白川静『初期万葉論』

2011/07/11

 ″『万葉』における叙景歌の絶唱として、島木赤彦が赤人の吉野讃歌の反歌二首を「自然の寂寥相」に迫るものと称揚してから、茂吉の『万葉秀歌』にもその説を肯定し、赤人は古今独歩の叙景詩人としての名声を確立した。・・・このような讃美のしかたにいくらか懐疑的な批判がみられるようになったのは、近年に至ってからのことである。″ ──『初期万葉論』第四章 叙景歌の成立──
参考
赤人の吉野讃歌の反歌二首
み吉野の象山の際の木末にはここだもさわく鳥の声かも
ぬば玉の夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

 あとで振り返るが、人麻呂の歌にせよ、赤人の歌にせよ、あるいは中国の『楚辞』や『詩経』を初めとする漢詩においても、白川静の言いたいことは、ひとつに尽きる。
 人間が神話や自然や伝統や全体から引き剥がされたとき「個」が生まれ、「詩」が誕生する。「学問」は、そのばらばらになった人間世界を掌握するために作り出された。
 第四章「叙景歌の成立」もその一例、いや一傍証だ。
 ″中国文学のながい伝統において、叙景があらわれてくるのは六朝期の晋宋の際、謝霊運の山水の文学、陶淵明の田園の文学においてである。謝霊運はその反中央的な生きかたのために、ついには誅殺を受けた人であるが、死に臨んでなお「恨むらくは我が君子の志 巌上に泯ぶことを獲ざりしを」と、慷慨の志を時制の句に託した。また陶淵明は『帰去来の辞』を賦して田園に退き、「また自然に返ることを得たり」と世外の自由を楽しんだ人である。その叙景詩は、かれらがその生を託した自然との深い交感のなかから生まれたものであり、自然と自我との合一の場において成立したものである。そのように自然のなかに自己投棄される自我は。社会的には疎外された生である。叙景の文学は、その社会的孤絶の状況において、はじめて成立するのである。″
 が、赤人の歌の意味はちがう、と白川は言う。そのことはもう「白川学入門」で引用した。

 人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の反歌で知られる「安騎野冬猟歌」もまた、人は近代人的に解釈しすぎると言う。
 「やすみしし わご大君」ではじまり、「草枕 旅宿りせす 古念ひて」にいたる長歌の根幹は「寝る」ことなのだ。それは神嘗祭新嘗祭・大嘗会どうように神々や祖先との交感を目的とする行為なのだと言う。(白川は書いていないが、その行為にはとうぜん地霊との交感も含まれていただろうと想像する)
 「見る」ことは、自然を含む対象と交渉し、霊的な機能を呼び起こすことだった。
 「ふる」ことは、とおく離れた人、あるいは既にない人の魂に触れることだった。
 ひとは、旅にでたときに宿がないから仕方なしに「旅寝」をしたのではなく、「旅寝」をするために家を出たのだ。「草枕」とは、そういうことばだった。
 人麻呂の「月かたぶきぬ」も、夜をこめての思念の末に、感応の現れる払暁を迎える。それが「東の野に炎の立つ見えて」なのだ。
 人麻呂は軽皇子の安騎野冬猟の目的(草壁皇子の魂を受け継ぐこと)が成就したことを歌った。それを白川は「呪歌」と呼ぶ。
 ″「安騎野冬猟歌」についている短歌はけっして叙景歌ではない。″
  ──第三章『呪歌の伝統』──
    
 強引さは感じるが、「神話」はドラマチックなほうが神話らしい。白川学とは、何ごとか、何ものかを呼び戻し、呼び覚まそうとする学問のように感じる。


別件
 5月にベルリン・フィルを指揮した佐渡裕ショスタコーヴィチ五番の第三楽章を「白黒の世界なんだ」という。「そこにソロ楽器の単色の(白黒以外の)音色がきれぎれに流れる」