かくてしもあるべきにもあらねば

GFへ
 今朝は期待通りバリバリに氷が張っていた。お陰で耳が痛くて霜焼けになりそう。こんど古着屋に行って耳当てつきの毛糸の帽子を見つけよう。これからが本格的な冬だ。
 散歩の途中、クリークからアオサギがふわっと飛び立った。あれっと思うと、今度はシロサギがふわり。もう8時を過ぎていたから、かれらの食事タイムを邪魔したのかもしれない。

昨日のおしゃべりに追加。
 「生粋だけが貴いのじゃない」と書いた。その通りなのだが、あるもの(ものごと)が永続性をもつためには、常に何かが混入してこなければならない。ふつう我々が「意味」と思っているものは、その混合物や化合物のことなのだ。「金」じたいに意味はない。

『定家名月記私抄 続編』読了
 ひとの読書を妨げるまい、と決めたから、抜き書きはしない。ただ、一カ所前言訂正。一カ所追加。
 最初のときに、自分のことを「無知蒙昧」と呼んだ(そう呼ぶことが爽快でもあった)が、訂正する。
 承久三年(1221年)五月二一日(60歳)。つまり、承久の乱の最中、『名月記』に、「紅旗征戎非吾事」が再び現れる。筆者は、19歳のときの記述は、後に加筆されたのものではないかと推測している。
 先住民の息子は無知ではあるが、蒙昧ではなかった。
 
 あとひとつだけ書き抜きを付け加える。
 貞応元年(61歳)
――この当時の様々な書き物に、たとえば人の死に際して弔問に集まった人々が、かたみに別れ去って行くときに、屡々、悲しみにとざされながらも、かくてしもあるべきにもあらねば、と挨拶を交わして各自の生活に帰って行った、と記されている。
 かくてしもあるべきにもあらねば、帰られにけり。――如何なる大事件があったにしても、人々の生活は続けられて行くのである。また、それは続けられて行かなければならない。

 『名月記』はさることながら、この8年の歳月を費やして書かれた『私抄』は、我々がほぼ無料で受け取ることのできる貴重な遺産だ。何をもって対価とするか。いや、せめて受取証だけは必要な気がする。と同時に、そんな8年間を過ごした堀田善衛に対して羨望の念を覚える自分にほっとする。

 どうやら偶には、この「ぎっこんばったん」をGF以外の人も読んでくれているらしいから、序文を書き写して、いったんの区切りとする。
――国書刊行会本(明治四十四年刊)の『名月記』をはじめて手にしたのは、まだ戦時中のことであった。言うまでもなく、いつあの召集令状なるものが来て戦場へ引っ張り出されるかわからぬ不安の日々に、歌人藤原定家の日記である『名月記』中に、
  世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ、紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。
 という一文があることを知り、愕然としたことに端を発していた。その当時すでにこの三巻本を入手することはまことにむずかしかった。私は知り合いの古本屋を、いつ召集されるかわからぬのに、この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死にきれぬ、といっておどかし、やっとのことで手に入れたものであった。
 定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。
 ましてこの一言が、わずかに十九歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものであった。しかもこの青年が、如何にその当時として天下第一の職業歌人俊成の家に生まれていて、自分もまたそれとして家業を継ぐべき位置にあったとしても、この年齢ですでに白氏文集中の一節、「紅旗征賊吾ガ事ニ非ズ」を援用して、かつ昂然として言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。・・・・戦局の推移と、頻々として伝えられて来る小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日々に、家業とはいえ彼の少年詩人の教養の深さとその応用能力などとともに、それは、もう一度繰り返すとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。

別件
 昨日のセンター試験を新聞で見た。少し易しめか。だったら我が生徒たちも勝負できたかもしれない。
 その評論文の出だしは最悪だった。
――わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホームのことを。
 なんという気持ちの悪さ。
「小説家になりたいのなら、さっさとなりなさい。この国は自由の国なんだ。」
 この人は、なにか勘違いしている。前に書いた朝日新聞と同様に。(この倒置法なら自然だと思うけどなぁ)