた波紋はもう消えない気がする。
 
 イギリスがEU離脱を決めたとき、サッチャーの「これまで私たちは自分たちの歴史を書き続けてきた。次の世代も自分たちの歴史を書こうとするのか?それとも書かれる側になるのか?」という発言を思い出しました。「また書こうというのだな。」
 隣の国を見ていて思うことのひとつもそれです。あの国には「自分たちの近代史」がありません。彼らは「も一度歴史をやり直し」たい筈です。
 何十年も前になりますが、『アフリカ史』という新書を読んだことがあります。その中でいちばん印象的だったのは、独立したあと「国には歴史が必要だ」と大統領が学者たちに歴史編纂命令を出したという挿話でした。──歴史は文学か、社会科学科か、というのは不毛の議論にしかなりません。たいていのことはそうですが、歴史もまたハイブリッド体だと思っています。──
 ベネディクト・アンダーソン(実は二言だけですが口をきいたことがあります。)の、、なんという題名だったかな、その本のなかで独立を果たしたインドネシアが最初になさなければならなかったことは「インドネシア語」を作ることだった、と彼は書いていました。
 
 疲れてきたから、そろそろ終わります。
 自分たちの歴史を自分たちの言葉で次世代に書き残すこと。30代なかばに、ある尊敬していた修猷館の国語教員から「新しい私立男子高ができる。いっしょにやらないか」と声をかけられて喜んで加わりました。いっしょに働き始めていくらも経たない頃かれが「先生、国語の授業の目的は文化の伝承だと思うよ」──あ、司馬遼太郎を読んだな──もちろん異論はありません。
 自分の言い残そうとしたことが、どれほど生徒に伝わったかはわかりませんが、もう40をとっくに過ぎている卒業生のクラスのとき、ある男が「オレたちは荒木先生から、受験に役立ちそうなことは何一つ教わらなかった!!」と言うと大歓声が起こりました。われわれの時代で言うなら「異議ナーシ!!」そのあとに付け加えた言葉が感動ものでした。「でも、オレたちは先生から哲学の初歩を教わった。哲学ってすべての学問の基礎ですよね。」
 ホントにそんな授業をしたのかどうかは全く記憶の外にあります。だいいち同じクラスの別の生徒は「先生、いっぺん浅田次郎を読んでみてください。小説のようなきれい事ではない雑文でアイツの言っていることは先生そっくりですよ」と言います。たぶん二人とも半分あたっていて半分は外れているのだろうと思う。外れている半分のほうは、私から教わったことではなく自分で考えたこと、なんじゃないかな。

 ぐちゃぐちゃ書きましたが、もし、「じゃぁお前は〝誇り高き戦争〟と〝恥多き平和〟の二択しかなかったらどっちを選ぶのか?」と訊かれたら、やっぱり後者かな。でも、それは「蛙の面に小便」以上の強靱な自意識と精神力を要求されることなんだと思っているけど。

 この春リタイアして最初にしたことは、嘉穂の野球部を応援に行くことでした。(その次は、数年前からサニックスが主催している「ワールド・ユース・ラグビー」を宗像に見物にいったこと)
 今年の野球部は久しぶりに強いです。140㎞近い球を投げる投手が二枚揃っているし、打てるから、ひょっとしたらひょっとします。
 でも、「変わったな」と感じたことも幾つか。
 いちばん「変わった」と感じたのは、2試合とも応援団長が来ていなかったこと。もう肥川のような男がいないのか、そういうこと(応援団長が校旗をもってひとりで応援に行った日は出席扱いにすること)を学校が許さなくなったのか。その両方かもしれない。
 たまたま夏の予選で一度だけ私のいた高校と嘉穂が福岡の球場で当たったことがあります。こちらは私立なのでその日は「補習中止」。嘉穂側のスタンドにはだれもいず、ただひとり黄色くなったシャツに学生帽をかぶり校旗を持って仁王立ちしているヤツがいて嬉しかったのに。
 そうか、それよりもっと前、たまたま天神を歩いていたらクソ暑いなか学生帽をかぶっているヤツがいたので、そうかと思って、「勝ったか?」と声をかけると直立不動になって「勝ちました!」
 今でも柔道部は嘉穂らしいです。
 7月下旬に飯塚でそれらしき、体重が120キロはありそうな学生帽とすれ違いそうになったので「金鷲はいつからだ?」──OBの新原が「私財を擲って」御幸町の滴水館?を再建したあとのことです──と声をかけましたら、ぴたっと足を止めて帽子をとり「明後日からです。」「楽しみにしとくぞ」と言うと「有り難うございます。」
 帽子をとると同時に坊主頭から汗がザァーっと流れ落ちてきたのが何とも好ましかった。「嘉穂は嘉穂やな」
 野球場で「変わったな」と感じたあとひとつのことは、前に陣取っていたお母さんが「ね、ボタ山ちゃ何?」と隣のお母さんに訊いていたことです。
 もひとつは、これは自分にとって決定的なことだったのですが、(だってそれを楽しみに出かけてきたのに)7回になっても、勝利しても、校歌を歌わなかったこと。
 もう21世紀に「歴史は遠し三千年」はそぐわなくなったのかもしれないですね。
 
 中高一貫コースを作ってから嘉穂の偏差値はすこし持ち直しましたが、いまは女子生徒のほうが多くなったと聞いています。運動会後のストームもなくなったか、男女全員参加になっているのかも。
 仕方がない。
 文化祭に行ってみたことがありますが(母親の暮らしていたグループホームが新しい校舎のすぐ傍だったのです)、教員たちは塾の先生と区別がつかなくなっていました。

 長くなりすぎて申し訳ない。
きっとまた会えますように。
 今度こそゆっくり話せますように。

「アク」について

「アク」について
         2017/04/17

 「鎌倉幕府滅亡の原因は何か。この難問に対する日本中世史学界の最新の回答をお教えしよう。ズバリ〝分からない〟である。」

 『応仁の乱』を感心しながら読んで「あと一冊呉座勇一のをなにか読もう。」
 図書館から借りた『戦争の中世史──下剋上は本当にあったのか──』は痛快そのものだった。著者は三浦瑠麗と同世代。やっとフラットな目で歴史的事象を見る人間が育ってきた。
 「これまで歴史学者が語ってきた〝名もなき民衆が社会を変える!〟というストーリーはとても感動的だし、現実にそういう側面もあるわけだが、最初から〝民衆こそが変革者だったに違いない〟と期待して、そういう事例を何が何でも探してこようという方向で研究を進めると、民衆の主体性が実態以上に強調されてしまう。本書では〝民衆が変革を望んでいた〟といった先入観を排し、なるべく客観的な分析を心がけたい。・・・・戦争の時代を懸命に生きた人々の姿をありのままに描く。それは血湧き肉躍るものではないかもしれないが、十分に胸を打つものだと思う」という序文にふさわしい内容です。

 たとえば
 ・当時の武士にとっての命題は「いかに生き延びるか」であって「いかに死ぬか」は念頭になかった。
 ・モンゴル来襲のときは既に一騎打ちの伝統は失われていた。
 ・後醍醐天皇の施策はそれまでと特に変わったところは見られない。建武の新政の失敗原因は別のところにある。
 ・楠木正成は一時期反体制派のヒーローのように扱われていたが、近年の研究では御内人(みうちびと=北条得宗家に使える武士。御家人は、不在地主である本家の荘園の管理を請け負っていた者のことらしい。)であり、完全に体制側の人間だった。

 以下は読んでいるうちに浮かんできた何の根拠もない事柄です。
 楠木正成もそう呼ばれていた「悪党」とは在地地主(江戸時代でいうなら地侍)のことだと思っていた。「かれらは既得権を守るために一所懸命で闘った。」
 でもそれは広く受け容れられていた石母田正の(不正確な)学説だったのだそうだ。
 「悪党という用語は、訴訟の際に訴訟を起こした側が用いていた〝被告〟つまり〝被告発者〟のことであって、その出自や立場は様々である。訴訟合戦になったときは互いに相手を〝悪党〟と呼んでいる。」
 「なあんだ。ロマンがひとつ減った。」階級闘争史観の影響甚大。

 以下は、自分の思い込みが単に教科書鵜呑みではないロマンだったという、いわば『あぶらやま通信』の続きみたいな話です。

 ヤマザクラヤマブドウヤマナシ、の「ヤマ」や、オニグルミ、オニホウズキ、オニヤンマの「オニ」は、「野○○」同様に、「もともとの」とか「地の」という意味合いなのではないか、といことを以前に書いた。
 実は「アク」にもそういう意味合いを感じているのだが、「悪党」以外に思いつくことばがなかった。
 もちろん「アク」は漢語の「悪」の音なんだが、もともとの日本語に「アク」という言葉があって(「灰汁」はその例のひとつ。)、それを漢語に転用したに過ぎないのではないか。だから「悪○○」は歌舞伎でもアンチヒーローとして人気があった。
 たとえば「アク抜き」とは動物で言えば「去勢」と同質の行為をよぶ。
 その「アク」は「もともと具わっているもの」のことだ。それを「抜き取る」ことで食用化・家畜化される。その「アク」に相当する漢語はむしろ「精」に近いと感じるんだが、どうだろう?
 こちらには「エグ味」という言葉がある。学生時代に使っていた「エグい」のエグなんだが、東京ではほとんど単なる比喩として「エグい」が使われていた気がする。
 ほうれん草や蕨のアクを取るためにはサッとゆがく。タケノコのエグ味を取るためには──こんどテキに訊いておく──。でも、その「アク」と「エグ」はもともとから別の言葉としてあったのだろうか?
 「エグ」もまた「もともと具わっている」もので、食用にするためにそれを抜きとる、漢語で表すなら「精」がもっともふさわしいと思われる日本語だ。

 あるいは、こちらでは「強い」と書いて「コワい」とも読む。「強面(こわもて)」や「強飯」の「コワ」のことです。その「怖い」と「アク」がどこかで混同されて、近世のアンチヒーローの名になったのではないかというのが、今の所の推論です。(記憶によれば既に『平家物語』に「悪○○」というあだ名の強者が登場していたが、その人は別に「アンチ」ではなかった。)
 精しいは「くわしい」と読む。その「クワ」と上の「コワ」は別の言葉であったのか?
 その「コワ」や「クワ」や「エグ」の総称が「アク」で、たまたま音が同じだったので漢字の「悪」を宛てるようになった?
 漢文では、「冒頭の〝悪○○○〟の〝悪〟はwhyやwhereにあたる疑問詞、文末の〝○○○悪〟の〝悪〟は〝?〟にあたる感嘆符だよ。」
 醜悪の「醜」もそうだが、漢字(漢語)自体にそういう意味が含まれていたのかもしれない。こんど用語例を探してみます。