檀一雄『さみだれ挽歌』


檀一雄さみだれ挽歌』         




むかしわれきみと竝びて 書もたずそが手のうへに 

質草のくさぐさうだき 銀杏生ふる朱門を入らず 

学び舎の庭に這入らず よれよれの角帽かむり

いづこぞや大川端の おどろしき溝蚊(どぶか)のほとり 

いき鬻ぐをみなを漁り 酒あふり命をあふり 

かきゆらぐたまゆらの夜を たふとしとゐ寝ずてありき 

やがてわれいくさに問はれ 盃を交はさん友の 

つつがなく都に残り 目覚ましや文のまことの 

高きにもいや高き声 鬼神をもゆるがす不思議 

世の人の賞づるを聞きて うべうべとうべなひ去りぬ 

旅を行き旅に逐はれて さすらひの十年を経たり 

いかさまに国は破れて うつし世の妻焚き葬り 

君おるといふを頼りに 東(ひむがし)の都に来しを

文書きのしばし忘れて 世のみなのうつろひゆける 

おもしろくおかしきさまを 思ふままに嗤ひ嘲り 

ひと夜また酒酌みあはん それをしも頼みて来しを 

いかにせむおよづれとかも 君ゆきて水に沈むと 

遅読みの一号活字 寝ぼけ眼こすり疑り 

毎日や朝日や読売 かきあつめ胡座にふまへ 

うつしゑの薄れしすがた 見つつわれ酒を啖へば 

はや三筋あつき涙の たぎりゆき活字は見えず 

早くして君が才(ざえ)知る 春夫師の嘆きやいかに 

よしえやしその悲しみの 師の重きこころに似ねど 

わが涙くろ土を匍ひ さみだれのみだるるがまま 

ながれ疾き水をくぐらん 良き友は君がり行きて 

必ずやきみ帰るべし そを念じしぶかふ雨に 

胆ぎらし待ちつつをらん 悪しき友ただわれひとり 

十歳前君と語りし 池の辺の藤棚の陰

四阿の板茣蓙の上に 葦葭の青きをみつめ 

そが上を矢迅(やばや)に奔る たしだしの雨垂らす見て 

にがくまたからきカストリ 腸(はらわた)に燃えよとあふる 

君がため香華を積まず 君がため柩かたげず 

酔ひ酔ひの酔ひ痴れの唄 聞きたまへ水にごるとも


  池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる  


右短歌一首は伊馬春部に与へたる遺書の末尾に書かれし

   左千夫の歌と聞き、そをかりてみだりに結ぶ



 前回につづき、整理しつつあるなかから出てきた、檀一雄さみだれ挽歌』をのせておきます。この「挽歌」との出会いが、「ふらう」をはじめるきっかけになったように思うから。

別件
 道ばたの草が一斉に枯れはじめた。まるで示し合わせたようだ。きっと毎年こうだったのだろう。こっちが気づいたのがはじめてというだけのこと。
 そういえば、桜の葉が紅葉するのを意識したのは、絶滅危惧種が九大に入院したときだった。(そのとき気遣ってくださった方はもう亡くなってしまった。退院後、「お礼を言いに行く。」というので自宅に連れていくと、立派な挨拶をした。帰り路「いい挨拶ができたな。」と言うと、「そっちのお礼状を読んで暗記した。」)
 柿の葉の紅葉の美しさに目覚めたのも、同じようなころだった気がする。
 市民農園では、辛夷の実がたわわになっている。その実がこどものコブシのようだから辛夷と呼ぶのだというが、なんだかウソくさい.

別件2
 今日は、ヨッちゃんのサッカー・デビューの日。ほんとは2年生大会なんだけど、一年生のヨッちゃんが招集されたのだそうだ。
――テレビじゃ見られんよ。