甲斐大策という人

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追々伸
 
 内田樹の「ユダヤ教無神論に近い」と、田川建三の「存在しない神」について。

 先に、「ユダヤ人は、この世の原初のさらに奥に神が存在していた痕跡を発見した」と書きました。。そのことを時系列化すると、まず「この世の始原の一部が欠損している」ことに気づいたのです。始原が欠損しているのにこの世界が存在するはずがありません。もともとの始原は完全だったはずです。そこにこそ「存在の神秘」の秘密があったのです。かれらはその欠損部分を「神の存在した痕跡」だと考えました。
 ですから、「神はいない」と言おうが、「いる」と言おうが、実は同じことをそれぞれの表現の仕方で言っているにすぎないのです。
 「人類はひとつのことを多種多様の言葉で語り続けている」というのは、そういう意味です。

 バッハやモーツアルトには原罪感覚が希薄なことが日本人のその音楽を受け容れた大きな理由ではないかとも書きました。
 では、原罪という考えはどこから生じたのか。
 私には原罪とは、上の「世界はその最初から欠損していた」という記憶の人間的な言い換えではないかと思えます。人間がその欠損部分を背負ってこの世界を全たからしめること。人間中心主義(ヒューマニズム)とは人間責任主義でもあります。全責任を背負うことによって人間はみずからをアトラス化しようとしたのです。
 しかしそれは、教会にとっての存在意義ではあっても、普通の人間にとってはあまりにも重荷でした。イタリアやスペインの庶民を(映画やテレビで)見ていると、あの人たちが信仰しているのはキリスト教ではなくマリア教なんじゃないかと思ってしまいます。日本の切支丹たちにとっても事情は同じだったんじゃないでしょうか。
 男を知らぬまま身ごもった女。わが子から「女」と呼び捨てにされた母。その自分で背負うしかなかった運命の理不尽さもまた何らかの「欠損」の象徴であり、その単に受動的に受け容れるしかない運命の理不尽さこそ庶民にとっては自分たちの生き様の象徴そのものでもあったのだと思われます。

 甲斐大策という画家が福岡にいらっしゃいます。私たちより一回りくらい年上だと思います。
 彼の父親も画家でした。──「あるとき変な男が家に来て父親と話し込んで帰ったので、「誰か?」と訊くと、「藤田嗣治という最近パリで有名になった男だ」ということだった。──中国で個展を開いたあと(私の記憶が違っていなければ魯迅の弟から)手紙が届き、そこに「この国の下層の人々の美しさを、あなたほどに描いた人間は残念ながら同胞にはいない。」と書かれていたのを喜び、「この手紙だけは失くすな」と息子に言ったそうです。)。のちに満鉄の嘱託になったので、大策さんは大連で育ちました。
 父親の影響もあったのでしょう、敗戦後ユーラシア大陸に舞い戻り、放浪の途中でアフガニスタンに引っかかり、それが彼の一生を決定づけました。いま彼は、自分がイスラム教徒であることを堂々と公にしています。
 タリバンバーミヤンの石仏を破壊したとき、(2001年3月。約15年前のことです。)地元紙に書いた彼の文章をあとで送ります。
 「どうしてイスラム教に入信したのか」という質問に、彼は次のように答えます。
 「その抽象性が性に合ったからだ」
 あとで送る文章にもチラと出てきますが、彼の娘が現地で発熱して一晩中看病したとき、(といっても、ただ見守ることしか出来なかったのですが)夜が明けて娘が一命を取り留めたと安堵した後で、彼のアフガンの友人たちが一睡もせずに祈り続けていたことを知ってお礼を言うと、「それはちょっと筋違いだ」と言うのです。
「オレたちとってアラーは讃美するための存在だ。けっして願い事をする対象ではない。ましてや身近な頼み事をするなんてアラーへの冒涜でしかない。オレたちはただいつも通りに祈っていただけだ。」──ただ一晩中、夜が明けるまで──
 ユダヤ教の神も、イスラムの神も、あるいは本来の仏も、その抽象性において差はない、というのがいまの私の感覚です。
 抽象的だからこそ、人は「カミ」とか「ホトケ」とか、それぞれ彼らのことばでそれを呼ぶことができます。
 抽象的だから、それは普遍性を帯びています。
 抽象的な存在とは存在なのか?
 ですが、その不確かさほど確かなものはない。
 何故なら私たちはもともと原初の欠損から生じたのですから。
 これを逆説だとはとらないで下さい。。
 これまで生徒が「神さまってホントにいるんですか?」と質問したら「いるよ。」と躊躇なく答えてきましたし、これからもそう答えます。「仏さまってホントにいるんですか?」という質問に対しても何の矛盾も感じずに同じように答えます。(そう言えば最近そんな質問を受けたことがないなあ。)
 その一方で「神仏混淆的山川草木虫魚教」を愛していきます。
 結局そうなるんでしょうね。
 信より愛を。
 愛されることより愛することを。
 あと何が必要なんでしょう?