泉屋博古館に行こう

白川静対談ノート

2011/08/31

●山伏の笈の中には首が入っていると言われたものである。──折口信夫──
●「書」は・・・伝達とか記録のためのものではなく、・・・もともと呪符として機能したものです。それが、「書」の本来のあり方で、だから、文字も本来、そういう性格を持っていた。──白川静──
●(殷の最末期)文字が出てきますときにはね、ぼちぼちではなしに、もう一遍に出てくるのです。・・・おそらく四千字くらいありあますでしょう。──白川静──
●中国の場合は、地名がほとんど残っておりません。古い部族の名称も、このような図象がどう呼ばれていたかも、何も残っておらないのです。中国は、歴史の変転が激しかったからですね。──白川静──
●私はプリンストン大学で、日本文学の通史を講義しました。・・・彼らに、古代の日本をアメリカになぞらえて講義したのを覚えています。いろんな地域から日本に移民が入ってきた。彼らが移動した痕跡は各地の地名に残されている。──江藤淳──
●史(ふひと)は皆、百済人であったのだろう。──白川静──
●中国から来た七夕は、通うのは女です。半島(百済)から来たのは、通うのは男ではなかったか。・・・それから、中国のは棚を作って、飾りを附けて、庭先でやるようないわゆる乞巧奠(きっこうでん)という七夕です。ところが百済人のやります七夕は、・・・(天の川を)船で本当に下ったのではないか。──白川静──
弘仁期には(日本人は)漢詩文ばかり作るわけです。その漢詩文の時代(国語暗黒時代)が終わった時に、いきなり『源氏物語』や『枕草子』などの、完成した日本の文学がぱっと出てくる。──白川静──
●『虞美人草』に始まり『明暗』に至るところの、朝日新聞の小説記者になってから後の文章の成熟の速さです。・・・
 漱石がリーダー格で、・・・(徳田秋声や、坪内逍遥二葉亭四迷後)志賀直哉谷崎潤一郎らが出てきた時にはもう、これで書けば小説が書けるという、感情と思想と表現法があるのです。これは新聞記事でなく小説である。純文学の深い思索と人生観が、美しい言葉で語られている。・・・明治30〜40年代に完成していた近代日本の文学語というものが、・・・昭和50年代以後、どんどん崩落していく。──江藤淳──
吉田満青年は、復員して大学に戻ったのだけれども、何をしていいのか分からず呆然としておられた。・・・吉田青年は吉川(英治)先生を訪ねて、私はどうしたらいいのでしょうかと訊いてみたようなのですね。そしたら吉川先生は、体験したことをきちんと書いておきなさい、それでしか立ち直れないよと言ったという。そこで吉田青年は、『戦艦大和ノ最期』を書くのです。──江藤淳──
●「念」の上の「今」は、瓶に蓋をするかたちで、ギュッと心に思い詰めて、深くおもい念ずるという意味・・・です。──白川静──
●幽と顕との世界を合わせたものが、古代人にとっては現実のせかいだった。だから、犠牲に残虐だとかいう観念は入らない。──白川静──
●『老子』に「吾は誰の子なるかを知らず。帝の先なるに象(に)たり」という言葉がある。・・・帝はすでに一つの観念形態としてつくられているのもですから、自分の意識はそれよりもっと前にあるんだ、ということを言おうとしておるんおではないか。──白川静──
 「父母未生以前」という言葉がありますね。ああいう考えと関連しているんですか。──吉田加南子──
 そう。自分の存在の原理は造物主がものをつくる以前に既にあって、造物主を媒介として出てきている。そういう考え方ではないか。──白川静──
リルケが『マルテの手記』で、忘れなければならない、と言っています。経験して、しかしそれを忘れる。忘れたのちに、めぐってくる。忘却を経て、詩が生まれるのだ、と。忘れるとは、個人の経験が、個人を遡って、もっと大きな記憶、個人を超えた共同体の記憶の中に溶けてゆく時間だと思います。──吉田加南子──
●初めて泉屋博古館に行って青銅の酒器や礼器や楽器を見た時、薄暗い部屋の中で、器を通して天地の声が聞こえてくるような気がしたんです。青銅器そのものが、威風堂々として世界と向かい合っている。そしてそこに刻まれた金文、文字が、器の形と、形になりにくい思想、認識と一体となっています。──吉田加南子──


別件
 散歩の帰り路、ライの家の近くで子猫をみつけた。ひょっとしたら、人間を襲ってまで守ろうとした母親の子どもかもしれない。きれいにしていたから、誰かが(ライのお母さんはめっぽう優しい。先代のオーちゃんも、ライも、どちらも拾い児だ)面倒を見てやっているのかもしれない。