宮柊二『山西省』抄







歌集 山西省 <抜粋>



         宮 柊二










   何草不黄 何日不行(毛詩)
昭和十四年
   
   ?の声 姉同行

?のこゑ怪(け)しく止みつつ音せぬを寂しと思(も)ひつつ墓地抜けて来(き)つ
    
大陸へ立たむ日近し

朝夕に空茜(あかね)してしづけきを誰にかは告げむ征(た)つ日ぞ近き

昭和十五年

飯盒の氷りし飯(いひ)に箸さして言葉なく坐す川のほとりに

  幹部候補生志願を再三再四慫慂せらるることあれども。

おそらくは知らるるなけむ一兵(いつぺい)の生きの有様をまつぶさに遂げむ

  ただ戦ひて、ひそかに死に行かん者の心こそ何人かよくその心を知る。
おほかたは言(こと)挙(あ)ぐるなくひたぶるに戦ひ死にき幾人(いくたり)の友

  事態切迫すること屡々なり

銃眼を部落の壁に刳貫(くりぬ)きて時おかず就かむ配備を定(き)むる

昭和十六年

年祝(としほぎ)のこころ素直にこもるらし峡(かひ)ふかく村に燈(ひ)ともる見れば

父も母もその子の匪(ひ)も帰り来(こ)よ燈影(ほかげ)差して神位(かみ)も舞はむぞ

年祭り過ぎて雪ある邑(むら)を過ぐ明日戦はむ生命を持ちて

きはまりし疲(つかれ)の果(はて)は秋口(あきぐち)の黄沙(くわうしや)の上に相抱き眠る

血に染(そ)みて伏しゐし犬がまた生きて水すする音暫(しばし)ののちに

ねむりをる体の上を夜の獣(けもの)穢(けが)れてとほれり通らしめつつ

自爆せし敵のむくろの若(わか)かるを哀れみつつは振り返り見ず

部隊離脱を守りつつIA隊が死守する丘より月赤く出づ

軍衣袴(ぐんいこ)も銃(つつ)も剣(つるぎ)も差上げて暁(あかつき)渉(わた)る河の名を知らず

あかつきの風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり

磧(かははら)に位置する隊が別れとぞ山ゆくわれへ手を振り呉るる

  故国の便

はるばると君送り来(こ)し折鶴を支那女童(めわらは)の赤き掌(て)に載(の)す

  敵襲

装甲車に肉薄し来(きた)る敵兵の叫びの中に若き声あり

  杏

青々と光のハるる夕まぐれかかる鋭(する)どさを故国(くに)は持たなくに

五月尽(さつきじん)の地に沁むひかり眼に耐へてゆとりあればぞ君らを祀(まつ)る

哀しみは永久(とは)にしあらむ夕ぐれの杏(あんず)に紅き光は満ちて

  在住外人不動産調査

巧みつつ通匪(つうひ)しありと年老いし葡人(ほじん)神父を村の者告ぐ

いかにして運びか来(き)にしオルガンに老いしその妻も肘(ひぢ)載せて迎ふ

石庭(いしには)に屋根の端なる十字架(クルス)の影長く曳きたり夕光(ゆうひ)射しきて

  断片

支那林檎の色あざやけき花挿(い)けて黄沙のよごす硝子戸拭かず

  征旅述思

兵の身に書くこと乏(とぼ)し神のごと井戸斉(いつ)く村に部隊は居ると

帯剣の手入(ていれ)をなしつ血の曇(くもり)落ちねど告ぐべきことにもあらず

幾たびかあやぶみ思ふことひとつ清らに待ちて老いつつかゆかむ

昭和十七年

  中原会戦の前後、おもひをひそかにたのめりし歌。

必ずは死なむこころを誌(しる)したる手紙書き了(お)へぬ亢(こう)奮(ふん)もなし

長き手紙了(お)へにけり側(かたはら)に齢(とし)若き友の眠(ねぶり)は深し

弥生(やよひ)三日にいまだ日のあり雪おける山西の地に届きしひひな



亡骸(なきがら)に火がまはらずて噎(む)せたりと互(かたみ)に語るおもひ出(い)でてあはれ

晋察冀辺区

  八月二日出勤、十月十五日に至る。おほむね八月中旬以降の歌。

陽に照らさるる赤き巌(いはお)の右やや下黒き一劃(いつかく)は草地か何か

左(ひだり)前頸部(ぜんけいぶ)左(ひだり)顳?(せつじゆ)部穿透(せんとう)性貫通銃創(かんつうじゆうそう)と既に意識なき君がこと誌(しる)す

省境を幾たび越ゆる棉の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

山西省五台県砲泉廠(しやう)の高地に戦ひて激しかりき雨中に三日

ありありと眼鏡に映る岩の間(ま)に迫撃砲弾を運ぶ敵の兵

夏衣袴(なついこ)も靴も帽子も形なし簓(ささら)となりて阜平(ふへい)へ迫る

稲青き水田見ゆとふささやきが潮(うしほ)となりて後尾へ伝ふ

高原(たかはら)の空近けれや夕焼けの寒き茜に兵は染(そ)みつつ

目の下の磧(かはら)右岸(みぎきし)に林あり或る時は雨降り或る時は没陽(いりひ)射す

胡麻畑(ごまはた)を踏みゆく若き友が言ふあはれ白胡麻は内地にて価(あたひ)高しと

敵襲のあらぬ夜はなし斥(しりぞ)けつつ五日に及べ月繊(ほそ)くなりぬ

弾幕に五名の兵が死にゆきたり朝あけて低し青樹(あをのき)の高地

休息といふ言葉ありき朝づきて煙なす雲に茜差す見ゆ

榴弾戦を演じし夜の朝にして青葦叢(あをあしむら)に向ひ佇(た)ちゐつ

突然に闇より打ち来(こ)し敵の弾丸(たま)石段(いしきだ)右角(みぎかど)に火花を散らす

護送途次(とじ)ややによろしと伝へ来て死亡を伝ふ二時間の後

女童(めわらは)を幸枝(さちえ)と言ふと羞(やさ)しみて告げけり若き父親にして

落ち方の素(す)赤き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ

  兵隊のさま長閑(のどか)なれば

山椒の赤く鈴なる実の下をよき蔭として兵らは睡(ねむ)る

晋察冀(しんさつき)の秋深いみつつ鶏頭の色づき凄き村々の様

  北陲

  部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命令にあり。

うつそみの骨(ほね)身(み)を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か

龍王峪北側峪地(ほくそくこくち)の雨衝(つ)きて先(さき)ゆきし部隊はいかがなりにけむ

馬家?朶(ばかきつだ)鞍(あん)部(ぶ)に狂ひうばたまの峪(たに)に墜(お)ちゆきし馬五、六頭

身のめぐり闇ふかくして雨繁吹(しぶ)き峪(たに)下(くだ)るは指揮班第一小隊のみ

磧(かはら)より夜をまぎれ来(こ)し敵兵の三人(みたり)迄を迎へて刺せり

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

息つめて闇に伏すとき雨あとの峪(たに)踏む敵の跫音(あおと)を伝ふ

進入を彼知りしなり右に左に火を吐きやまぬ敵トーカチ群

闇のなかに火を吐きやまぬ敵塁を衝(つ)くべしと決まり手を握りあふ

一角の塁奪(と)りしとき夜放れ薬(やつ)莢(きよう)と血潮と朝かげのなか

俯伏(うつふ)して塹(ざん)に果てしは衣(い)に誌(しる)しいづれ西安洛陽の兵

  中条山脈

  山西省の南、陝西河南の省境に接して黄河の流れの東北を占め、蜿蜒する山脈を     中条山脈と言ふ。かの大行山脈の一翼なり。中原会戦はここを戦場とせり。

死(しに)すればやすき生命(いのち)と友は言ふわれもしかおもふ兵は安しも

敵中に楔(くさび)を入れて三日(みつか)二夜(ふたよ)疾(はし)り戦ひ朱家庄に迫る

この一線抜き取れとこそ命下(くだ)る第一線中隊第二隊永久隊(ながひさたい)

泥濘(でいねい)に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

麦の穂を射(う)ち薙(な)ぎて弾丸(たま)の来るがゆゑ汗ながしつつ我等匐(は)ひゆく

麦の穂の照りかがやかしおもむろに息衝(つ)きて腹に笑(わらひ)こみあぐ

この線に戦ふとならし温峪村(おんこくそん)の前面稜線に布陣せり見ゆ

登攀路(とうはんろ)が落下しつづくる砲弾に幾分(いくふん)ならずして跡方(あとかた)もなし

次々に銃さし上げて敵前を渡河(とか)するが見ゆ生(いき)も死(し)もなし

死角より走り入りつつ河渉(かはわた)る一隊に集る敵の弾丸(たま)はや

強行渡河成功したる一隊が赤崖(あかがけ)に沿ひつつ右に移動す

あなやといふ間さへなし友を斃(たお)し掃射音(さうしやおん)が鋭く右に過ぎたり

息つめて我等伏しをり壕を掘る敵兵が見ゆ五十米の前

銃剣が月のひかりに照らさるるを土に伏しつつ兵叱るこゑ

三万の敵追ひつめぬ直接に七千は我と対峙す

伝令のわれ追ひかくる友のこゑ熱田(にぎた)も神(じん)もこときれしとふ

一角に重機据ゑたる十二人訓練のごとく射ちつづけをり

塹(ざん)に拠(よ)るわれら静けし雨裂きて弾着の炎(ほのほ)夜空にひひる

今日(けふ)一日(ひとひ)暇(いとま)賜ひて麦畑に友らの屍(かばね)焼くと土掘る

友の骨抱へて戻る岨山道(そまやまみち)春日(はるひ)熱くて頬白(ほほじろ)啼くも」

限りなき悲しみといふも戦(たたかひ)に起き伏し経れば次第にうすし

はつはつに棘(とげ)の木萌(めぐ)むうるはしさかかるなごみを驚き瞠(みは)る

とらへたる牛喰ひつぎてひもじさよ笑ひを言ひて慰さむとすも

  秋

山くだるこころさびしさ肩寒く互(かたみ)に二丁の銃かつぐなり

見返れば風に揺れつつ吾木香(われもかう)ある茎は折れて空を刺したり

戦死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり


  戦病

  昭和十六年十二月二十六日受診の結果入院を命ぜらる。

病床に臥しつつ読むに新聞はマニラへちかき軍(いくさ)を伝ふ

  断片

  病室のつれづれに読むことあり

  W・ワグナー著「支那農書」 

この夕べこころがけたる色分けの支那地質図を壁に貼りつつ

  費孝通著「支那の農民生活」

此処に述べし開弦弓村(けじゆぐおん)も今は亡(な)し戦火を浴びて亡(な)しと結べり

  晨の検温

あかつきの検温了へて又寝(い)につくならはしを定(き)めて日々過(すご)すかな

山西省の土にならむと言ふ言葉たひらぎのこころに繰返しをり

重き口ひらかしめつつ語る聴けば新潟県西頸城郡(ごほり)の若き兵

みんなみの海に陸地(くがち)にあな悲し炎なしつつたたかふ友よ

  ステファン・ボラチェック作、式場隆三郎訳「焔と色」。米川稔、近藤市雄、矢幡千鶴  の三氏より時を同じくして送り賜ふ。

われを憶ふこころ一つに選(え)りたびぬ戦(たたかひ)にありて読めと此の書(ふみ)


耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

昭和十八年

  昭和十七年十一月四日、?武部隊本部西野曹長より軍用電話あり。偶々「北原白  秋  氏逝けり、君よ知るか」とあり、信じ得ず。

おろそかにものを言ふぞと軍用電話切りて歩めどもとな霜土(しもつち)

  十一月六日、大原の時松寿美氏より至急報届く。白秋先生の逝去、疑ふべからず。

しきりなく朝けの空ゆ散らひつつ乾きし雪のおどろに積る


  冀西晋

つづけざま迫撃砲弾落つるなか右翼よりおこる「捧銃(ささげつつ)」のこゑ

汝が遺骨捧げわが乗る自動車は反動して埋没地雷を幾たびも避(よ)く

黄塵にまみれて石門(せきもん)に着きにけり石門(せきもん)につづきて戦地はあるも

包囲をちぢめ来(きた)れる敵の中にただ二人戦ひたたかひて死ねり

先(さき)逝(ゆ)きし横山の体(たい)を向けなほし一期(いちご)を終りし行動(ふるまひ)かなし

一たびも故障なかりし軽機よと分解して抱(いだ)き自爆せり

没(いり)つ日(ひ)が支那の障子を染むるゆゑ孤(ひとり)の思ひを続くるによし

口ぎたなく罵りし兵罵られし兵一度(いちど)に声上げて抱(いだ)き笑ふかな

識閾(しきゐき)にのぼる言葉ら分類して雨漏る天幕(テント)にしらじらとをり

浮びくる中共論理の言葉群、春耕・犠牲・統一累進税

断片

右の闇に鋭き支那語を聞きしときたゆたひもあらず我等地に伏す

むか山に敵の狼火(のろし)のあがる見つつ三人(みたり)下(くだ)りをり風の峡間(はざま)を

雪曇(ゆきぐも)る寒き峡間(はざま)に道入りて馬叱るこゑ前にうしろに

歩哨を狙撃して過ぎしかの隊に百の婦女隊員をりしを伝えへ来(く)

四歳(よとせ)経て命あるものゐ列(なら)べり今日ひむがしに銃を捧げて

敵地区に潜入しつつわれらをり今日の斑雪(はだれ)に月は照りたり

目の下につらなる部落の幾つかが我に就き敵に就き遂に謀りき

かたぶきて月没(い)る頃ゆいましめて全員非常に就きてねむらず

  戦友一名、命令ありて内地に帰還するといふ。

すこやかに還りてゆけよ夢に見て離(さか)りつつゐし日本の国へ

敵中に揉みこみしの錐(きり)の尖(さき)ぞとぞ汝(なれ)と別離(わかれ)の会(あひ)もせなくに

  帰還暫日

寒?(かんせん)が庭の立木(たちき)に来て鳴くを駭(おどろ)き言へば姉の頷(うなづ)く

還り来て幾日(いくひ)か経にし雨ふかき庭の蓬(おどろ)を刈らむと母言ふ

電燈を勿体(もたい)なしとし消しゆけば我がふるまひを姉妹(あねいもと)わらふ

ある夜半に目覚めつつをり畳(たたみ)敷(し)きこの部屋は山西(さんしい)の黍畑(きびはた)にあらず

大森に支那蕎麦屋なす君が嬬(つま)地図をたどりて今日尋ねゆく

  戦場の体験を詠へと言ふ人あり。

戦場に起き伏しし日と夜のものに身を裹(つつ)む今日とすでにすでに異(ちが)ふ